- 愛媛の音ゲー事情22
919 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/04/22(日) 21:40:27.57 ID:M5p3p49Q0 - また北海道への移民は、汗かき型の仕事につくことが多かった東京・大阪組とは打って変わって、
札幌の老舗・今井百貨店を開いた今井藤七など、大きな商業での成功を収めた者も多かったといいます。 「秋田美人」や「新潟美人」は、経済で取り残された地としての町おこしキャンペーンとして喧伝されたものとしています。 話は「歴代人口1位の県」に戻ります。1881年、越前が若狭と共に福井県として分県したことで、 1882年の統計で石川県は5位まで順位を落とします。そこに返り咲いたのが、新潟県(158万1168人)でした。 さらに、そこへ一気に2位にランクインしたのが大阪府(157万2033人)です。この大阪府の大きなジャンプアップは、 実は合併前の1881年の大阪府(58万6729人)より、現在の奈良県の区域も含まれておりずっと大きい堺県(99万7292人) が合わさったことで可能になりました。そして1884年に大阪府が163万2800人で人口1位となり、 その座を4年間守り通します。江戸時代に商業として大発展を見せた大阪でしたが、明治のはじめは大ピンチに陥っていました。 関東式の「金本位制」をむりやり押し付けられての「銀本位制の廃止」のせいで、両替商に取り付け騒ぎが頻発。 結果、約50軒が相次いで破産。「藩債処分」という事実上の借金帳消し処分などにより、大阪の経済は致命的なほどのダメージを受けました。 しかし、大阪取引所や大阪商工会議所などの設立に尽力し、連続テレビ小説「あさが来た」にも描かれた五代友厚の活躍もあり、 後に「東洋のマンチェスター」といわれるほど、紡績業を中心に商工業が飛躍して大阪は復活を遂げたのです。 その後も大阪は発展を続け、1925年の国勢調査では市町村単位でも、大阪市(211.5万人)が東京市(199.6万人)を抜いたこともありました。 3位が名古屋市の76.9万人、4位が京都市の68万人ですから、大阪市は日本でも相当な人口を持っていたことが伺えます。 なお大阪市の1位はその次の1930年の国勢調査まで続きますが、東京市は隣接する5群82村を合併したことで面積を7倍近くに広げ、 1935年の国勢調査では東京市(587.6万人)に対して大阪市(299万人)と、大きく差をつけられました。 しかし当時、人口密度では大阪は東京の1.5倍という日本一の超過密都市であり、東京に負けない 「大大阪」としての姿がそこにあったのです。
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