- 隅の曲がり4目無条件死への不満 [無断転載禁止]©2ch.net
33 :名無し名人[]:2018/01/29(月) 01:58:50.32 ID:aUmNvV1F - 今でこそ「ルールはこうなっている」で説明ができるが、
100年前のアマの人達は合意が得られない場合にいったいどうしていたのだろう? 明治の近代までは両劫ゼキ仮生一が認められていた時期もあったし、 昭和には劫ダテが強ければ本劫手入れは不要だとするいわゆる秀哉の裁定も力を持っていた。 ならば曲がり四目についても、実戦解決するまではセキ扱いだったりそうでなかったり、 碁会所ごとに違っていたりしたのだろうか。 >>11 《取りに行こうと思えば何時でも取りに行ける》 これは嘘。 何時でもというからには、「直ちにでも」取リに行けなければならないはずだ。 ところが、一般的な死石と違って曲がり四目の場合には、直ちにというわけにはいかず、 劫ダテがゼロとなった局面になって始めて無傷に劫を仕掛けて取りにいくことができる。 それを実現すべく劫立てを消したりあるいは劫を仕掛けるまでには、当然ながら ゲーム最大の目的である地が変化することになるが、これを省略できるという主張は俄には受け入れ難い。 なぜならば、劫ダテがゼロにならなけれは、一方的に取りに行けるという前提が成り立っていない。 しつこいようだが、劫ダテがゼロでない限りは、必ず相手方からの劫ダテによって、 新たに別の箇所に取られうる石ないしは相手方の取られえない石が生じることは避けようのない必然だ。 そしてそれは、劫ダテが存在する限りにおいて、相手方の有する絶対的な権利であるからして、 これを無条件に放棄せよという命令には人間の心情として到底従えないのである。 死活の原理原則に基づいて考えるならば、曲がり四目はセキであると主張することは十分可能だろう。 あるいは、取らず三目や一方取りが実際に解消しなければセキとなる理屈を全局的に拡張することによっても 曲がり四目はセキとして考えうる。 さらにはもっと単純に考えて、実際に曲がり四目を解消するためにはいずれにしても本劫が発生するが、 本劫手残りは劫ダテにかかわらず解消が必要だと決められているのでこれを主張することもできるのではないだろうか。 ただし、その劫は相手方からの手段で生ずるものでもなければ相手方の取り番でもないので、同じ事情というわけにはいかないが…。 つまりは、兎にも角にも曲がり四目というのは他のいずれの類型にも属さない例外中の例外であって、 通常の死活判定の理などもはや何ら判断材料にはなりえないというわけである。 よってこれを理解しているか否かは、純粋な棋力とは無関係だといえよう。 >>26 単純に知識として知っているかどうかだ。 そして、無条件死に対する上述したような疑問は、 このようなスレが過去幾度となく建てられたり、あるいは実際の対局トラブル等からみても明らかなように、 日本で囲碁を覚えた人ならば結構な割合でぶつかる問題のように思われる。 つまり、それだけ直感的には受け入れがたい決まりということだ。 そうなると結局のところ、「曲がり四目無条件死」の説明は、 部分死活論を、碁の原理原則と同様の普遍の定理として受け入れてもらう他は、社会的合意を得るのは困難であろう。
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34 :名無し名人[]:2018/01/29(月) 02:00:03.92 ID:aUmNvV1F - >>13
《相手の石の死を証明するための手入れは整地計算における減算根拠にはならない》 これも誤謬だ。 ここでの>>12の「手入れが必要」という発言の真意を読み解くならば、それは 「手を入れて解消するまではそもそも死石とはいえないのではないか。」 という意味に他ならないだろう。 石が死んでいなければ、手入れもへったくれもない。 よって、「地はそう数える慣習となっている」というような答えでは、 「曲がり四目は無条件死という慣習となっている」と答えるのと同じであって循環論法に陥っている。 でもどういうわけかプロですら知ってか知らずか、この誤謬を説明に利用する棋士は多いように思える。 手入れの要・不要は、死活論を確立した上に始めて語られるものだ。 あるいは、手入れ問題を語ることこそが、死活論を語ることだと言える。 書き始めに如仏の判決や秀哉の裁定に触れたことからも明らかなように、 死活論が変われば手入れ=地の数え方も変わるわけである。 そうであるならば、前述の理由によって、 手入れ―というよりも、実戦解決により解消しなければセキであると主張することは十分可能なはずだ。 とはいえ、実戦解決というのにしても、それは劫ダテさえ無くせば認められるのか、 あるいはハマまで損して劫を仕掛けなければならないのか、これまた個人の価値観にも依りかねない微妙な問題だ。 >>27 日本の囲碁の成り立ちとして純碁を持ち出して説明するのは間違ってはいないし、それで納得できる人もいるだろう。 とはいえ、やはり純碁は所詮別のルールのゲームだ。 純碁を持ち出すならば、セキが併存するケースや、あるいは切賃についても語らねばなるまい。 やはりどこまでいってもこれの正確な説明は、部分死活論を抜きにしては、論理的根拠を与えることは極めて困難だと言わざるをえない。
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35 :名無し名人[sage]:2018/01/29(月) 02:34:08.64 ID:aUmNvV1F - とはいえ、部分死活論(ようするに現行規約の「死活確認の際における同一の劫での取り返しは…」等の取り決め)が
囲碁のルールとして合理的で正しい在り方なのか、というと、これまた多方面から賛否両論がある。 この事実を先入観を振り払って真正面から捉えるならば、それらの意見はまさしく、 日本の囲碁における曲がり四目は本当に無条件死なのか?という問いそのものではないだろうか。
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