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のっぺらー ★ 転載ダメ©2ch.net
華橋 ★
坊主 ★ 転載ダメ©2ch.net
【山形】加藤清正のよろい再現 鶴岡・丸岡の天沢寺で一般公開[07/25]©2ch.net
【大阪】近畿地域食育実践者等の交流会 [無断転載禁止]©2ch.net
【長崎】「祭祀などをつかさどったシャーマンの可能性が高い」 根獅子遺跡、弥生の人骨に貝輪 初の配石墓 平戸市公開[07/25]©2ch.net
【福井】特別展「ワンダフル×ニャンダフル〜暮らしのなかの犬、猫の歴史〜」 埴輪や浮世絵など384点[07/25]©2ch.net
【福井】独自風習まんじゅうまきに興奮 福井県立歴史博物館、31日も実施[07/25]©2ch.net
【神奈川】あざみ野でウィキペディア執筆イベント 「荏田宿」と「真福寺」を追加[07/25]©2ch.net
【東京】太宰治が思い出を綴り、宮崎駿が着想を得た目黒雅叙園は戦前の大テーマパークだった[07/25]©2ch.net

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【山形】加藤清正のよろい再現 鶴岡・丸岡の天沢寺で一般公開[07/25]©2ch.net
1 :のっぺらー ★ 転載ダメ©2ch.net[ageteoff]:2016/07/25(月) 12:44:06.48 ID:CAP_USER
鶴岡市ゆかりの戦国武将加藤清正が身に着けたとみられるよろいが専門家の手で再現され、
24日、同市丸岡地区の天沢寺(庄司良圓住職)で披露された。
清正と嫡男忠広をしのぶ同日の清正公祭(せいしょうこうさい)に合わせて一般公開された。

調査を含め、8年かけて制作した名古屋市在住の甲冑(かっちゅう)師、熱田伸道さん(68)は
「武将としての誇りを感じる高価なよろい。再現できてうれしい」と語った。

基となったよろいは1949(昭和24)の発掘調査で、同寺境内に立つ「清正閣」の下から出土した。
熱田さんは2008年に庄内藩酒井家のよろいの調査と修復で鶴岡を訪れた際、清正のよろいがあると知り、同寺に立ち寄った。
生誕地が名古屋である清正に縁を感じ、再現を申し出た。

原形をとどめていなかったよろいの各部を手掛かりに、類似の甲冑(かっちゅう)を調べて全体像を推定。
試作を重ね、今年6月に完成させた。

鉄製で胴高32センチ、重さ6.5キロ。
熱田さんは「動きやすい作りで、縁の一部を金で塗装していた。量産できるよろいにはない」と話していた。
自費で制作し、足軽のよろい2体と陣羽織10着と共に同寺に奉納した。

清正公祭には関係者ら約170人が出席した。
祈とう後、よろいが披露され、熱田さんが特徴や制作工程などを説明した。
庄司住職は「時間と労力をかけ、立派に作ってもらった。感謝している」と話した。

よろいは同寺に展示し常時公開する。

写真:地元住民らにお披露目されたよろい。再現した熱田伸道さんがよろいの特徴や制作方法などを説明した
http://yamagata-np.jp/news/201607/25/img_2016072500562.jpg

以下ソース:山形新聞 2016年07月25日 11:43
http://yamagata-np.jp/news/201607/25/kj_2016072500578.php
【大阪】近畿地域食育実践者等の交流会 [無断転載禁止]©2ch.net
1 :華橋 ★[]:2016/07/25(月) 15:17:27.92 ID:CAP_USER
http://www.maff.go.jp/kinki/press/keiei/tiiki_syokuhin/160630.html

H28 7/25 13:15〜16:30
@大阪ガス

 近畿農政局では、地域で食育を実践している皆様の活動を支援するため、セミナーや参加者同士の交流を図っていただく場として「近畿地域食育実践者等の交流会」を開催します。
 食育に取り組まれている方はもとより、食育に関心をお持ちの方々、皆様のご参加をお待ちしています。
【長崎】「祭祀などをつかさどったシャーマンの可能性が高い」 根獅子遺跡、弥生の人骨に貝輪 初の配石墓 平戸市公開[07/25]©2ch.net
1 :坊主 ★ 転載ダメ©2ch.net[sageteoff]:2016/07/25(月) 23:36:53.62 ID:CAP_USER
引用元:毎日新聞 2016年7月25日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20160725/ddl/k42/040/147000c

 弥生時代の墳墓で知られる根獅子遺跡(平戸市根獅子町)で24日、新たに出土した人骨が一般公開された。左腕に二枚貝を加工したとみられる貝輪が残っており、周囲に三つの石が配置されていた。同時代の土井ケ浜遺跡(山口県下関市)の「配石墓」と同じ埋葬形態で、土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸名誉館長(65)は「根獅子で配石墓が確認されたのは初めて。土井ケ浜との交流も考えられる重要な史料」と話している。

 人骨は22日、工事中に深さ約50センチの砂地から見つかった。ほぼ全身の骨格が、あおむけで足を折り曲げた「仰臥屈葬(ぎょうがくっそう)」の状態で残っていた。

 市の依頼を受け、松下名誉館長らが23、24日に調査。眉の形状と抜歯の痕から約2000年前の弥生中期の成人女性と鑑定し、24日午後には同ミュージアムに移して調べている。

 根獅子遺跡は砂丘に位置し、1933年以降の調査で約20体の人骨が見つかっている。貝輪の出土は72年以来、44年ぶり。松下名誉館長は「祭祀(さいし)などをつかさどったシャーマンの可能性が高い」とみている。【峰下喜之】

人骨の左腕に残っていた半円状の貝輪を示す松下名誉館長。両肩と足元には石が配置されていた
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/07/25/20160725dd0phj000157000p/9.jpg
【福井】特別展「ワンダフル×ニャンダフル〜暮らしのなかの犬、猫の歴史〜」 埴輪や浮世絵など384点[07/25]©2ch.net
1 :坊主 ★ 転載ダメ©2ch.net[sageteoff]:2016/07/25(月) 23:40:30.85 ID:CAP_USER
引用元:毎日新聞 2016年7月25日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20160725/ddl/k18/040/175000c

 福井市城東1の県立こども歴史文化館で夏の特別展「ワンダフル×ニャンダフル〜暮らしのなかの犬、猫の歴史〜」が開かれている。人間と犬猫の関係を出土品や浮世絵、文書を通じて探る。観覧無料。9月4日まで。

 犬形埴輪(はにわ)(5世紀)、猫とみられる動物の足跡が残る土器(7世紀前後)など384点を展示。縄文時代の貝塚から出土した犬の頭蓋骨(ずがいこつ)、飼い猫が盗まれたと訴える江戸時代の文書をはじめ、県内で見つかった資料も充実させた。奥田陽子学芸員は「日本人がどのように犬や猫と付き合ってきたのか知ってほしい」と来館を呼びかける。

 期間中無休。午前9時〜午後5時(入館は午後4時半まで)。問い合わせは県立こども歴史文化館(0776・21・1500)へ。【岸川弘明】

展示される犬形埴輪=福井市城東1の県立こども歴史文化館で、岸川弘明撮影
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/07/25/20160725oog00m010065000p/9.jpg
【福井】独自風習まんじゅうまきに興奮 福井県立歴史博物館、31日も実施[07/25]©2ch.net
1 :坊主 ★ 転載ダメ©2ch.net[sageteoff]:2016/07/25(月) 23:44:12.37 ID:CAP_USER
引用元:福井新聞 2016年7月25日午前7時10分
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/event_calture/100658.html

 福井県立歴史博物館の特別展「ふくいの婚礼」に合わせ、福井県内の婚礼でかつて盛んに行われていた「まんじゅうまき」が24日、福井市の同館正面玄関前広場で行われた。集まった約120人が、ばらまかれる紅白まんじゅうに手を伸ばし、会場は熱気に包まれた。お年寄りたちは昔ながらの風習を懐かしんでいた。

 まんじゅうまきは、嫁入り当日に新郎宅で行われた福井県独自の風習。明治期ごろから福井市や旧坂井郡の都市部で始まり、他地域にも広まった。近隣住民ら大勢が集まり花嫁がお披露目される機会にもなっていたが、10〜20年前ごろから徐々に見られなくなった。

 同館職員が2階テラスから、まんじゅう500個をまいて風習を再現。待ち構えた参加者はわれ先にとつかみ取り、持参のビニール袋に集めていった。知人の結婚式以来、約20年ぶりにまんじゅうまきを楽しんだ同市の竹沢礼子さん(75)は「昔はこれがあったから、お嫁さんを集落全体でお迎えできた。しきたりがなくなったのは寂しい」と話していた。

 まんじゅうまきは31日も、特別展の入場者を対象に午後2時から行われる。

婚礼の風習を再現してばらまかれるまんじゅうに手を伸ばす来場者=24日、福井市の福井県立歴史博物館
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/photos/20160724212231_545511568.jpg
【神奈川】あざみ野でウィキペディア執筆イベント 「荏田宿」と「真福寺」を追加[07/25]©2ch.net
1 :坊主 ★ 転載ダメ©2ch.net[sageteoff]:2016/07/25(月) 23:56:39.11 ID:CAP_USER
引用元:港北経済新聞 2016年07月25日
http://kohoku.keizai.biz/headline/1793/

 東急田園都市線江田駅・あざみ野駅周辺で7月24日、ウィキペディアに旧街道沿いの正しい歴史・文化情報を掲載するプロジェクト『第7回ウィキペディア街道「大山道」』が開催された。

 ICTを使って市民課題を解決する活動を展開している「Code for Kanagawa」らが中心になって企画した同プロジェクト。東京・赤坂から神奈川県・大山までを結ぶ古道「大山道」沿いの寺社、文化財、宿場の正確な情報を信頼できる文献などを調べて、ウィキペディアに掲載している。昨年5月から始まり、これまでに東京・世田谷区、神奈川・川崎市、海老名市でそれぞれイベントを開催してきた。

 ウィキペディア掲載には、特筆性(人に伝えるべき情報かどうか)や客観性など「ウィキペディアの書き方」がある。このプロジェクトでは著名なウィキペディア編集者や管理人、過去にウィキペディアの執筆したことのある経験者が協力し、書き方の指導などを行ってきた。

 今回は横浜初開催で、テーマは江田駅・あざみ野駅周辺の大山道沿いでかつて栄えた宿場「荏田宿」と近くにある「真福寺」。当日は約20人の参加者が集まり、現地調査や山内図書館での文献調査を行った。午後にはアートフォーラムあざみ野内でチームに分かれて執筆作業を実施。共同執筆によってウィキペディア内に「荏田宿」と「真福寺」の項目が加わった。

 「Code for Kanagawa」の小池隆さんは「大名行列などではなく大山信仰のために発展してきた大山道。派手さはないが、知られていない重要文化財や歴史などが多く点在していて、調べがいがある」と話すほか、「地域のこうした知られざる情報を残していくことは意義のあること」とも。

 次回は10月に神奈川・厚木の大山道沿いで開催予定。

約20人の参加者が現地調査・文献検索・記事執筆を共同で作業した
http://images.keizai.biz/kohoku_keizai/headline/1469410759_photo.jpg
【東京】太宰治が思い出を綴り、宮崎駿が着想を得た目黒雅叙園は戦前の大テーマパークだった[07/25]©2ch.net
1 :坊主 ★ 転載ダメ©2ch.net[sageteoff]:2016/07/25(月) 23:58:46.76 ID:CAP_USER
引用元:ハーバービジネスオンライン 2016年07月25日
http://hbol.jp/102500
http://hbol.jp/wp-content/uploads/2016/07/gajoen.jpg

●2002年には883億円の負債を抱え経営破綻

「四月二十九日に、目黒の支那料理屋で大隅君の結婚式が行われた。その料理屋に於いて、この佳よき日一日に挙行せられた結婚式は、三百組を越えたという。」太宰治が、友人の結婚を世話することになり、当日までの慣れない仕切りを綴った短編『佳日』に登場するこの”目黒の支那料理屋”こそが今回取り上げる目黒雅叙園です。

 目黒雅叙園は、目黒駅前の行人坂を下っていったところにある、結婚式場・ホテル・レストラン等の複合施設です。日本で最初の総合結婚式場として知られ、近年では2009年に東京都の有形文化財に指定された「百段階段」がジブリアニメ『千と千尋の神隠し』の舞台モデルとなったり、園内にある人口滝がパワースポットとして取り上げられるなど、再注目されていましたね。

 なお、現在の経営形態ですが、かつて目黒雅叙園を経営していた雅秀エンタープライズは2002年に883億円もの負債を抱えて破綻、目黒雅叙園の運営は、株式会社目黒雅叙園(海外挙式大手ワタベウェディングの完全子会社)が行い、土地施設全体は外資系ファンドのラサール・インベストメント・マネージメントの特別目的会社が所有する形になっています。ちなみに、土地施設に関しては、バブル期に相当複雑怪奇な権利問題に発展したようです。

●「昭和の竜宮城」と称された前代未聞のサービス

 さて、現在の目黒雅叙園は、前述した「百段階段」を除き、1991年の目黒川の拡張に伴う全面改装後のものです。3000点にも及ぶ美術品含め、旧施設の多くも移築復元はされているものの「昭和の竜宮城」と称されたかつての目黒雅叙園そのものではありません。

 戦前、1931年から1943年に至るまで、全7期にわたって、当時一流の芸術家、庭師、左官、建具師、塗師、蒔絵師など数百名が集結して豪華絢爛な施設を作り上げた上、本格的な北京料理を始めとするレストラン、孔雀や熊までいて子供も楽しめたという庭園、鯉が泳ぐ川があったというトイレなど、前代未聞のサービスを庶民価格で利用しやすい形態で提供し、当時の一大テーマパークとなった「昭和の竜宮城」とはどのような存在だったのか、見ていきましょう。

郊外に豪華絢爛な料亭を作った細川力蔵のビジネスセンス

 目黒雅叙園を創業した細川力蔵は石川県出身、小学校を終えると東京の銭湯に丁稚奉公し、その働き具合が認められて大正の初めに自分の銭湯を芝に持つと浴場経営に加えて、不動産業にも成功し一財産を築いた人物でした。その力蔵が1928年に芝浦の自邸を改築した純日本式の料亭「芝浦雅叙園」を経て、1931年に目黒の土地を入手して、本格的な北京料理および日本料理を提供する料亭「目黒雅叙園」をオープンしたのがその歴史の始まりです。

 ところで、どうして目黒で開業したのでしょうか。もちろん、たまたま良い物件が入手できたからというのはあったにしろ、当時の目黒は今の目黒とは違い「目黒のさんま」に登場するような東京郊外でした。その郊外の目黒で料亭を開業した集客上の理由を二つ考えてみたいと思います。

 一つ目の理由は、江戸(東京)っ子の娯楽としてのお参り信仰です。目黒雅叙園の近くには目黒不動を初めとする山手七福神や大鳥神社があり、ちょっとした物見遊山にはもってこいでした。そこに突然出現する現実から遊離した豪華絢爛にして物珍しい空間は、非日常の時間を過ごすにはちょうど良かったのではないでしょうか。一見、粋を重んじる江戸っ子が嫌いそうな、宮崎駿が「元禄文化風とされる通俗的などぎつさ」と評した雰囲気が人気を博したのもそんなところではないかと思われます。

 二つ目の理由は、当時周辺に海軍の施設が沢山あったことです。もし、目論見通りに一般人(toC)が来なければ、軍人相手に宴会等を受け入れる(toB)というプランBがあったのではないかと思われます。その証拠に旧館の部屋名には「長門」「陸奥」「金剛」「妙高」「足柄」など、艦これよろしく、戦艦の名前が並んでいたようです。結果的には、toB、toC、両方とも当たり、大いに繁盛して、その後の増改築に繋がっていきます。

 もちろん、これらの理由も今となっては類推に過ぎませんが、とはいえ当時の目黒に雅叙園を作ったビジネスセンスは、冬の軽井沢にスケート場を作ったり、夏の大磯にプールを作ったりした若き日の堤義明のエピソードなども思わせ、その経歴からも分かる通り、力蔵は相当やり手のアントレプレナーだったのだろうと感じさせます。
【東京】太宰治が思い出を綴り、宮崎駿が着想を得た目黒雅叙園は戦前の大テーマパークだった[07/25]©2ch.net
2 :坊主 ★ 転載ダメ©2ch.net[sageteoff]:2016/07/25(月) 23:59:31.92 ID:CAP_USER
●若干33歳で目黒雅叙園を任された大工の棟梁、酒井久五郎

 次に、非日常を演出した目黒雅叙園の主役とも言える建物について触れておきましょう。現代のビジネスに於いてもそうですが、トップがどれだけビジョナリーな目標を掲げても、それを形に出来るエンジニアが居なければビジネスは実現しません。そして、目黒雅叙園においてその役割を担ったのが、力蔵専属の大工の棟梁、酒井久五郎でした。

 久五郎は、江戸城内御殿築造に携わるなど優れた大工や左官等の職人を輩出した静岡県土肥町小下田の出身で、目黒雅叙園を彩る螺鈿や彫刻、 日本画、銘木といった、訪れた人を竜宮城へと誘う、豪華絢爛な施設を見事に形にした人物です。しかし、何より驚くのは雅叙園の棟梁を任された時の年齢で、なんと33歳の若さです。力蔵のビジネスセンスも凄いですが、久五郎もまた天才的なエンジニアだったのでしょう。

 力蔵は、連日数百人集まった職人達から1日5銭を天引きして久五郎に与え、久五郎はその金で職人や工芸家達と高級料亭へ足繁く通ったそうですが、おそらくそれは報酬や慰労ではなく、生きた本物を実際に見せて、雅叙園に取り込んでいく投資だったと思われます。そのことは久五郎が現場で常々口にしていた「俺達の仕事は博覧会の仕事じゃないんだぞ」という言葉からも伺われます。

●『千と千尋の神隠し』のモデルに使われた「百段階段」

 その久五郎が37歳の時に手がけたのが『千と千尋の神隠し』のモデルとなった「百段階段」です。建てられた昭和初期は全国各地に高度で質の良い数寄屋建築が建てられていた時期であり「百段階段」はその中でも傑作の一つと言われています。

 荒木十畝や鏑木清方など、当時の日本を代表する作家が率いる画塾に部屋を一つずつ任せ、場合によっては女中と書生付きで数年にわたって完成させた7つの部屋「十畝の間」「漁樵の間」「草丘の間」「静水の間」「星光の間」「清方の間」「頂上の間」を、行人坂の傾斜に沿って配置、それを10〜20段上がると部屋が右側にあるという具合に繋いでいるのが「百段階段」です。

 ちなみに『千と千尋の神隠し』で具体的にモデルになったのは「漁樵の間」と「草丘の間」で、それぞれ宴会場や湯婆婆の部屋、千尋が寝泊まりしていた女中部屋に使われています。

●元祖スーパー銭湯?豪華で大きな風呂と美味しい食事の組み合わせ

 土地と建物と来て最後に、大人気を博した当時最先端のサービスについても紹介しておきましょう。まずは、料亭としてスタートした目黒雅叙園でしたが、それまで料亭といえば、上流階級だけが楽しむ場所でした。これからは大衆の時代がやってくると考えていた力蔵は、庶民の立場に立った工夫を施していきます。

 例えば、料金を明記したお品書きです。従来の料亭は上流階級の顧客相手なので「品書き」といっても、今あるものをさらりと示す程度でした。そこで、利用しやすいように品書きに細かく料金を記載、従来の「心付け」も、「サービス料」として一律化します。また開業時には、5人以上の来店なら市内どこでも無料でタクシーがお迎えに行くサービスもスタートさせ、こちらも話題を呼びました。

 次に着手したのが、元々力蔵の得意分野だった「風呂」です。1933年に園内にオープンした浴場施設「百人風呂」は、建物同様華美な設えが施されている上に、わざわざ温泉から湯を運んできて沸かし直す『再生温泉』でした。現在の都市型温泉やスーパー銭湯の元祖とも言える、この豪華な風呂と食事の組み合わせはたちまち風呂好きの江戸っ子の心を捉えました。


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