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名無し曰く、
信長の野望で過大過小されている三傑謙信玄佐竹用6
毛利を語ろう

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毛利を語ろう
170 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:28:30.82 ID:OLS/uK1H
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。

秀吉のように実力で押さえつけた全国統一と各地に蔵入り地設置をしなかった家康。
家康は諸大名の支持を取り付ける手法だったので
地方分権による幕藩体制に妥協していたので
秀吉が世界に見せた武威がなければ、植民地化の流れの前に
秀吉と違い、家康では政宗がスペインに内通とかで撃退できなかったかもしれない。
それに朝鮮出兵で陶器技術の向上が無ければ、しょぼい陶器を江戸時代も使っていただろう。
陶磁器技術は日本幕末でも主力輸出製品だったし、
米余り現象で価格大下落していた中で貴重な特産品として現金収入源になっていた。

北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。

尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。

信長なんて天正元年からたった10年満たずして
崩壊した政権だぞ。
細川高国や三好などの政権の方が長く続いてるわ。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
吉川家文書610によれば安国寺に義昭嫡男・義尋将軍擁立を表明して
来春の年頭儀礼は義尋に対して行うべきであると言ってる。
信長が義昭の息子を「大樹若君」と呼んで擁立しているし
義昭様が天下を棄てて去ったので信長が上洛してやむなく治めているだけと言っている。
中山孝親が「大樹若君御上洛」と書くなど公家も義尋を大樹と日記に書いてるし
大樹とは足利将軍を指す言葉。
毛利を語ろう
174 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:30:06.21 ID:OLS/uK1H
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で
北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。

一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。

結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322744022/l50

なんでも自分で独断する信長と違って、多くの才覚ある吏を引き上げ使う秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。


東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
幕府要路に多量の金を贈って息子の将軍就任工作をしていた
堀越公方が経営していた伊豆の金山を利用するノウハウがまったく無い高利貸し北条は
ひそかに永楽銭偽造していたために、この関東での良銭の価値増加は領内の荒廃を意味した。
金山を多数所有し東国一の鉄砲を所持していたとされる佐竹も偽造疑惑がある。

信長は義昭追放後に山城守護に細川晴元の子の昭元(信長妹と婚姻)、
細川高国養子で死去した氏綱の弟の藤賢を近江坂本城に配置して管領家の義兄として義昭の子の義尋を擁立してる。
しかも義昭追放後間もなく秀吉経由で義昭の帰京交渉までやってるし。
さらに信長は毛利にこれからは義尋を将軍のごとく扱わねばならないと言ってるし。
ちなみに信長は管領家の畠山高政・昭高(信長妹と婚姻)兄弟とも婚姻し
義兄の立場を得てるなどガチガチに旧権力依存し自立できてない。
ちなみに三管領の斯波氏については義昭を擁立して上洛した時に
京の斯波の邸宅に配置するなど信長は斯波の既得権益を継承をしてる。
そして信長も栄華を極め尽くした畿内支配者の大半が
家臣の裏切りで権力者の座から一瞬で高転びに堕ちていく絶対法則から逃れられなかった。

いまだに織田は兵農分離とか言ってるバカいるしな。
さらにアホなのは兵農分離と徴兵制を混同してるやつも多い。
安堵を乱発し国人や地侍の解体さえ為されてなかったのに。
身分が固定されたのは強力な権威を背景に全国で不完全ながら
刀狩りと検地を組織的に施行した豊臣政権から始まって身分固定がなされた江戸時代なのに。
論拠にしても織田以外は農繁期は出兵しなかったとか主張するが、
そもそも一番人手が必要な時期に刈田もせずに出兵していくなんて普通にやってたし、
次いで農閑期に出兵するからと主張するが冬季に入るや撤兵して帰国したなんてのも普通にある。
そういう都合の悪いことは黙殺するんだよな。
毛利を語ろう
176 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:31:07.05 ID:OLS/uK1H
そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。

信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。

デタラメばっかり吐く自演基地害の織田厨の言ってることは
もともと完全なウソなんだからデータなんて絶対に出せないでしょ。


なるほど
そういった信玄や秀吉のように内政・軍政改革をして始めて
大軍を一戦場に集中できるようになるのか。
よい勉強になった。
信玄すげぇな。6万も動員できるほどの改革と組織化を達成してたのか。
信長がただの暴虐なアホでなんらプランもないバカだったのもわかったが、
天才秀吉のおかげで過大評価されてたのが信長なんだって
改めて分かったわ。
信長公記だと織田って長篠の戦いの時点で
徳川と合わせてやっと3万だよね。
やはり数万単位の動員の場合の排便処理問題って大きいよね。
幕末の会津藩も籠城してたけど、わずか一ヶ月で
ウンコ充満になって開城したしな。

秀吉は自身が旧織田領土を支配した後、というか支配する前から
信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている
統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる
毛利を語ろう
178 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:31:35.04 ID:OLS/uK1H
天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。

秀吉は全国に蔵入地を設定することで
遠隔地も監視できる体制を造り
取次と指南によって大名家の内政にまで介入しているなど
まさに中央集権による絶対君主制を目指していた。
しかし体制維持の事なかれ主義に後退した家康は内政不干渉&地方分権で妥協してしまった。

謙信を恐れた信長は勝頼に土下座した。
しかし天正5年12月に信長からの同盟願いを却下して
勝頼が鞆公儀政権の上杉・毛利・本願寺との
同盟に参加してしまったことで
信長は完全に追い詰められてしまった。

しかし謙信や丹波の赤鬼が死去するラッキーがあり
さらに天才秀吉が宇喜多を調略してしまったことで
毛利は大幅に戦線を後退させざるを得ず、
播磨兵庫・摂津尼崎・淡路岩屋に軍を駐留させていた毛利軍が
撤退した為に荒木や別所が降伏することになった。

愚かな信長は宇喜多の調略成功を報告にきた秀吉に激怒して
追い返してしまった。
やはり信長は戦略眼が無いが
毎回、危機的な状況での秀吉の天才ぶりが光る。
毛利を語ろう
180 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:32:20.26 ID:OLS/uK1H
>>第2次木津川で大阪湾の制海権を織田が握りその後石山本願寺降伏
信長は第2次木津川でも敗戦してるが捏造してるだけ。
本願寺顕如も天正8年9/23付けで宇喜多が敵についた為に
播磨兵庫や摂津尼崎や淡路岩屋へ渡海していた中国衆がことごとく帰国してしまったと書いている。
そして叡慮(天皇の意)で勅使がやってきたが、大坂退出は艱難至極と再三申し上げた〜などと書いていて
第二次木津川の戦いでの毛利敗戦が原因で制海権など織田は奪ってないし、
制海権喪失の原因は秀吉が宇喜多を味方にして信長の相次ぐ失敗を挽回すべく大逆転させたため。
>>毛利家中は揉めに揉めて結局宇喜多を選んだ
いやいや、毛利側では宇喜多が味方になっても三村氏は離反しないと踏んだ上でのこと。
その証拠に宇喜多が味方に参加しても三村はしばらく毛利に敵対してない。
つか毛利が一方的に三村氏へ内通を理由に攻め込んできたことから
毛利が備中の領国化をするために三村氏に汚名を着せたって説もあるからな。
>>村上3水軍の中で来島村上が羽柴についた
君は村上水軍の性格をまったく理解してないね。
天正3年3/6大友が五条氏へ
毛利を叩くために浦上宗景と能島村上水軍村上元吉を支援するため
田原親賢を赤間関に出陣させたので合力するように伝えているなど
村上氏は利害を重視していて、毛利に無二の味方と言うわけじゃない。
秀吉の宇喜多調略後には来島が秀吉側について、能島も秀吉寄りになるなど
秀吉の調略で村上水軍なんざ、軽く毛利を裏切ってる。

北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
毛利を語ろう
183 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:32:54.92 ID:OLS/uK1H
むしろ信長が旧勢力の亡霊でしかない。
雪斎の意見に従い今川義元が合議制を導入したし北条も合議制導入したことで
さらに国威が揚がり領土拡大しており、謙信や信玄も合議によって運営してる。
合議制の中でリーダーシップしていける指導力とカリスマを見せつけることが大事。
信長はガチガチの独裁者。そのくせ守護領国制の昔に戻そうとして、
一職支配の許可(知行安堵権・軍事統率権・裁判権)
などえお考案し内政すべてを丸投げをしてるため各地で軍閥化が進展した。
本能寺の変とはつまるところ斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚(信長謀死)と
家臣団による信雄や信孝や秀信の傀儡化=義龍や晴信や輝虎が合議制の導入であり、
織田家は信秀が優秀だったのと、尾張の富が、信長への円満家督継承につながり
一世代遅れた歴史展開となっていた。と言うか信長はさらに封権制への深化を推進し時間の針を戻していた。

信長は戦国でも随一の暴君だからなぁ。
数十万人は虐殺してるし
上京燃やして金を恐喝したり
略奪しまくって
桂川は死体でうまったし
越前府中の街は一面死体で
足の踏み場もなく
すっげーすっきりして気分がよいとか
信長の書状まで残ってるし。
越前虐殺においてこのすさまじい悪行が後世に伝わるよう願って
と言う仏像だか寺社だかの木片裏に利家らの残虐な私刑による
大虐殺の告発まで残ってるしな。
毛利を語ろう
184 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:33:13.33 ID:OLS/uK1H
むしろ信長が旧勢力の亡霊でしかない。
雪斎の意見に従い今川義元が合議制を導入したし北条も合議制導入したことで
さらに国威が揚がり領土拡大しており、謙信や信玄も合議によって運営してる。
合議制の中でリーダーシップしていける指導力とカリスマを見せつけることが大事。
信長はガチガチの独裁者。そのくせ守護領国制の昔に戻そうとして、
一職支配の許可(知行安堵権・軍事統率権・裁判権)
などえお考案し内政すべてを丸投げをしてるため各地で軍閥化が進展した。
本能寺の変とはつまるところ斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚(信長謀死)と
家臣団による信雄や信孝や秀信の傀儡化=義龍や晴信や輝虎が合議制の導入であり、
織田家は信秀が優秀だったのと、尾張の富が、信長への円満家督継承につながり
一世代遅れた歴史展開となっていた。と言うか信長はさらに封権制への深化を推進し時間の針を戻していた。

信長は戦国でも随一の暴君だからなぁ。
数十万人は虐殺してるし
上京燃やして金を恐喝したり
略奪しまくって
桂川は死体でうまったし
越前府中の街は一面死体で
足の踏み場もなく
すっげーすっきりして気分がよいとか
信長の書状まで残ってるし。
越前虐殺においてこのすさまじい悪行が後世に伝わるよう願って
と言う仏像だか寺社だかの木片裏に利家らの残虐な私刑による
大虐殺の告発まで残ってるしな。
毛利を語ろう
186 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:33:36.23 ID:OLS/uK1H
信長が在京せずに京を遠隔支配している手法も三好長慶が考案した手法だしね。
長慶は村落や都市共同体など将軍や幕府機構などの権威を必要としない
新興自治と国人のコミュニティーを持つ地域に独自の支配機構を構築し始め
その成長促進と商業収益を政権基盤として芥川城に在城していた。
信長って長慶などの猿真似はするんだけど、形だけパクってるだけで
魂の部分を理解してないから新興自治と国人のコミュニティーを潰して
京を遠隔支配すべく安土城に居城した。そして光秀の謀反であっさり近江が光秀に組み込まれた。
そもそも前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり
もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり
家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を
同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は
秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)
結局、大内家内で成長した毛利のようなもんなんだよな光秀や秀吉って。
毛利を語ろう
190 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:36:08.73 ID:OLS/uK1H
織田政権は多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者

このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による大規模一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
とくに天正大判を発行するなど信玄の政策を継承した金融政策である
秀吉の金本位体制は西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。


金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
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