- 本因坊秀哉(田村保寿)を語る
445 :名無し名人[]:2024/02/01(木) 00:15:09.91 ID:jmxrxBWq - 村松梢風「本朝烏鶯争飛伝・古今碁譚」(大正8年)より
碁に関する珍談奇話は乏しくない。 かつて、二十一世本因坊名人田村氏(本因坊秀哉)が小石川辺へ用達に赴いた帰り途、 ぶらぶら遣って来ると、夏のことで俄か雨に出遇つた。合憎、雨具の用意も無く、 当惑しながら不図かたへを見ると、さゝやかな碁会所が眼についたので、雨宿りの積りで駆け込んだ。 すると四五人の常連がしきりに打ってゐたが、折柄手隙きの席亭が田村氏を側へさし招き、「どれ位お打ちか」といふ。 まさか名人とも云はれず、まだ初心だと答へると、「それでは先づ四目も置いて御覧なさい」といふので、 とうとう本因坊が四目の置碁(下手番)を打たせられたが、どう苦労して負けて遣りたくても、 席亭の石が独りでころころ死んで仕舞ふので、始末におへない。 すると席亭先生感心して曰く「なかなかお強い。それに性のいゝお碁だ」。 同時にこんな噂もあった。本因坊は近頃わざわざ市中の碁会所へ、ヘボ碁を見物に出掛ける。 それは、なまなか上手な碁を見ても参考にならないが、ヘボ碁に限って折々奇想天外の奇妙奇天烈な手を打つので、 大いに会得することが有るんださうだ、といふのである。(※注) ところが、これらの話はどちらも嘘だ。その後私が本因坊に面会した折に訊いてみると、 毛頭そんな覚えはない、第一自分は未だかつて碁会所へ足を入れたことが無いと云ふ。 総じて奇聞逸話などいふものは、根を洗って見ざれば信用の出来ぬものである。 (※注)この風説(デマ)は、十九世・本因坊秀栄のエピソード(下記リンク先)が誤って流布されたものかもしれない。 https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamestones/1257573901/0140
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- 本因坊秀栄を語る part1
142 :名無し名人[]:2024/02/01(木) 00:20:29.72 ID:jmxrxBWq - >>140のエピソードが元になったのか、後に(大正時代)、当時の名人本因坊であった田村氏(本因坊秀哉)が、
「素人のヘボ碁を参考にするために、碁会所見物をして回っている」という都市伝説が流布されたそうだ https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamestones/1232819103/0445
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- 【坂田】昭和の囲碁界について語るスレ【高川】
322 :名無し名人[]:2024/02/01(木) 23:40:27.51 ID:jmxrxBWq - 高川格「大手合再開」(昭和21年)より
昭和20年5月25日の夜から26日の暁方にかけての空襲で、麹町の日本棋院も丸焼けになつてしまつた。 棋院が焼けた時は、丁度春の大手合の期間中だつた。 あのはげしい空襲下に、大手合をつゞけるかやめるかといふ事が問題になつた。 何時警報が鳴るか分からぬし、食糧や交通事情の悪い情態では、それは生やさしい事ではなかつた。 しかし手合が棋士の生命である以上、如何なる障害があつても大手合だけは続行すべきである、 といふ議論が大多数を占めた。そうして大部分の棋士が参加した。 棋士といふ人種は、それが職業といふばかりでなく、本質的に碁が好きなのだ。 碁が打ちたくて仕方がないといふのが正直な気持らしい。 坂田君との手合中に、警報が鳴り出して、山王さんの防空壕へ2時間ばかり退避して、 又のこのこ出て来て手合を続けたこともある。 棋院の焼失によつて、大手合も遂に中絶の止むなきに至つた。
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