- 【富士】富士山と宗教…幕府による禁令、神道国教化政策 江戸民衆信仰のその後[01/10]
15 :やまとななしこ[sage]:2018/01/13(土) 20:12:16.32 ID:haLwjv1u - 文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園した。
目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた。 この新富士の管理を父親から任された富蔵は、農夫の塚原半之助に頼まれて蕎麦の露店用の土地を貸したが、家賃の未払いから諍いが生じた。 1826年(文政9年)博徒あがりの町人(農夫とする説も)、塚原半之助と父重蔵が持つ別荘(前述の新富士のこと)の地所境界争いから、塚原半之助とその妻や母親、子供計7名を殺傷し、その罪から同年に伊豆諸島の八丈島に流罪の判決。 俗に言う「鎗ヶ崎事件」である。 翌1827年(文政10年)八丈島へ。
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