- ◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法9◆◆
527 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2013/01/05(土) 16:26:49.05 ID:pY9Vqbjs - 徳があるとは何なのでしょうか?
何が人を正しく行動させるのでしょうか? 私たちは本当に極めて不道徳的である社会の徳を捨てることができるでしょうか? 道徳は尊敬すべきものとなっており、宗教的な承認によって認可されてきました。 反革命の道徳もまた、よく確立した社会のそれと同様に、不道徳的で尊敬すべきものになります。 この道徳は戦争に行くこと、殺すこと、攻撃的であること、権力を求めること、憎悪することを指します。 それはすべて確立された権威の残酷さと不正です。 これは道徳的ではありません。 しかし人は、それは道徳的でないと実際に言うことは困難です。 なぜなら、それに私たちが気づいているかいないかにかかわらず、私たちはこの社会の一部であるからです。 社会的道徳は私たちの道徳です。 私たちがそれを片づけるたやすさが、私たちの道徳の印です 私たちの態度が私たちが住んでいる環境によって方向づけられ、それによって統制され形作られるなら、 そのときそれは機械的で、ひどく条件付けられています。 私たちの行為が恐怖や報酬に基づいているなら、それは正しいでしょうか? ある観念的な概念や原理に従って正しく振る舞うなら、その行為は「徳がある」とみなされることができるでしょうか? 私たちはどんなに深く権威、模倣、順応、服従の道徳を捨ててしまったかを見出し始めなければなりません。 恐怖は私たちの道徳の基礎ではないでしょうか? これらの問いが基本的に自分自身で答えられるのでないなら、 人は本当に「徳がある」とは何なのか知ることができません。 どんな簡単さで私たちがこの偽善から出てくるかが最大に重要です。 単にそれを無視するだけなら、それは「徳がある」ということを示していません。 単に精神錯乱しているのかもしれません。 決まりきったそして満足な生を送るなら、それもまた道徳的ではありません。 聖人によって確立された伝統に順応し、それに従う聖者の道徳は明らかに道徳ではありません。 それが伝統によって承認されるか否かに関わらず、パターンへの順応は正しい態度ではありません。 自由の中からのみ、徳は現われてくることができるのではないでしょうか。 人は道徳とみなされるものの網目から、自分自身を自由にすることができるでしょうか? 徳は観念、概念ではなく、自由です。
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