- 【第三の眼】松果体を鍛えてみる 10【チャクラ】
446 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2024/03/24(日) 22:27:26.29 ID:6bdG0JKy - 今在る有をそのまま無にしてもそれは有に対しての相対的無に
過ぎない。 ルビンの盃の中を空(から)にしただけ、この状態で上位次元の 本態である波動性を引き込んでも、盃属性の自我と感覚は残る。 この無を有と相対する無と捉えるなら、絶対的無とは何か。 それは、ルビンの盃を解体しながら波動性とつながること。 盃は外から見れば向かい合った顔になる、この切り替えを 認知論的にはポジネガ転換という。 ポジネガ転換しながら境界線を具象、抽象、波動性と ゲシュタルト崩壊させていくのが「空」の瞑想。 今一度、「無」と言う概念でまとめると、認知の場所を固定して その範囲を空っぽにしたのは相対的無。 有が認知の相互関連性にあるとして、認知の場そのものを 解体していくのが、絶対無=空。 イメージすると、クラインの壺の壁を循環しながら内側は外側 であり、外側は内側でもある、あるいは内も外も無いと体感しながら 壁そのものを消失していく、これが絶対無。 この絶対無=空を掴んだのが釈迦、原始仏教にその方法論を 残したがその後の仏教で「空」として観念化された。 ちなみに原始仏教の三十七科菩提分法と古神道の惟神は 意識の遣い方は同じで、どちらも認知を解体する空の瞑想。 この世界は幻影、無の瞑想は幻影を一時的に消すか消した後に 自分好みの幻影を差し込むためのもの。 一見それでもよさげだが、流れに逆らって一時的に止めたり 人工的に渦を起こすようなものだから、色々制限があり 継続性のない道行。 空の瞑想は、幻影の根源まで降りてそこを理解して波動化した自己と 感性で超ひも的な根本的原理と同一化する。 現代人には、無より空の瞑想の方が合ってる。
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