- 【愛知】グレート家康公葵武将隊
44 :やまとななしこ[]:2011/05/04(水) 22:27:31.44 ID:w1g3GOPF - センスなし、ここはあえて太平記なんだよ
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。 途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。 19家とは 西条吉良 東条吉良 今川 一色 仁木 細川 斯波 戸賀崎(荒川) 畠山 桃井 渋川 岩松 石塔 上野 鹿嶋 粟生 倉持 高 上杉
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45 :やまとななしこ[]:2011/05/04(水) 22:31:52.90 ID:w1g3GOPF - 元弘の変当時の足利一族
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】 ・三河守護所 ・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当) ・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設) ・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡(籠田公園辺り)に建てられる) 【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】 ・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、屋敷近くの八剣神社に足利尊氏の墓あり ・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷) ・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城) ・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城 【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】 ・上地一族(細川氏分家)の屋敷 ・上地一族(仁木氏分家)の屋敷 【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】 ・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城) 【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】 ・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷 ・石橋一族(斯波氏分家、将軍御一家、備前守護他)の屋敷 ・上野一族(石見守護等)の屋敷 【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】 ・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西尾城) ・奥州吉良一族(奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城) ・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷 ・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城) ・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
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46 :やまとななしこ[]:2011/05/04(水) 22:36:56.92 ID:w1g3GOPF - 【三代将軍足利義満時代の幕府内支配層】
■三職 斯波(三河国碧海郡矢作)、細川(三河国額田郡細川)、畠山 ■武者頭(将軍御一家) 吉良(三河国幡豆郡吉良)、今川(三河国幡豆郡今川)、渋川 ■七頭 一色(三河国幡豆郡一色)、上杉(三河国額田郡矢作)、 伊勢、山名、京極、赤松、土岐 【八代将軍足利義政時代の幕府内支配層】 ■三管領 斯波(三河国碧海郡矢作)、細川(三河国額田郡細川)、畠山 ■下馬衆(将軍御一家) 西条吉良(三河国幡豆郡吉良)、東条吉良(三河国幡豆郡吉良)、石橋(三河国碧海郡矢作) 渋川 ■同紋衆 上野(三河国碧海郡上野)、一色(三河国幡豆郡一色)、仁木(三河国額田郡仁木)、今川(三河国幡豆郡今川) 山名、新田、大館、桃井、吉見
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50 :やまとななしこ[]:2011/05/04(水) 23:14:50.50 ID:w1g3GOPF - 尊氏も感激したこのコンテンツだよ、名古屋の猿共と同じ事はしない
明阿 南北朝時代の女性、尼僧。実名は不明。足利氏の執事を務める高氏の出身で、観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、総持寺(愛知県岡崎市)建立に奔走しその開基となった。 父は足利尊氏の執事を務めた高師直の兄弟で、自身も優れた武将であった高師泰。夫は父の従兄弟で、後に高師直の猶子となった関東執事高師冬。師冬と結婚した時期は不明で、 子供もまだ儲けていなかったらしい。 正平6年/観応2年(1351年)、夫師冬が甲斐国で敵に包囲され自害、更におよそ一月後には、おじ師直・父師泰・兄弟師世ら高一族8人が摂津国武庫川で殺害されるという悲運に遭い出家、明阿と名乗る。 明阿は滅亡した一族の菩提を弔うため、寺院の建立を決意し、正平10年/文和4年(1355年)8月、足利尊氏に対して、師泰の生前に自身が譲り受けていたとする 菅生郷(岡崎市)を菩提所として建てる総持寺に寄進したいと申し出た。尊氏は感激し、息子の義詮にもこのことを伝え、各々明阿に対して申し出に賛同する書状を送っている。 ところで、寄進予定の菅生郷は、師泰らが滅んだ観応2年のうちに既に師泰養子である高師秀の知行地として幕府に認められていた。実際は明阿の生活を慮った師秀が、 明阿に菅生郷を譲渡していたようだが、書類上は師秀の知行地のままであった。 そのため、後々、問題が紛糾することを懼れた明阿は、前述の尊氏・義詮の書状を得た後、師秀にも「去状(譲状)」を書いてもらい、更に念を入れ、 足利家から寺へ菅生郷を寄進してもらう形を採りたいと尊氏に伝え、尊氏もこれを了承している。 経営基盤の整った総持寺は、数年後には現在の岡崎市籠田町に完成されたと考えられている。明阿は開基となり、亡き兄弟師世の子、自身の姪である「いち」を剃髪させ住持とした。 同寺は明治に到るまで尼寺であり、総持尼寺として知られ、昭和に入り岡崎市中町に移転した。
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51 :やまとななしこ[]:2011/05/04(水) 23:17:54.09 ID:w1g3GOPF - 高師直
高氏(こうし)は高階氏流で右大弁高階峯緒の末裔である。大高大夫惟頼が実は源義家の四男であったと言われるがこの辺りから源氏との結びつきが強くなったのであろう。 その曾孫惟長が足利義兼に仕え、額田郡日志賀・菅生郷司職に補任され足利家執事となった。それ以降、惟重、重氏、師氏、師重らが代々執事を務めている。 鎌倉政権下で足利氏は有数の名門として遇され、家督の下に三番編成の中央奉行所があり高氏(こうし)や上杉氏が務めていた。その下に地方公文所があり、命令は「袖判下文」により伝達されていた。 この袖判下文は将軍家のほかは北条氏、足利氏にのみ許されたというから幕府内部での足利氏の家格の高さが窺える。 徳治三年(1308)に高師行奉書が、元亨二年(1322)に師重奉書が出されており、執事が家督からの命令伝達に大きい役割をしていたのがわかる。 ・額田郡日志賀・菅生郷の権益は足利義兼の嫁の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう ■藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼 ■高階惟長→惟重→重氏→師氏→師重→高師直・高師泰 『梅松論』新田義貞の下向 去程に数万騎の官軍関東に下向するよし聞えければ、高越後守(=高師泰)を大将として大勢を差し添へて海道に遣さる。 師泰に仰せられけるは、「先づ三河国に下りて矢作川を前に当て、御分国(三河国菅生郷:高師泰・高師直の領地)たる間、駈け催して当国の軍勢を相待つべし。 努々(ゆめゆめ)川より西へ馬を越すべからず」と将軍の命を請けて、
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