- 仙道総合21
40 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2022/08/18(木) 10:49:05.25 ID:6VWDY9+R - うん、意識でフォーカスした気ではなく
無念無想になって無焦点集中で捉えた気。 気を視るのではなく最初は体性感覚と結びついた気が 視覚系も刺激して感じられる光、だから視覚的でないと表現した。 数息観は数に集中することで言語想起を、息の運行感覚に意識を乗せることで イメージの想起を止め、さらに活発になった体性感覚に意識を置くことで 無念無想に入る。 深い体性感覚=気感で、もともとはすべてつながりワンネスなんだが 意識がそれを隔てていて、その意識の枠組みを外すと、そのつながりを 体験出来て、それだけでなく外部とのつながりを「気」として運用可能になる。 一種の大周天なんだが、気というのは身体機能のすべて、他とのつながりを感じ取る 感覚器官に絞り込んでも五つある。 この状態は触覚系の体性感覚だけが外部の気と結びついた状態。 だからすべての感覚器官が外部に開いた状態を真大周天とするなら こちらは触覚系だけの一部大周天=真気発動でよいと思う。 アストラルとかいう設定はよく判らないが、たぶん気の拡がりは感じながら 自我意識の枠組みを捨てきれない世界なんだろうね。 目を瞑っていても何かに意識をフォーカスすると必ず目の焦点が動くから そこの気を視覚化しさらに脳が見たいモノを投影したりする。 後頭部に意識を向けたりすると良いよ、そこは唯一視覚の焦点がニュートラルに なるところだからね。 一度>30のような体験をするとそれだけで無念夢想から明鏡止水に入れる。 この明鏡止水は体性感覚で感じているがそれが視覚系にも反映される。 むしろ焦点から解放された視覚が体性感覚=触覚系と結びついて 全身で光を感じている、それが明鏡止水時に感得する光感。 よく五感を別の五感で感じる人がいるだろ、あれの総合版のように 気を感じめた先に「丹光」がある、視えてはダメなんだよ視えては。
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