- 毛利を語ろう
164 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:26:47.16 ID:7zgWFRNP - そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」 >>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。 全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明 ただ逃散兵が多かっただけだろ むしろ20万がガチンコで戦った関が原ですら8000しか死ななかったとすると小牧長久手の秀吉大敗がいかに 次元を超えたレベルの大敗かがわかる >>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。 >>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。 顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ >>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。 >>三河渥美郡にある常光寺の日記 >>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど 織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河 が崩壊とか馬鹿ですか?むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け 秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして 圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ 加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが >>いかに家康らが不利な状況だったか必死な政略的宣伝工作かがわかる。 なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな 顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから 異常に少なく見積もられてるだけだろ 実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ 織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと 顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから 徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし 他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる >>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。 >>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。 圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず 上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」 1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝 してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」 大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
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166 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:27:25.09 ID:7zgWFRNP - むしろ1万人くらい死んだとしないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後 4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ 4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる 4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど 完全に持久戦の態勢に入っている 4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する 4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた 播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた 5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した 5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが 美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ 5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した 5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので 近日討ち入るつもりだ 5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた 5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である 各高名の者共この内に申すべく候 5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く 敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである 5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である 5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した 家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ 先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った このほうの本意がなるまで程ない状態である 5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる 上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態 家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる 羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便 これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし 滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。 こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
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172 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:29:16.88 ID:7zgWFRNP - >>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月 これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い 秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ 加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが >>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。 なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな 顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから異常に少なく見積もられてるだけだろ 実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ 織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと 顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし 他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる >>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホ >>必死な政略的宣伝工作かがわかる。しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、 >>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、秀吉の背後を襲うように言ってるからな。 圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず 上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」 1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって 過小喧伝 してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」 大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと 家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で 領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど 秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張 山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて 戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ 毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
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173 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:29:58.38 ID:7zgWFRNP - >>家康が優勢だったなんて歪曲意外にあり得ないのにチョンは馬鹿だなワロスw
羽黒で大敗、小牧長久手で1万人戦死の大敗、戸木・松ノ木・河波・神戸・二重堀・蟹江・浜田で敗北 ちなみに兵力差は7倍ほどもあり信雄方は合戦当初から尾張でも美濃でも伊勢でも寝返りでまくりの圧倒的秀吉有利な状況 >>家康は八方塞がりで秀吉の攻勢に常に籠城してただけで、其の間に味方がどんどん切り崩されていっただけじゃんw 秀吉が切り崩したの木曽川筋の家康が出てこれないわずかな城だけだろ 他東駒野・河波・松ノ木・戸木・蟹江・二重堀・神戸・浜田など各城郭で敗北 結局秋になって秀吉が諦めて納馬しようとしてたところに信雄がヘタレ和睦してきて助かっただけ >>秀吉がいなくなると、ちょっかいを出すが秀吉が来ると逃亡 むしろ至近距離で滝川が蟹江・前田・小口など奪って家康と決戦する大チャンスなのに 信雄と家康にビビッて逃げてったの秀吉だろ。滝川が蟹江合戦起こした当初最低でも至近距離の大垣にいたのに いつでも後詰できるのにしなかったのは秀吉が小牧長久手で1万人も戦死する大損害だしたからヘタレビビリまくって逃げてただけ >>根本的な解決策はなく、時間稼ぎ籠城してるだけ 家康単体では8000そこそこしか軍出せないのに根本的な解決できるわけねーだろアホ 正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。 秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から 遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる 織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず 池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。 秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却 池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。 別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる 秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因 兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし 家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい 結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな 木曽川筋のわずかな城を落としただけで 南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして 権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
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175 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:30:34.23 ID:7zgWFRNP - 黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。 三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。 合戦時の陣立書にもはっきり名前がある 秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる (4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある) 松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して 攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる 伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。 堀と長谷川は中入り組。 (戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる) 3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、 池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。 この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で 「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。 丹羽長重も派遣されてる。 信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる 北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、 蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、 長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、 蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、 越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、 長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。 長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
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177 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:31:21.98 ID:7zgWFRNP - 家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で 母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる 圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。 上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し 徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。 宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った 木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。 単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は 余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』) >指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが >『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず >秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで 箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外 家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で 領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃ ならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど 秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張 山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて 戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ 毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
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- 毛利を語ろう
182 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:32:53.01 ID:7zgWFRNP - >なんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから 家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿 >>加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。 竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと 竹鼻を救援するなんて無理 >しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり >7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw 秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ >すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として >南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。 >他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。 当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包・田丸・関などが秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ >秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることでありそれを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。 戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ 3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ >でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。 信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ >羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。 それはあんたの主観です >まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ? >そんなの去勢張ってるだけ 真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている >しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが 限界動因どころか兵の半分を返している(当代記・家忠日記) >秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして 小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として 1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて 一気に三河方面に侵攻されてアボーン >長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。 蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている >加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。 加賀の井に行くには敵城の網の中の網を掻い潜りしかも川を渡らなければならない。10分の1の兵力でそんな芸当無理 また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため 家康からすれば死地にいくようなもの >7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし 戸木城の位置は伊勢の相当南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから 強風吹いたら無理にきまってるだろ >5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。 小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前 秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である 秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている 家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
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- 毛利を語ろう
185 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:33:32.23 ID:7zgWFRNP - 4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ 4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる 4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど 完全に持久戦の態勢に入っている 4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する 4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた 播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた 5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した 5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが 美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ 5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した 5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので 近日討ち入るつもりだ 5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた 5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である 各高名の者共この内に申すべく候 5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く 敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである 5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である 5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した 家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ 先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った このほうの本意がなるまで程ない状態である 5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる 体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ 最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ 徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから 夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記) 総勢一万足らずだったとあるしな(当代記) 体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ? 「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの? 大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと 愛知県史資料編が位置づけている あと二重堀合戦は家忠日記にある
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188 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:35:24.60 ID:7zgWFRNP - 秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ 4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる 4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる 秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる 完全に持久戦の態勢に入っている 4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示 田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示 4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示 各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示 4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する 4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た 4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた 播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた 5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した 5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが 美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ 信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため 本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える 5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した 5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので 近日討ち入るつもりだ 5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた 5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である 各高名の者共この内に申すべく候 5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く 敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである 5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる 5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である 5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した 家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ 先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った このほうの本意がなるまで程ない状態である
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189 :名無し曰く、[sage]:2013/08/18(日) 17:35:57.72 ID:7zgWFRNP - 7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した 7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示 7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所 へ来るよう指示 7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した 7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す 7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた 7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する 8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示 8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示 8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる 8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように 8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する 8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える 9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く 9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く 9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す 9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた 9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ 過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる 9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば 家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える 9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる 10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する 11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
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