- 【囲碁】名人戦Part68(第47期~)
791 :名無し名人[sage]:2022/11/07(月) 00:03:25.31 ID:lMvmEAcu - >>787
「主語と述語の対応」「てにをは」が全体的におかしいぞ 笑 やっぱり国語の点低そう >元々虎丸を、井山より格下に見てるとしか思えない 虎丸がこれまでの実績において、 とくに2日制の直接対決の結果において井山より格下だったのは確かだ。(今でも実力ではなく実績では依然格下だけど) それはそのように書いた。単なる事実だ だが、そういう過去の格付けをくつがえすような結果を虎丸が出せそうにないなどという論評はしていない。 つまり虎丸の今現在の「資質」「実力」において虎丸を実際より低く見ることはしていない 俺がたとえばもし 「虎丸は今回はまだ奪還できないだろう」「どうせ最終局は負けるだろう」と書いたのであれば その場合は見る目がなかったことになるが、 俺はあくまでも中立的な立場から 「虎丸はいま壁を目の前にしている。 今回もし勝てればその壁を越えたことになる(春に一力が棋聖奪取して壁を越えたのと同じように)」という意の 客観的状況を書いたに過ぎず 虎丸の勝敗そのものについては何の予想も述べていないのだから 虎丸を実像より下に見たことにはならない 「官軍だから問われなかった」も何も、俺は最初から何も予想していないのだから 問われるべき責任もなければ言い訳すべき言質も何もない
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792 :名無し名人[sage]:2022/11/07(月) 00:17:37.24 ID:lMvmEAcu - >虎丸は張栩から名人を取った事も立派な実績だし、その張栩に前年負けたのは
>井山そのものだろうが! あ~分かってないな そんな単純な話じゃないよ 棋士人生には段階というものがあるのだから 張栩は確かに名人を取ったのは凄かったが それは張栩の棋士人生の黄昏時のいっときの煌めきのようなものだ 名人取る前は急に何年もタイトル戦出れなくなって 台湾に帰ったり試行錯誤して苦しんでいたからね もちろん張栩が今後まったくタイトルを取れないとは言わないけど、 もうピークは10年くらい前に過ぎた棋士であり 今後いまの3強のような活躍をすることは考えにくい 張栩と虎丸という同じくらいの強さの棋士で、 そういう斜陽の段階にある方と 若く日の出の勢いにある方とがぶつかれば それはタイトル譲ることになるのが自然な流れというものだ (趙治勲もそのようなことを言っていた) でも、井山はまだ現役バリバリの頂点の棋士だから、 そこから大三冠をひとつ奪うのは張栩から奪うのとでは別の物語になる。 棋士人生という物語におけるステージがちがうのだ
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793 :名無し名人[sage]:2022/11/07(月) 00:40:24.46 ID:lMvmEAcu - 張栩もかつては井山の前に壁となって立ちはだかった
(ただしこちらは最近の井山という壁に比べれば少々もろい壁だったが…) そして、井山がそれをはるかに越えて圧倒的に実績を積み重ねて 張栩と井山の間の「格付け+世代交代」は終了した 2018年に張栩が井山に勝った名人戦は それ自体はもうそういう格付けとか世代交代という物語性は持っていない。 そういう物語の段階がとっくに完了した後での、 すでに戦い尽くした長年のライバル同士の余興のような、単なるひとつのタイトル戦にすぎない そしてその翌年に張栩は虎丸の前に名人戦で対峙したものの 残念ながらそれはもう(かつて張栩が井山の前に対峙したときのような)「壁」と言えるものではなかったのだ。 壁がないので、壁を越えるという物語性もない では物語性のあるタイトル奪取とは何かと言うと それが今春の一力の棋聖奪取や今回の虎丸の名人奪取だ。 2日制の魔王をついに倒して、世代交代の始まりの象徴となる番碁となった 2018年と2019年の名人戦という棋界史における「意味」の薄めな番碁の結果を 「虎丸が初めて2日制の井山を倒すかどうか」という「意味」の濃い番碁の予想の前提に置くことは不適切なのだ (なぜ2018年の名人戦の意味が薄いかというと、 張栩が名人を一期とったくらいで張栩と井山との格付けが今さら大きく動いたりはしないからであり、 2019年においても、虎丸が張栩から名人を譲り受けることに意外性がないからである)
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794 :名無し名人[sage]:2022/11/07(月) 00:55:20.77 ID:lMvmEAcu - 今年の春に一力が井山から棋聖奪取したとき、
勝利者インタビューで一力はすこし涙声になる場面があった すでに1日制タイトルは井山から奪った経験があったのに、 なぜ今さら感涙したのか? それは、2日制タイトルにおいて勝つということこそが 真に井山越えの象徴であるからだ 一力が井山にタイトル挑戦し始めたときの 大連敗という挫折から始まって、そこから4年ほどの時を経て ようやく挫折から這い上がって井山越えという結果を出すことが できたという感慨が一力の声を震わせたのである (もっとも、一力の場合、せっかく壁を越えたのに また壁の前に戻ってしまったようなのだが… 虎丸がこのようにならないことを祈らなければならないだろう) というように、1日制と2日制とでは 囲碁界における、とくに対井山における物語性が別物なのである。 その文脈のちがいがわからないようでは棋界ウォッチャーとは言えないだろう なので「一力や虎丸は1日制ですでに井山に勝ったことがあるから 2日制での壁や呪縛はもう存在しないはずだ」というような解釈はまったく成立していないのである
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797 :名無し名人[sage]:2022/11/07(月) 07:20:42.28 ID:lMvmEAcu - 昨日、というか今日書いた意見だが、頭使って疲れたのか
最後の方で1日制と2日制の比較で締めたのは論理構成がおかしかった。 寝床に入ってから気がついた 書いたことの中身自体はれっきとした自分の意見の一部なので訂正はしないが、 「今この流れでそれを書くか」という観点からはおかしかった 本来書くべきことはこうだった。つまり 「一力にしろ虎丸にしろ、既に張栩を越えていても なお井山に対しては乗り越えるべき重たい課題があった」ということだ (何度も張栩を引き合いにして張栩に対しては申し訳ないが)
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798 :名無し名人[sage]:2022/11/07(月) 07:43:12.65 ID:lMvmEAcu - 一力は井山にタイトル戦で挑戦し始めたときには既に張栩の位置は越えていたが、
それでも「対井山戦」の1、2年目は無惨な成績で始まり、格の違いを刻み込まれる所から始まった 虎丸も、張栩から名人を奪取する前から既に位置的に張栩を越えているくらいだったが、 井山との2日制の番碁の最初の2つはともに1勝4敗で終わっていて、 これも井山との格の差を思い知らされる結果だった もし2勝4敗であったなら実力的に五分に近いが、 1勝4敗が続いては統計的に実力差を見出せる さらに虎丸は翌年の本因坊戦で3勝1敗から3連敗してしまい 井山に本因坊十連覇を許してしまう(治勲の記録を治勲だけのものとして守れなかった)という トラウマ的な思いを味わわされてしまった このように一力にしろ虎丸にしろ、張栩を越えたあとでもなお 対井山において克服しなければならない分厚い課題があったのであって 「張栩が井山から名人取ってるから、張栩より上の自分は井山に2日制で勝って何もおかしくない」などというような 棋士それぞれの二者間の格付けの形成過程を無視した 単純な論法は成立しないのである 一力の棋聖奪取後の感涙が、そこに確かに一力自身も認識する長い道のりがあったことを示している。 その文脈を読み取れないようでは棋界ウォッチャーとは言えない …ということを昨日は書くべきだった
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823 :793[sage]:2022/11/07(月) 23:03:10.59 ID:lMvmEAcu - 2018年の張栩と井山の名人戦を「余興」と書いてしまったが、これは言葉が軽すぎた。
張栩の凄さ、張栩ここにありを示した戦いだ。 棋史的にそれほど重要なタイトル戦ではないが、余興というほど軽くもない。 じゃあ何と表現するか、うまい言葉がすぐに思い浮かばないし、もうこれ以上考えるのが面倒くさい。 しかしとりあえず余興はまずいと思ったのでこの言葉は撤回しておく。それだけ
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