- 信長の野望・創造 15作目
361 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 07:26:10.82 ID:Ft/xlWsE - 大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。 義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され 自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いたのが信長。 そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、 濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って 山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、 各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。 岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定) 長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠) だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、 甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。 17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。 こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
|
- 信長の野望・創造 15作目
362 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 07:27:40.64 ID:Ft/xlWsE - 甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内 穴山の支配した河内 でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度) この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、 天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。 これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。 たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず 訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと 介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、 武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。4 つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て 国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、 その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。 しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。 これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定されたおとと同様である
|
- 信長の野望・創造 15作目
364 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 07:29:25.41 ID:Ft/xlWsE - 甲斐は鎌倉公方や古河公方などの関東勢と将軍との権力争いの修羅場だったからな。
双方ともどもの後ろ盾を得て代理戦争してたから守護代や国人どもが暴れまわり混乱に拍車がかかった。 この管轄外へも影響力を及ぼそうとするやり方には関東管領とそれに協力する将軍側の駿河今川氏も困惑していた。 信重の跡を継いだ武田信守は5年で死亡し、(上杉禅秀の乱での武田の失敗を機会に立場を逆転した跡部氏) 実権を持つ守護代跡部駿河守明海・上野介景家親子に暗殺されたと言われている。 さらに飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生が多くなる時代へ突入した武田信昌が継ぐと穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏ら 国人層もどんどん力をつけてきて完全な甲斐戦国時代へ突入。 家督を信縄に譲った後に信昌は次男の油川信恵への家督相続を考え始めて、それぞれの国人が彼らを擁立し内乱発生し 混乱に乗じて北条早雲んぽ甲斐進攻まで招く。 東郡の栗原氏、西郡の大井氏はもはや武田氏の統制から離脱し穴山氏と離合集散を繰り返し おまけに明応の大地震まで勃発し一揆は頻発し甲斐乱国とまで王代記に書かれる。 こんなむちゃくちゃな甲斐国を継いだのが信虎。もう国内政治内政を無視したとんでもない人だったから 甲斐国史上最大の暴君とされ、武田氏は怨嗟の泥まみれだった。だから甲斐国主の座を追放されてしまった。 信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ 塩山向嶽禅庵小年代記 信長文書研究で有名だった奥野高広氏の信虎評 「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう」 武田研究で有名な上野晴朗氏 「天文5年以来の家臣団の離反が根にあり、義元と同盟したことで、北条氏をより強く敵に回したことで、 北条と今川の友好関係が破れた。 このような関係は武田家臣団の喜ばぬところであり、 対隣国関係の政策上で信虎と家臣団は二つに意見が割れた」 信虎のワンマン独断専行的態度に対する家臣団の不満と過酷な収奪による農民の疲弊。 これは道三や信長とも共通した性格であろう。 一方、信秀は類い稀なる器用の人と賞賛され、その才覚で人心を得た。 信虎は在京守護として、 ほとんど京にいて公家たちと交際したり旅行行ったりで甲斐の財を湯水のように使うわ、 甲斐にたまにしか帰らないから、甲斐国人は統制されず、やりたい放題。 越後では守護の上杉房定が在京守護を止めて越後支配に乗り出し、検地をやって守護代や国人の横領を取り締まったりしているが、 信虎にはそんな意識もなく、たまに甲斐に帰国するや戦マニアの顔を出して戦乱三昧にして甲斐を荒廃させた。 権臣重臣たちによる晴信を御輿に担いでの悪人信虎の追放(妙法寺記) 此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、 カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。 勝山記を読めばいかに甲斐が貧しく連年の災害に苦しんでいたかわかるんだが。 それを信玄が領内開発と法治による信賞必罰で 見違えるような国にしたんだよな。 織田厨の捏造歪曲の実例 信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり 完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から 災害記録がなくなってしまうのが史実です。 そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され 数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい 本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、 姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ 武田には徳役という税制があった。 これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。 これを当時は悪政と言っていたが、 これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。 逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して 借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。
|
- 信長の野望・創造 15作目
373 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 08:03:53.29 ID:Ft/xlWsE - 米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
上杉氏は実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。 一方、浅井三姉妹との親戚関係だけと言う理由で大名家の家格すら失いながら お情けで再興を許され命脈を繋げていた乞食の醜態を晒す恥さらし織田陣屋家は? 柏原陣屋 3万石未満 2万石とされる。 兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。 信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから 元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。 大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。 信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に 現代ではここを藩と呼称することもあるが そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。 年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩 天童陣屋 1万石未満 2万石とされる。 山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」 で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。 上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。 芝村陣屋 1万石未満 9000石とされる。 奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で 藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。 柳本陣屋 1万石未満 まったく不明 奈良県天理市 有楽斎系 陣屋 他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。 重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩 信雄は秀吉のオモチャにされて 栃木や秋田や愛媛に流罪に次ぐ流罪でしかも小姓1人しか御付人いなかったし こんなブザマな状態だったのを救ったのは市が懐妊したからだし家康にオモチャにされた時はコジキになって細川や前田らに押しかけ居候して捨て扶持を催促して 親子が食い繋いでただけだしそれでも栄養失調で上の息子3人は早死に追い出され最後はプライド捨てて大坂城で生活保護。 こんなブザマな状況を救ったのはお江が次男駿河大納言徳川忠長との縁組を計画したからだし。 おかげで残った食い扶持減らしで仏門行だった下の息子3人を呼び戻して陣屋主とその家臣にしただけ。 それでも家光に忠長が遠ざけられると 織田家への待遇も地に堕ちたしな。
|
- 信長の野望 天道 145里
315 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 08:31:49.69 ID:Ft/xlWsE - 豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む 上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る 秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する 北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す 史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防) 織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗) 滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城 (3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ) だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある 信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。 秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。 氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。 秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。 豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡 北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた 小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。 北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。 勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ) 北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況 享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず 兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる 北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 ×武田が実力で信長に滅ぼされた ○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる 離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒 こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ 元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪 寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん いわば火事場泥棒みたいなもん 本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな 以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
|
- 信長の野望 天道 145里
316 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 08:32:58.41 ID:Ft/xlWsE - 光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。 秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。 木造家の傀儡北畠信雄政権樹立 秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄にいちゃもんつけて攻め込む (ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ) 小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。 秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し 息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。 秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明) 秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化) 秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に 秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。 困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。 大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。 小幡藩の悪政ぶり 領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで 上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。 山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている) 織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦 (高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない) に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし 官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。 織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。 (信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が 1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる) と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で 宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された) 小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが 天明の飢饉の災禍によってボロボロになり 明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。 ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。 結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で 高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
|
- 信長の野望・創造 15作目
381 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 08:41:47.97 ID:Ft/xlWsE - 弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田のお家芸だからなw
三方が腹や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで 武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって 武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw 結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw 援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで
|
- 信長の野望・創造 16作目
12 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 14:19:24.69 ID:Ft/xlWsE - 織田が死なせた武将達一覧
赤瀬清六、佐々隼人正、千秋四郎、山口取手介、 土方彦三郎、織田信益、岩室長門守、梶川平左衛門、山県源内、 宇野弥七、朝日孫八郎、波多野弥三、近松豊前、神戸伯耆、 神戸市介、野村越中、森可成、織田九郎信治、青地茂綱、 尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎、織田信興、 坂井政尚、浦野源八親子、氏家ト全、平手汎秀、長谷川橋介、 佐脇藤八、山口飛騨、加藤弥三郎、林新次郎、賀藤次郎左衛門、 前波吉継、織田信広、織田秀成、織田信成、織田仙丸、 織田又六郎、織田信次、織田信方、織田信直、織田久三郎、 織田清長、原田直政、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、 丹羽小四郎、万見重元、織田信家、真鍋七五三兵衛、沼野伊賀、 沼野伝内、野口、小畑、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、 矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、 村田吉五、森乱丸、森力丸、森坊丸、小河愛平、 高橋虎松、金森義入、菅屋角蔵、魚住勝七、武田喜太郎、 大塚又一郎、狩野叉九郎、薄田与五郎、今川孫二郎、落合小八郎、 伊藤彦作、久々利亀、種田亀、山口弥太郎、飯河宮松、 祖父江孫、柏原鍋兄弟、針阿弥、平尾久助、大塚孫三、 湯浅甚介、小倉松寿、湯浅甚助、小倉松寿、津田又十郎、 津田源三郎、津田勘七、津田九郎二郎、津田小藤次、菅屋九右衛門、 菅屋勝次郎、猪子兵介、村井春長軒、村井清次、村井作右衛門、 服部小藤太、永井新太郎、野々村三十郎、篠川兵庫頭、下石彦右衛門、 下方弥三郎、春日源八郎、団平八、桜木伝七、寺田善右衛門、 塙伝三郎、種村彦次郎、毛利新介、毛利岩、斎藤新五、 坂井越中、赤座七郎右衛門、桑原助六、桑原九蔵、逆川甚五郎、 山口小弁、河野善四郎、村瀬虎、佐々清蔵、福富平左衛門、 小沢六郎三郎、土方次郎兵衛、石田孫左衛門、宮田彦次郎、浅井清蔵、 高橋藤、小河源四郎、神戸二郎作、大脇喜八、犬飼孫三、 石黒彦二郎、越智小十郎、平野新左衛門、平野勘右衛門、水野宗介、 井上又蔵、松野平介、飯尾毛介、賀藤辰、山口半四郎、 竹中彦八郎、河崎与介、村井新右衛門、服部六兵衛、水野九蔵
|
- 信長の野望・創造 16作目
13 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 14:20:22.63 ID:Ft/xlWsE - 氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、
宇都宮、梁田、那須、小山、太田 その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。 信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。 氏康>>>>>>>信長 信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦し生涯を終えた。 家康は武田に苦戦したが畿内や美濃は瞬殺した。 武田>>>>家康>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚織田 信長は山県、馬場、家康より弱い。 信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。 謙信は信玄より強い。 謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
|
- 信長の野望・創造 16作目
14 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 14:21:07.49 ID:Ft/xlWsE - 武田戦では滝川平手佐久間水野はおろか徳川軍崩壊を見殺しにし
浅井朝倉戦や本願寺戦では原田森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで 上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死 坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳 林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤 小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越 大量に戦死してる しかも天正8年に一番の功臣佐久間信盛や安藤やら水野を粛清しだし 家臣達に反感を買い、光秀に殺されるヘタレぶりw 織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で 大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな 長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り 山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前 まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死 以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない 秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね 二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし 熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。 しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら 逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
|
- 信長の野望・創造 16作目
15 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 14:21:49.47 ID:Ft/xlWsE - 信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし 甲斐は18万石&例年のように飢饉 信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮 おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石 あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所 斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上 信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし 織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん 美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり 動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが その後信玄に負けまくり滅亡寸前 伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり 火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。 まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ 岐阜城って土岐や竹中や信雄や福島や斉藤利尭やらに馬鹿みたいに落とされまくってるのに苦戦したの信長だけなのに なぜか城が堅かったとか馬鹿な捏造されてるんだよな 単に寄せての大将が雑魚だっただけでしょ
|
- 信長の野望・創造 16作目
16 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 14:22:42.76 ID:Ft/xlWsE - 大嘘だな。
鎌倉期の西遷御家人などを見ても解るように、武士はむしろ流動性が高いし、武士自身、遠くに移ることは むしろ当然だと考えていた。例えば武田信玄の家臣に、遠隔地の軍役を申し付けられたため、その地域に所領を移してほしい、 といった信玄宛の書状なども残っている。 また百姓も、領主の政治に不満があれば村ごと集団で逃亡し、他の戦国大名などと交渉し、条件が良ければそちらに集団移住するなど 普通に行われていた。 戦国期は武士も百姓もむしろ流動性が高く、近世の統一性権の課題はむしろ、この社会の安定性を損なう 流動性の高さを止めることが課題だった。 九州の大友や中国の毛利や長尾や伊東や芦名らがもともと鎌倉時代はじまるころは、 どこが先祖伝来の土地出身だったかというとほとんど相模や伊豆出身。 宇都宮家なんて九州や四国に分家がある7ほど繁栄してた。 武田のサラリーマン化の例でいうと 遠江高天神城を武田家直轄領にするため 小笠原信興衆に甲府で屋敷地を与えた上で、 現在の富士市にある駿河下方に1万貫で移封。 高天神城将に岡部元信が選ばれ、 その寄子や同心衆へ高天神の周囲を中心に駿河や遠江に知行を武田家より与える。
|
- 信長の野望・創造 15作目
456 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 15:20:03.77 ID:Ft/xlWsE - 京を取ると一気に有利になるシステムがほしいな
三好政権細川政権大内政権と京を本拠とした勢力の長期政権・チートっぷりは凄まじいし 信長上洛時とかも周辺国からアホみたいに味方が集まってきて一気に有利になったからね
|
- 信長の野望・創造 15作目
482 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 18:49:54.06 ID:Ft/xlWsE - 最大石高なんて自国の周辺国が弱体化・分裂してたり自国の国力に比べて弱小かどうかってだけの話じゃん
なんで比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」 ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのか意味不明 そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから 一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな 領土の広さってそれ程関係ないんだよ カナダやカザフスタンは日本より広いけどどっちも大したことない 戦国時代も同じで例えば毛利輝元や大友宗麟や大内義隆や豊臣秀吉や織田信長や北条氏康は広かったけど弱かった 相馬なんか伊達の5分の1程度の領土で半世紀も互角に戦ったし 田村清顕なんて周辺諸大名がこぞって敵対する状況ですら敢闘して撃退してる。 織田や北条や豊臣や毛利は領土広くても将が無能だから里見や信雄や宇喜多や浅井朝倉武田などに翻弄されたし 信長なんか北畠に大河内城で撃退されたり一揆勢相手に餓死寸前のところを数万の大軍で騙まし討ちにして一門10人以上殺されたりしたわけ。 織田みたいな光秀ごときに滅ぼされた雑魚大名と自国の2倍もある信濃を切り取ったり 大国北条今川連合に打ち勝って駿河とったり織田徳川連合に打ち勝って東美濃三河遠州を多く奪った 徳川時代軍学でも最強とされた大名を比較する事自体が間違い。 織田と比べるなら大友宗麟・伊達政宗・北条氏康・長宗我部元親あたりがちょうどいい。 それでも戦闘でいえばダントツで信長が最下位だろうけど 光秀に殺されて死んだ信長w 最貧国甲斐から上杉北条織田徳川など国力に勝る相手に領土切り取りまくり150万石まで広げた信玄w 結果でいえば信長は能力0だからなぁ 経過をちゃんと考慮して石高なんぞで比べず状況や運やら地理条件考慮するってのならわかるが 尾張は全国トップクラスの好立地&チート国力 斉藤は幼君で極度に弱体化 義元は運よく突発事故で戦死 六角も観音寺騒動で弱体化 三好は統率が取れずバラバラ 北畠は内紛で分裂 上杉は内紛で極度に弱体化 武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ 浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力 朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主 こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。 ある意味戦国最強クラス
|
- 信長の野望・創造 16作目
87 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 19:46:27.83 ID:Ft/xlWsE - 必死にしたらばへ誘導しようとするアホ織田厨w
37 :名無しの野望:2013/08/15(木) 19:40:14 ID:w/8djRo20今、規制中なんで2ちゃんには書き込めない… 向こうではなくこちらで創造の話題が盛り上がるように 頻繁にここのURL貼ってこちらへの誘導レスよろしくお願いします したらばへ移行して過疎化した過大過小スレの二の舞にならないように頼みます
|
- 信長の野望・創造 16作目
121 :名無し曰く、[sage]:2013/08/15(木) 23:00:32.14 ID:Ft/xlWsE - 総大将の能力は部隊全体の士気や攻撃力防御力に影響するなんて要素がほしいな
例えば史実で宇喜多は天正7〜8年にかけて大国毛利相手に辛川合戦・加茂崩れで2000人討ち取るなど 勝利を繰り返し優勢だったけど秀吉が備前・美作戦線に加わりだす天正9年頃から児島・祝山崩れで敗北し 美作でも補井田元清に撃退されだしてるし、戦下手な武将が戦場に総大将として出ると名将でも戦闘能力がガタ落ちするとか。
|