- 初めてプレイしたフリゲを言ってみるスレ
287 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2009/01/19(月) 01:44:12 ID:4A/xUVcv - 名前は忘れた。
覚えてるのはどうってことないツクール2000のデフォばっかのRPGだった。 それでも面白かった。
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- Ruina 廃都の物語
800 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2009/01/19(月) 04:42:34 ID:4A/xUVcv - http://plaza.rakuten.co.jp/lensen
ruina好きならここ知ってるよね?
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- 面白いフリーソフト レビュー&攻略質問スレPart161
410 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2009/01/19(月) 06:07:12 ID:4A/xUVcv - 「809」 副島隆彦の「ミネルバの梟(ふくろう)は夜、飛び立つ」論。
私が原著は12年前に書いた本である「決然たる政治学への道」(弓立社=ゆだちしゃ=刊、2002年)の P.174に、「本当は学問の体系はこのようになっているの表」で、私は、はっきりと、「フィロソフィー (×哲学と訳すのは嫌いだ。知恵の学)と数学は、神学(セオロジー、テオロジー)の下女、はしためである」 そして、「サイエンス(ヨーロッパ近代学問)と、この神学が、大きく闘うのである」と書いた。 神学(セオロジー)は日本人には分からない。「神学論争」なる言葉は、日本語になっているが、その中身を 日本人で分かる者はいないだろう。そして、その下に、初級学問=下等学問としての、ヒューマニティーズ (人文、じんぶん、人間の文字による記録、石碑、古文書の解読、文学部の世界)があるのだ、と書いている。 「数学は、神学の下女」なのだ。これは、ヨーロッパの学問の体系の中では、はっきりしていることだ。 数学は、決して自然科学(しぜんかかく、ナチュラル・サイエンス)には、所属しないのだ。 ただ道具として多用される。私、副島隆彦がこのように書いて、まだ反論したり、何か異論を唱えることの 出来る、日本人は、誰でもいいから、名乗りを挙げて出来てください
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- 厨がツクールでやりがちなこと32
421 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2009/01/19(月) 06:08:56 ID:4A/xUVcv - >>418
そんなあなたに「もしくはタッフロール」 http://hot.hiyamugi.com/taffroll.htm
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- 面白いフリーソフト レビュー&攻略質問スレPart161
412 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2009/01/19(月) 09:08:02 ID:4A/xUVcv - ここで、突然、話が変わるが、私は「学問」あるいは「科学」とは何か、についてどうしても説明しておかなければならない
と思っている。「科学(サイエンス)」とは、「学問(サイエンス)」である。科学と学問は同じものである。、というと、 「そんなことはない。科学は科学で、学問は学問だ。別のものだ。なぜそんなことを言うのか」と思う人が多いだろう。 日本人は、知識人と自認する人でも、この程度なのだ。これまで説明したとおり、西欧人は、16世紀以降「学問(=科学) の対象として、科学的(学問的に)に、日本を解部してきたのである。 (中略) 日本人は、「理科系=科学」「文科系=いい加減な、自分勝手な、自分勝手の考えの寄せ集め」だと考えている。もっと言えば、 ある人が「数学」ができるかできないで「理科系」と「文科系」に分ける。この考え方には、大きな欠陥がある。ここに、 西欧人が共有する、世界普遍価値から、日本人が脱落する原因の一つがある。今から五百年前、すなわち十六世紀に西ヨー ロッパで「科学=近代学問」というものの考え方が興ったのだ。十二〜十三世紀ごろには、修道院の僧侶(モンク)たちが、 神への祈り中心の生活信仰をしていたのだが、そのうち「合理的精神(ラショナルマインド)」に目覚めて、考える」とか 「知る喜び(ちなみにphilo-sophy フィロ「愛する」、ソフィア「知を」の意味から「哲学」が生まれた)とかいう考え方を 手に入れるようになった。彼らは、キリスト教の聖典である「聖書」だけでなく、古く、ギリシア古典学の、とりわけ アリストテレスの学問体系に巨大な真実が隠されていることに気がつくようになった。このようにして、僧侶の中から、初期の 「科学者」が誕生するようになった。 (中略) 日本人は「科学」というと、「物理学」より「工学」のことを思い浮かべる。「工学部」というのはテクノロジー・デパート メントのことで、「科学技術」のことだ。あるいは、限定すれば「機械工学」エンジニアリングのことだ。そしてこれらは、 実は、サイエンスが発見した自然法則(ナチュラル・ローズ)を、産業に応用して、人間の生活に役立つ工業製品を作り出す。 それが技術(テクノロジー)なのだ。だから「工学」「機械工学」は、厳しく言えば学問(サイエンス)ではない。 テクノロジーとは「応用科学(アプライド・サイエンス)のことなのである。だから発見することが学問(科学)なのであり、 科学技術は発明であるに過ぎない。そして西欧の知識伝統では、発見がすばらしいことであり、発明は「実用新案」に すぎないと考えられている。 副島隆彦「決然たる政治学への道」P167〜169
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- 彼のうちに行ったら同人ゲーやっていた
10 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2009/01/19(月) 09:13:16 ID:4A/xUVcv - 日本人は、「理科系=科学」「文科系=いい加減な、自分勝手な、自分勝手の考えの寄せ集め」だと考えている。もっと言えば、
ある人が「数学」ができるかできないで「理科系」と「文科系」に分ける。この考え方には、大きな欠陥がある。ここに、 西欧人が共有する、世界普遍価値から、日本人が脱落する原因の一つがある。今から五百年前、すなわち十六世紀に西ヨー ロッパで「科学=近代学問」というものの考え方が興ったのだ。十二〜十三世紀ごろには、修道院の僧侶(モンク)たちが、 神への祈り中心の生活信仰をしていたのだが、そのうち「合理的精神(ラショナルマインド)」に目覚めて、考える」とか 「知る喜び(ちなみにphilo-sophy フィロ「愛する」、ソフィア「知を」の意味から「哲学」が生まれた)とかいう考え方を 手に入れるようになった。彼らは、キリスト教の聖典である「聖書」だけでなく、古く、ギリシア古典学の、とりわけ アリストテレスの学問体系に巨大な真実が隠されていることに気がつくようになった。このようにして、僧侶の中から、初期の 「科学者」が誕生するようになった。 (中略) 日本人は「科学」というと、「物理学」より「工学」のことを思い浮かべる。「工学部」というのはテクノロジー・デパート メントのことで、「科学技術」のことだ。あるいは、限定すれば「機械工学」エンジニアリングのことだ。そしてこれらは、 実は、サイエンスが発見した自然法則(ナチュラル・ローズ)を、産業に応用して、人間の生活に役立つ工業製品を作り出す。 それが技術(テクノロジー)なのだ。だから「工学」「機械工学」は、厳しく言えば学問(サイエンス)ではない。 テクノロジーとは「応用科学(アプライド・サイエンス)のことなのである。だから発見することが学問(科学)なのであり、 科学技術は発明であるに過ぎない。そして西欧の知識伝統では、発見がすばらしいことであり、発明は「実用新案」に すぎないと考えられている。 副島隆彦「決然たる政治学への道」P167〜169
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- 三流ツクラーはゲームを作るな!
81 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2009/01/19(月) 09:23:51 ID:4A/xUVcv - >>79
本当だよ(*^ー^*)
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- Ruina 廃都の物語
844 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2009/01/19(月) 18:34:29 ID:4A/xUVcv - Ruinaに投票してきたw
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