トップページ > 地理・人類学 > 2017年12月19日 > HeZqzkHi

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Ψ(`∀´ )漁労長 ◆Dog.6X8U/I
前田利常1――家康曰く其方、何としても殺さん
|▽´)金沢市民が富山県に粘着する理由 拾伍

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101 :Ψ(`∀´ )漁労長 ◆Dog.6X8U/I [sage]:2017/12/19(火) 00:14:11.23 ID:HeZqzkHi
鬼女板からつまみ出されてから、キチガイに拍車がかかっとるのぅ。


( ´_ノ`)y━・~~~
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103 :Ψ(`∀´ )漁労長 ◆Dog.6X8U/I [sage]:2017/12/19(火) 00:26:48.76 ID:HeZqzkHi
ここで北陸スレのようにネチネチやらないほうが得策だと思うよ。
ただ、おまえさんの異常性が際立つだけという結果に終わるから。
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105 :前田利常1――家康曰く其方、何としても殺さん[sage]:2017/12/19(火) 19:00:34.11 ID:HeZqzkHi


この関ヶ原の戦いの中で、「お猿」こと前田利常が、重要な役回りを演じている。
――人質
になったのである。もっとも、この時代、人質という言葉は使わない。もっぱら「証人」といった。
前田家の領土の南には小松城主・丹羽長重がいた。前田が南下するには、丹羽領を通らねばならない。丹羽は西軍・石田方に与していたから、
その領内を通れば、当然いくさになる。丹羽の領地は二十万石にすぎず、百万石の前田の敵ではない。たちまち破った。
しかし、丹羽長重は丹羽長秀の子であり、もともと信長の家中であったから、前田家とは親しい。利長は丹羽に対して、これ以上ないというほどの寛大さを示した。
関ヶ原で東軍・徳川方が大勝利したとの一報に接し、負け組に入ってはならぬと思ったのであろう、それまで煮えきらぬ態度をみせてきた丹羽はあわてて講話に応じてきた。
利長は、この虫のよい申し出をうけたばかりか、ともに手をたずさえ軍勢をそろえて、徳川家康の陣に向かうことまで約束した。
まず丹羽の軍勢を先に歩かせ、その背中に前田の軍勢が火縄銃をつきつけながら、ともに行軍して京都に向かった。ただし、たがいに裏切らぬよう人質が交された。
丹羽側は長重の弟長紹を人質によこし、そのかわりとして、前田側からは利長の弟お猿(利常)が人質に遣わされることになった。
この時点で、まだ兄の利長はただの一度もお猿の顔をみたことがなかった。
(これは人質に丁度よい)
と考えついたのは家老たちであった。人質は、いざというときには殺される。こういう場合、会ったこともない、別段、可愛くもない弟がいれば、まことに好都合であった。
前田家の家老たちはさすがに知恵者ぞろいであり、「そういえば越中にお猿というのがいた」と思いつき、「ではそれを人質に」と一同うなずいて、お猿を人質に仕立てた。
おかしなことであるが、人質となったお猿は、生まれてはじめて、まわりから大切にされた。前田家にいたときには、たいして可愛がられていなかったが、
丹羽家ではお猿を下にもおかぬように扱った。話がのこっている。お猿が小松城にはいると、当主の丹羽長秀がじきじきに出てきて、梨を食べさせてくれた。
――自身、梨子の皮など取り進ぜられ候(『松梅語園』)
とあるから、丹羽長重は八歳のお猿をみて、
「梨をむいてあげよう」
といい、長重自身が小刀で梨の皮をむいてお猿に食べさせたことがわかる。利常はこのことをのちのちまで覚えていて、梨を食べるたびに、家来たちに語った。
お猿の非凡さをはじめに見抜いたのは、どうもこの丹羽長重であったらしい。何を思ったのか、長重はお猿の顔をみるごとに、
「利長公はまだ若くて、これから子供も出来るたろうけれど、お前さんは何かあっても最後には、三ヵ国を手にするだろう」
八歳の子どもをまえにして、そういうことをいった(『耳底記』)。
これを後世のつくり話とする人もあるが、私はそうは考えない。史料を読んでいて、利長は凡庸であるが、前田三代のなかで、やはり利家と利常は非凡な人物としか言いようがない。
後年の利常の言行からすれば、たとえ八歳児であったとしても、利常をみて、このようにいう人物が現れてもおかしくはない。
戦国時代の日本をさして「実力主義であった」というようなことが言われる。家柄や慣例にとらわれない人事があったようにいわれるが、戦国日本が実力主義であった前提には、
実は、人間の査定能力ということがよこたわっていた。戦国を生き抜くために必要な能力を一つだけあげよ、といわれれば、それは、
――人目利き
である。もともと、日本人は「査定」ということが得意ではなく、日本史上、他のことにとらわれず、人の能力を正確に査定して適所に使うということが、うまく行われた時代は少ない。
しかし、戦国や明治など、危機の時代には、日本人にどこからともなく、この能力がわいてくるもののようで、そのときは、にわかに実力主義の時代になった。
戦国人の「人目利き」は尋常なものではなく、丹羽長重にもそれが宿っていたのであろう。
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106 :前田利常1――家康曰く其方、何としても殺さん[sage]:2017/12/19(火) 19:05:12.81 ID:HeZqzkHi
ともあれ、八歳のお猿の心に、丹羽長重は、
(前田家の総大将になるかもしれない)
という希望の種を最初に植えた。
この人質生活をおえて、お猿ははじめて、兄の利長に対面した。関ヶ原の戦果として、利長は所領を加増されたが、諸書によれば、
その祝いの能見物の席で、この兄弟ははじめて顔を合わせている(『三壺記』)。当時、祝いといえば、能見物で、前田家一門の子どもたちが一堂にあつまっていた。
ところが、どうもお猿だけは、他の子どもと異なっていた。まず、これから能がはじまるというのに、ちっとも落ち着いておらず、
乳母につれられて、座敷のあちらこちらを遊びまわっている変な子どもが一人いた。お猿であった。生田四郎兵衛という侍が気づいて、乳母のほうに声をかけた。
「この子は誰の子ですかな。目のうちと、骨柄が、余人と違う」
前田家の重臣の子どもとでも思ったのであろう。生田は重ねて、
「これは、ただの人の子ではない」
といった。
(当たり前である。利家公の子である)
と思っていたであろうが、乳母は笑うだけで答えない。生田はさらにジロジロとみた。
「眼の見入りが、他に異なる。大名の子に見える。いい器量じゃ」
「ええ、越中守山で育ったお猿様です」
そこで乳母は子どもの正体を明かした。生田は一瞬、驚いたような顔をして、それから破顔一笑して手をうち、
「ただ者ではないはずじゃ。珍しい殿様ですなあ。そういう弟君がいるとは聞いていましたが、お目見したのは初めてです。今年でおいくつになられます」
と急に丁寧な口調になった。生田はよほど感動したらしく、お猿を肩に抱き上げた。そして居並ぶ子どもたちの席をじっと見回し、一番、上座の席にお猿を置き、
「ここに座って、御見物なさいませ」
と丁寧に言った。驚くべきことに、このときまでお猿は家来筋の子どもたちよりもずっと下座に座らせられていたのである。これが、お猿こと利常が家来にまともに扱われた最初であった。
ちょうとそこに、利長がはいってきた。一番の上座に見慣れない子が座っている。
「あれは誰の子か」
利長はいった。誰の子ではない。このお猿が人質になったおかげで、前田は関ヶ原合戦後、後顧の憂いなく、残敵をみな召し連れて、徳川家康のもとに上洛できたのである。
今回の加増もその功によるところが大きいのであるが、利長は本当にこの弟の顔を知らなかった。生田はあわてて、利長に、
「お猿様でございます」
と耳打ちした。
利長はすぐにお猿を側によび、その顔をまじまじとみた。お猿もじっと利長をみた。最初に、口をひらいたのは、利長のほうであった。
「大きくなったな。眼が大きい」(『三壺記』)、「おまえは目のうちが良い」(『微妙公御夜話異本』)
そういった。利長が何より驚いたのは、お猿の体格であった。当時としては、異常な大男であった父・利家の体つきに、瓜二つなのである。
「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」
とため息をついた。利長は、
(どうも、この子は、たくさん飯を喰いそうだ)
と思ったのであろう。すぐに上木半兵衛という侍をよんで、怒鳴った。
「おい、おまえ。今日からこの子に付いて、朝夕に飯をしっかり食べさせてやれ。ちゃんと育てろ。へまをするな」
養育係の侍二人と、権内という草履取もつけてくれた。お猿の暮らしぶりは、それまで悲惨であったから、かたわらにいた乳母の目には、涙が浮かんだと、記録にはある。
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107 :前田利常1――家康曰く其方、何としても殺さん[sage]:2017/12/19(火) 19:10:10.75 ID:HeZqzkHi
この日を境にして、お猿の生活は一変した。急に、若君らしい暮らしぶりになって、お猿は毎日がつがつと飯を喰うようになり、大きな体が余計に大きくなった。
結果的には、それがよかった。兄の利長には子がなかったから、養子をきめようという話になった。
あるとき、友人の浅野弾正・蒲生秀行・細川忠興らが前田屋敷にやってきて食事をした。そのとき、浅野と細川が、思い切って利長にいったらしい。
「あなた様には実子がない。誰か養子を決めておいたほうがよいのではないか」
利長も心配であったらしい。こう答えた。
「内々、そう思っている。しかし、弟の大和(利孝・利家五男)は公家のようで色が白くやわらかな男。
ほかに七左衛門(知好・同三男)とか七兵衛(利貞・同六男)というのがいるが、どちらも馬鹿なので、私は気に入っていない」(『三壺記』)
あまりに弟たちを悪くいうので、浅野も細川も困った顔をして聞いていたのであろう。利長は言葉を続けた。
「ただ、猿という弟が一人いる。色が黒く、目玉が大きく、おおいに骨太な子。姉に養育させていますが、これを養子にしたい」
いかなる基準で、利長が前田家の跡継ぎをえらんだのかがよくわかる。要するに、戦争のまだ続いているこの時代、馬鹿は絶対に駄目であり、公家のような優男も駄目であった。
お猿のような体躯のがっしりした子が、何よりも望まれたのである。
浅野も細川も「それが宜しい。ついでの折に、言上いたしましょう」といった。
こうして、お猿はあっという間に、
――前田家の世子
となった。越中の片田舎で暮らしていたときには考えられないことであり、
「まさか、あのお猿が……」
と、人々は驚いた。世子になると、名前も変わる。利家公の輝かしい幼名、
――犬千代
を名乗ることがゆるされた。とうとう、猿が犬になるというあり得ないことがおきた。「猿」ではなく「犬」とよばれたこの瞬間から、利常の殿様らしい人生がはじまった。


Ψ(`∀´ )


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