- 信長の野望・創造 16作目
385 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 09:34:11.21 ID:bvj0HBnQ - >>378
史実での織田の戦績は以下の通り ○織田対上杉 謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝 謙信死後… 御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに 越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に 派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退 新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞 連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000) から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍 上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって 2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生 金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず 滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞 上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田 武田対織田… 上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属 三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死 岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり 高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す 信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり 長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り 山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前 まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死 ○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる 勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦 ○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。 徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく 秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで 1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北 二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる 蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される 以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
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34 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:16:16.84 ID:bvj0HBnQ - >>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない >>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから 根拠は? >>退却はそれ以後の話なわけだ そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。 >>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ >>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。 顕如書状でも>>419の文書でも6/21になってる >>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。 なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない >>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、 >>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城 >>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。 根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ >>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。 根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある >>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。 んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明 >>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、 >>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。 毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ >>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ 全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ 以下が正しい日付年表ね 4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ 5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む 5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、 5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、 5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、 5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、 仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、 5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、 6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す 6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、 7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る 7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、 又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
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35 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:17:02.25 ID:bvj0HBnQ - >>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
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36 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:18:06.35 ID:bvj0HBnQ - >>はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。
はぁ?全部山口県史資料編と兵庫県史資料編と島根県史資料編から抜粋しただけだが? >>山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww どこにそんな内容が記述されてるのか書いてみろよクズw 山口県史資料編表題部には花押の書かれてるものしか乗ってないしその花押確認を写しに頼ったものには印影と 記載されてて偽者認定されてる書状なんてほとんどねーだろカス >>(上月城の戦いがあったとする天正6年の湯原分ですら偽書状扱いして山口県史もガン無視www) どこで偽書状認定してるんだよアホ >>つべこべ言わずに研究者も出典として使う一次史料認定されている 毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書 三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書 それ以外偽だと決め付けて一切排除してるの三鬼とか馬鹿な歴史家だけだよ 山口県史資料編中世三巻凡例 2ページ目 正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし 近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした 現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に 何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。 でソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず 偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ 天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、 去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人 所、羽築・荒木所へ… 天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、 天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、 尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、 7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由 7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条 7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条 10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、 12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、 天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、 彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、 因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田… 天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、 御粉骨之段、神妙被思召通、 天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
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37 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:19:04.11 ID:bvj0HBnQ - 天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人 所、羽築・荒木所へ… 天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、 天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、 尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、 7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由 7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条 7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条 10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、 12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、 天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、 彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、 因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田… 天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、 御粉骨之段、神妙被思召通、 天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
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- 毛利を語ろう
38 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:20:33.15 ID:bvj0HBnQ - >>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
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47 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:52:03.15 ID:bvj0HBnQ - >秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある >小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた) 根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙 >>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう) 北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ 天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし >城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。 >早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww 何が問題なんだ? >下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。 >ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。 それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから 一点に集められる兵力は減るのは当たり前 >>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。 根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類 >(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない 根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。 20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。 >つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww 後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね >前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる 。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw 根拠なし >3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw) 300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか 相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め) >松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw 北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても 山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、 それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな >6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw 後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね
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48 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:52:48.97 ID:bvj0HBnQ - >そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集) 北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能 >>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて) お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える 享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4 四×20万で80万くらいいた事になるなw >>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や 北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当 >農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに 農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている >>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。 根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類 >(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない 根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。 20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。 >>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w 秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな >>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換 当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな
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49 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:56:11.66 ID:bvj0HBnQ - >>えっ捏造だとする根拠は?wこれだって信長公記だけに書いてあるわけじゃねーぞ。
>>そもそも金崎の退口という言葉自体が三河物語の記述からだし。そこでも秀吉が重要な撤退指揮したと書いてる。 それは今では定説になってる。三河物語の記述が元亀元年庚午二月日と月単位で大きくずれ過ぎているので全くソースにならない。そもそも三河物語の浅井朝倉との攻防全般の記述が デタラメばかりなので(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている) >>しかも波多野秀信宛に書かれた義昭奉行衆の一色藤長の5/4付け書状の内容でも(信長は4/30帰京) 秀吉の活躍で退却できたとは書いてない。そもそも朝倉軍が積極的に追撃してきたのか戦いがあったかすらわからない。現に信長公記には木下を残したとは書いてるが 朝倉が追撃してきて激しい戦になったとは全く書かれていない。朽木の奔走で朽木超えに成功したとあるだけ。 >> 金崎城に秀吉・光秀・池田勝正が残されたと書いてあり秀吉はきっちり残留組だ。 池田の軍が3000もいて、軍の主力をなしていたとするのが現在の定説で、これに木下明智に徳川が加わればかなりの軍勢になるので、防衛・撤退くらい余裕 朝倉の追撃がどの程度あり、どのような合戦があったかわかる史料が講談くらいしかないので論外 >>そればかりでなく、上洛成功し信長が美濃へ帰国する際10/26の5000を指揮して京防衛守備武将として残された中にも秀吉はいる。 それが何がすごいんだ?あと、一応史料提示もよろしく >>そして正月の三好らによる本國寺の義昭襲撃を排除してる。 三好の軍勢数は?5000の軍勢で排除できないほどの大軍なのか? >> 閏5/25付けの東寺の寺領安堵や10/9阿弥陀寺への兵士寄宿免除などから武将としては秀吉だけを残しているのが判明してる。 そりゃ他の方面の敵が心配だったってだけだろ。どこが困難な仕事なのか不明 >> 秀吉はもっとも困難な軍事的困難なことを常に任されてきてんだよアホ いや最も楽な仕事しかしてない。箕浦合戦では敵軍が結束力のない一揆勢だから勝てたと勝利の理由を信長公記でもちゃんと書いてるし >>しかし秀吉が浅井戦線最前線に転出し敵中孤立して張り付くとさっそく幕府との関係を瓦解し始める。 そりゃ単に織田軍の兵力と敵軍の兵力比の比が大きく変わったので戦況が大きく変化しただけ。むしろ金ヶ崎といい熊見川といい三木合戦の醜態といい秀吉が出てくと 必ず負け戦か大苦戦にしかならないのでそれだけ雑魚だった証拠 つうかお前他スレで金ヶ崎はなかったなどと書いてるのに平気で矛盾した事書くんだなw 71 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:22:30.76 ID:/rnb16KK 織田厨はバカ無知だから相手すんなw どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。 実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が 天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった 北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には 義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。 信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。 信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて 六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では 六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし 信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して 義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし 婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により 浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし 二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから 信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う 浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず 義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。 言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。 5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
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50 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:56:53.28 ID:bvj0HBnQ - >> そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
デタラメ書くなよ。信長公記にも上月城とはっきり書かれてるし天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状にも上月城とハッキリ書かれてるわ また天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙した際の書状にもハッキリ上月城と書かれてる(阿波国古文書) >>じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。 いやむしろ七条城と読んでるのが偽文書。同年の多聞院日記4/29条にも上月城を助けるため滝川明智などを送ってるのがわかるし 熊見川の戦いをはじめ、上月城攻防関連の毛利の史料は山口県氏史資料編により、原本によって花押の確認が取れた書状ばかりなので全て本物。むしろ 七条城などとデタラメ呼称で読んでるのは全て秀吉や織田方が後年になって偽作した偽書状 >>12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書) 宇喜多はこの時期出陣などしておらず、国内での政務におわれてるのが一次資料で確認できるため、明らかに偽書状 71 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:22:30.76 ID:/rnb16KK 織田厨はバカ無知だから相手すんなw どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。 実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が 天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった 北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には 義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。 信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。 信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて 六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では 六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし 信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して 義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし 婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により 浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし 二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから 信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う 浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず 義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。 言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。 5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣 どうみてもお前のレスです。本当にありがとうございました。 >>俺は浅井がこの時期、京へ向けて進撃していたから朝倉との挟撃は無かったと主張していただけだ。 挟撃されないなら普通に窮地での撤退戦などありえないし容易に逃げ出せるし最低でも5000そこそこが残ってる金ヶ崎を朝倉が単独でせめても 大して織田方も脅威にならないしそもそも実際に攻めて撃退したという史料がない。 >>家康が置き去りにされてたところで、秀吉の活躍で命拾いしたわけだ。 家康・秀吉・光秀・池田なら一万は超えそうだしそんなんで朝倉単体で攻めてきて金ヶ崎を守りとおしても特別凄いと思わん まして実際に朝倉が攻めて来たという一次資料もない。信長公記にも木下を残したとは書いてるが 朝倉が追撃してきて激しい戦になったとは全く書かれていない。朽木の奔走で朽木超えに成功したとあるだけ。
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51 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 12:57:56.62 ID:bvj0HBnQ - >>はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目 でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目 正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし 近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした 現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に 何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。 んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず 偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない >>秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて お前天正8年にやっと但馬が平定した事もしらんのか。天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書で)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし 5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている 6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている >>あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ そんな3ヶ月も重要合戦の日付を間違えるような糞記憶力じゃ話にならん。完全に記憶違いで合戦の存在自体噂で聞いたか後であやふやな記憶をデタラメに思い出したか知らんし >>つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。 何がおかしくないのか不明。そんな3ヶ月も重要合戦の日付がずれる糞史料を直接的ソースとして用いるとか話にならん。 >>それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。 なぜそう解釈できるんだ? >>それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは >>北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。 再度の越前侵攻のため残されたなら金ヶ崎の退却のため残されたという論拠には全くならない。他の目的に備えられたと考えるのが普通 三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に >> あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて んで、実際に金ヶ崎で残留部隊と朝倉が衝突したというソースは? >>月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ そんなデッチ上げの全く記憶違いの嘘文書が直接ソースになると思ってるお前の脳味噌の方が凄いよ
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52 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 13:01:11.97 ID:bvj0HBnQ - >指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
>『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、 >当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず >秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで 箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外 そうでないのなら信長に従ってる身分とただ協力関係で指揮系統あいまいな一揆軍じゃ話にならん >『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、 >秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、 >秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある 当代記にそんな記載ありません >「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん コピペは全て客観的事実です。 >秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、 滝川戦も柴田戦も信雄も明智も北条も常に圧倒的大軍で大苦戦か大損害です >対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる 斉藤戦ではそもそも大軍を直接蹴散らさなきゃいけない仕事はしていない 浅井朝倉では箕浦のみ 毛利戦は別所に大苦戦してのぶながの援軍呼び寄せて何年もかけて播磨統一 毛利がなかなか出でこない上に南条や宇喜多に足取られてから勝てただけ。 >それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」 >って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、 >本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて >戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね 織田政権で同格以上だった諸将を率いてた事実なぞ存在しない 池田も森も丹羽も信長政権下では知行高や立場で秀吉よりずっと下。 むしろ秀吉の戦った相手の方が連合軍の体を成していたり(徳川織田)篭絡されて積極的に戦わなかったり(柴田) 戦意に乏しかったから(北条)そんな状況で圧倒的大軍で苦戦したり大損害受けたり瞬殺できない秀吉がいかに戦下手かわかる >残念ながらこっちは『信長公記』『松下文書』『当代記』に加えて >残念ながらこっちも浅井文書 >藤本氏や谷口氏の研究も参照してますから 秀吉側に都合いい情報だけ抽出してな >プロ野球がどうこうとか余人に理解出来ない屁理屈捏ねるだけの君とは違うんだよ 屁理屈ではなく当然の理屈 >正確に言うと樋口の家臣である多羅尾相模守(とその更に家臣)の奮戦ね そんなら樋口が秀吉の指揮に従ってる事が証明されてるんだから 一揆側のようなまとまりのなさは露呈してないのは明白 軍の形態の違いだな プロ武士団のいる戦闘プロ集団とそれがいないオール素人軍団 >秀吉が箕浦合戦で采配を振るって自軍を勝利に導いたのは『信長公記』に書いてある通り 堀軍の奮戦に助けられただけ >つうかせめて『信長公記』くらい読めよ 信長公記を読まないよりも曲解したり詐術的に論ずるほうが問題 >少なくとも山崎の戦い(対明智戦)での織田信孝、 >賤ヶ岳の戦い(対柴田戦)での織田信雄は秀吉より格上の存在だったが >なんでそこで「事実なぞ存在しない」と自信満々で言い切っちゃうのかが分からない 信孝は主君、それも親が殺されたわけだから一致団結して戦意があがるのは当然 身分云々以前の問題だから指揮系統が弱まるどころかさらに強まるだろうね これで秀吉の指揮聞かず自分勝手じ動くならよほど親が憎いか秀吉の指揮能力が糞なんだろうね 信雄は対柴田戦では織田後継者問題が秀信に落ち着きしかもその後見秀吉が 光秀を討ったという事実から事実上織田家を乗っ取った形だから 完全に秀吉より格下。信雄の領土なぞ尾張伊勢といったごく限られた地方だから 領土も立場も格下。そもそも神戸は分家だから後継者にならないのなら他の家臣と 立場何も変わらん。
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- 毛利を語ろう
66 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:20:12.50 ID:bvj0HBnQ - ○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人 戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市 梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎 森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太 また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが 文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており 3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
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- 毛利を語ろう
69 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:23:28.57 ID:bvj0HBnQ - 秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ 加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ 織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと 顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから 徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし 他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる 大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと ○長久手合戦の戦死者は1万人以上 4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人 戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市 梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎 森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太 また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており 3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ 京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど 小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦 の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
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- 毛利を語ろう
70 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:24:16.04 ID:bvj0HBnQ - 4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ 4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる 4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる 秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる 完全に持久戦の態勢に入っている 4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示 田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示 4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示 各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示 4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する 4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た 4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた 播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた 5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した 5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが 美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ 信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため 本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える 5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した 5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので 近日討ち入るつもりだ 5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた 5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である 各高名の者共この内に申すべく候 5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く 敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである 5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる 5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である 5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した 家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ 先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った このほうの本意がなるまで程ない状態である
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71 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:24:57.99 ID:bvj0HBnQ - 秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ 加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが >>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる >>必死な政略的宣伝工作かがわかる。 なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな 顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから 異常に少なく見積もられてるだけだろ 実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ 織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと 顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから 徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし 他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる >>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。 >>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。 圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず 上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」 1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝 してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」 大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと >>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。 >>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。 >>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って >>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし >>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。 圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず 上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」 1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝 してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」 秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
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- 毛利を語ろう
72 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:25:46.24 ID:bvj0HBnQ - 京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦 の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね 秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており 留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ 和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り 敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w 尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw 日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記) 小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない →小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって… 付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を???? 加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った →千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など) 伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず… 4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw 家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に 付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。 なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって… 加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる 尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw 木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ 家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw 9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明 信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において 懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが 断ったといってるがどちらが正しい? 11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった 9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
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77 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:29:31.08 ID:bvj0HBnQ - 小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北 浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる 秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の 二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず 信雄方に奪回されてる) 伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽 など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため 伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回 長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉 信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。 秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる 天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが 直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と 木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており 普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで 必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり) 和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら 信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ 11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である 11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので 講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中 戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態 んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回 ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力 どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない 3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束 3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛 美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう 伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで 楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、 信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記) そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
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- 毛利を語ろう
78 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:30:21.16 ID:bvj0HBnQ - >>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって 1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し 結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww >>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 >>家康を倒すことが主目標ではない お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな >> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、 秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の 二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず 信雄方に奪回されてる) >>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで 秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛 と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw 秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw >>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし 伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽 など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため 伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回 長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉 >>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり 割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ >>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので >>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら 時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、 いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら 家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。 (天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
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- 毛利を語ろう
79 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:31:08.34 ID:bvj0HBnQ - 84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに 滅ぼす気がないとかアホ。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明 陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦やってる 松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる 伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる) 3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。 この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、 八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。 秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、 稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、 越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、 生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで 10万かそれ以上としている。
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83 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:33:39.59 ID:bvj0HBnQ - >>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし 秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから 三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要 直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明 >>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない) その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題 >>当然のように危険極まりない行為をしたために 秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない >>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら 九鬼が兵出すわけないだろ 伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ >>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの? >>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り 細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある >>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、 >>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、 神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし >>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。 滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事 秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事 から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている >>滝川が自分の意思で調儀しただけで、 >>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて 全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ >>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために 危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ 蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし >>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて 秀吉が後詰しなかったからだろ >>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて >>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw 秀吉は其の間なにやってたのって話だわな 佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉 >>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが >>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。 長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで 5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期 どうみても秀吉の失態です。
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84 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:34:33.39 ID:bvj0HBnQ - >>天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
>>孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候 >>などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、 4/8秀吉→丹羽長秀 池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ 小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と 秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる 4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗 また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる 秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり 途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。 奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。 >>166 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから 一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後 すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのに 軍事的才能がなさすぎる 敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から 尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら 相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし 夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを 荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ >>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。 秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ
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85 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 15:35:32.20 ID:bvj0HBnQ - >>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉 >>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」 >>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために 覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて 思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠 顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ >>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・) そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな >>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。 >>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。 >>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある) なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明 しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし 秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万 また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで 3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ >>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、 そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが >>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。 そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ 秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている 外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており 自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事 >>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。 松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ 神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw >>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。 兵力比の差ってだけだろ >>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに >>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。 >>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる) 深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない 4/8秀吉→丹羽長秀 池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ 小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と 秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる 4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗 また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
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- 信長の野望・創造 16作目
419 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 18:40:06.24 ID:bvj0HBnQ - 信長や秀吉って自力で戦に勝ったことないもんなぁ
斉藤…幼君で混乱・クーデター騒ぎ、まともに抗戦するものもなく勝手に自落 伊勢…北畠木造長野神戸などが内訌で分裂、崩壊 六角…対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化 足利将軍家…三好三人衆の決起で 権威が形骸と化し信長に助けを求める 上杉…御館の乱や新発田の乱で崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援 武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除 信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ 桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし 謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで 戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利 前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田 戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄 徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで 譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川 まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津 わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
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