- 三國志で過大過小評価されている武将 三十八人目
514 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 04:07:55.09 ID:sncuQryv - >>511
一軍率いて益州平定してる。だから >正史本文だけでいうと明らかに趙雲より強いホウ徳 これは根拠なし
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516 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 04:36:00.56 ID:sncuQryv - >>515
張飛、諸葛亮、趙雲で三方向に分かれてる
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520 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 06:59:33.06 ID:sncuQryv - >>517
>→さらに分割して趙雲は外水から江陽方面を攻めていく >規模的に一軍(諸葛亮)に所属する一部隊に過ぎない 益州の地図くらい確認しようや 江陽、江州から成都に至るルートとはそれぞれまったくの別物。 趙雲が侵攻したのは犍為郡。 諸葛亮に所属する「一部隊」なんてありえないから。 それすら理解できない奴に正史を議論する資格はないわ。 >まともな軍勢率いたのは晩年囮を率いて敗北→撤退→降格くらいしかない 敵の本隊を引きつけた陽動だろ? しかも降格は趙雲自身の責によるものではない。 >正史でなら11の許チョに毛が生えたくらいの統率70で十分だが、 >>511でこう書いてるが、趙雲が許チョと同タイプの将だとでも思ってんのか?
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524 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 07:25:07.00 ID:sncuQryv - >>523
>趙雲伝本文に亮に率いられ、雲を分けて遣わすと書いている 張飛も諸葛亮に率いられてるだろ? それが江州で3つのルートに分かれたわけ。 江州→広漢→成都ルートと、江陽→犍為→成都ルートはまったく別物。 特に江州から広漢の徳陽県に入る箇所は行軍の難所だと華陽国志にも記述があり つまり、趙雲は諸葛亮の指揮下から外れて独自に犍為郡一郡を攻略したのは事実。 統率の値については正史と演義とどちらを重視するか、統率の定義をどう見なすかで変わるので 俺は問題にしていないが、一軍を率いて一郡を平定した将軍の能力の比較相手に まったくタイプの違う将軍を持ってこられても違和感しかない。
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526 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 07:56:39.24 ID:sncuQryv - >>525
江陽から成都に至るには犍為郡を通らなきゃならんでしょ 犍為郡は蜀郡の後背地で、成都に籠城する側にとっての補給基地。 五胡十六国の時代にも、成都攻撃の際には犍為に侵入して兵站を潰す作戦があった。
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534 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 08:30:35.11 ID:sncuQryv - >>529
>分遣ということは指揮官である諸葛亮の下、そのルートを攻め上ったに過ぎない。 「分遣」って言葉に拘るなら、諸葛亮だって劉備の分遣に過ぎないの。 問題は統率した軍の規模と指揮権だろ。 諸葛亮のルートとは東西で並行しているが、連絡可能なほど近接ではないの。 成都で諸葛亮と合流しろって劉備の指令こそが趙雲の独立性の証左でしょ。 >90という評価に対してあまりに不足だと言ってるだけ。 だから、俺は能力値には文句つけてない。一軍を率いてないとかいう間違った認識を否定してるだけ。 >張飛伝を見ても功第一は諸葛亮 法正 張飛、そして留守を守った関羽 だからどうしたの? 益州既平,賜諸葛亮、法正、飛及關羽金各五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦千匹,其餘頒賜各有差, とあるように、その4名以外にも功績に応じて報われてるじゃないか。 其餘頒賜各有差ってのは史書によくあるフレーズだ。 >先主伝を見ても益州平定当時 諸葛亮は股肱 法正は謀臣 関羽 張飛 馬超は爪牙 他云々で趙雲の名は無い そんなもん、関係ないだろ。霍峻の名前だって無い。 >>530 張飛は江州陥落もあったろ。 それと、留守役の関羽が評価されていることからも、益州平定における功績への賞与でなく 益州平定を期として幕下の功臣をねぎらったという意味合いの可能性がある。 「益州が平定されると、それぞれ下賜を受けた」ってそれだけの記述だから。
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536 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 08:47:13.06 ID:sncuQryv - >>535
その霍峻の名前が先主伝にないわけ。 あの部分の記述は後ろの方までちゃんと読めば 益州平定の功績者の羅列ではないのは明白でしょ。
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538 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 08:56:24.66 ID:sncuQryv - >>537
趙雲は諸葛亮と別れて長江を西上して江陽を攻撃、そこから北上して犍為郡を攻撃、 さらに北上して成都で諸葛亮と合流せよ、という「劉備」の指令を受けた。 趙雲は諸葛亮の指揮下から脱し、一郡を平定するに足る兵力を授かって進軍した。 「分遣」と書かれているから小規模である、諸葛亮の指揮下である、とそちらが見なしているかも知れないが 「分遣」の言葉ひとつでそう認識する根拠などない。 >江州以降の記述が張飛と趙雲では落差が明らかであり。 それがどうしたんだよ。 >そんなもんで正史に突っ込んで80や90というには実績不足は否めない。 だから能力値の話などしておらんと言ってるだろ。 趙雲は軍を率いたことなどほとんどないという妄想を否定している。
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546 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 10:56:50.20 ID:sncuQryv - >>545
洛水でも問題ない。 その途上に犍為郡の諸県があるのだから。 というか、俺はそうだと思っていた。 が、あらためて集解を調べてみたら、趙雲が使った外水というのは岷江のことらしい。 内水というのが沱江で、こちらが洛水だろう。 趙雲は江陽から更に長江を西に進み、途中で岷江に入って北上、 岷江沿いの武陽県(犍為郡の政庁所在地)を攻略した後に成都包囲に参加したということのようだ。
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553 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 12:52:33.48 ID:sncuQryv - >>552
趙雲伝 分遣雲從外水上江陽,與亮會於成都。
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559 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 14:08:01.41 ID:sncuQryv - >>557
>筑摩はこう訳しているし、 ちくまは「別の川を通って江陽に上り」と訳しているので 分遣 雲 從 外水 上 江陽 少なくとも、ちくまの区切りはこうじゃないか? もっとも、「江陽に上り」ではなく「江陽を上り」の方が意味は通るとは思うが。 ちなみに演義では 玄コ得了雒城,重賞諸將。孔明曰:「雒城已破,成都只在目前;惟恐外州郡不寧。 可令張翼,吳懿引趙雲撫外水,定江陽,犍為等處所屬州郡, やはり外水は一語であると考えるのが妥当だろう
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564 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 14:53:46.07 ID:sncuQryv - >>561
どういうスタンスで質問してるのか分からんので、答えが長文になってしまう。 趙雲は江陽攻撃のあと、成都に向かっていない、あるいは、洛水も岷江も使わずに成都に至った、 そう言いたいのだろうか? ちくまの訳では外水=江陽への水路となり、 その後に成都に向かってるんだから、江陽から洛水をつたって成都に向かったという解釈が成り立つ。 だが「從外水上江陽」を「外水に沿って江陽を(成都方面へと)上り」と訳せるのならば、 それは岷江を上っていったことになる。 俺の漢文のレベルは低いので、それが正しいのか断定的なことは言えない。 だが集解で外水=岷江となっていること、演義の例からも ネイティブは俺と同じ解釈をしているのだと思う。
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570 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 15:24:25.71 ID:sncuQryv - >>567
>官位と能力は関係ない そんなわけがない ただ、史書の記述に限りがある以上、官位だけでは能力を測れないことがままあるというだけで。 >まして惇は曹操の恩人採用だし 序盤において惇はファーストチョイス、 中盤以降は留守役、 これは絶大な信頼があってこそ。
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579 :名無し曰く、[sage]:2011/10/29(土) 16:02:54.42 ID:sncuQryv - >>575
無能だったとすることを力説してみれば? 俺は正史を呼んでも無能だとはまったく思わない
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