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かる ◆N4OUHymbXQ
【未来】 四 季 【預言】

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【未来】 四 季 【預言】
190 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/11/02(水) 08:58:20.74 ID:2YPnyYo9
おはようです。

おはようです。

暦で今日は「一の酉」の日です。

一の酉とは、「11月の最初の酉の日。また、その日に開かれる鷲神社の祭礼。酉の市。初酉(大辞泉参照)」
と認識されているようで、この酉の市は全国各地で行われることと思うのですが、
その中でも浅草酉の市縁起がよく知られていることとも思います。
御開帳と呼ばれる、十一月の酉の日に開かれる門前市が所謂「酉の市」という由来であり、
現在の浅草酉の市の発端と伝わっています。
古くは、花又村(足立区)の酉の市を「本の酉」、浅草の市を「新の酉」と言われていたようです。
【未来】 四 季 【預言】
191 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/11/02(水) 08:59:20.66 ID:2YPnyYo9
そして今日は「この道」などの作詞家としても知られている、詩人であり歌人でもあられた北原白秋を偲ぶ催しが行われることとも思います。

北原白秋。
詩人、歌人。本名隆吉。明治、大正、昭和における詩、短歌、童謡、歌謡、民謡など幅広い領域で活躍し、国民詩人として親しまれた。
1909年、第一詩集『邪宗門』を刊行。「曲節(メロデア)の悩みのむれ」「官能の愉楽のその」「神経のにがき魔睡」(『邪宗門』扉銘)という、
濃厚な感覚世界を描き出した。1911年に刊行した『思ひ出』は冒頭の散文「わが生ひたち」によって抒情小曲集の世界の見取り図を説き、
続いて官能的な陰影をもった象徴詩とともに歌謡へと通じる詩編によって白秋の故郷と幼年時代の世界を創出した。
この詩集により世評がさらに高まり、詩人としての地位を確立したが、生活面では生家が破産し上京した家族と同居することになる。
1912年、隣家の松下俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷の未決監に勾留される。示談が成立し保釈となったが、深刻な精神的ダメージを受けた。
1913年(大正2)第一歌集『桐の花』を刊行、短歌の世界に象徴詩の手法を生かして注目された。
歌集中の「哀傷篇」は下獄事件にかかわる激しい慟哭が詠まれている。
新生を求め俊子を伴い、一家をあげて神奈川県三崎町に移住。同年第三詩集『東京景物詩及其他』も刊行する。
『東京景物詩及其他』はパンの会時代の東京景物を描いているが、象徴詩を引き継ぐとともに歌謡への傾向も示している。
魚類仲買業に失敗した一家は東京の麻布に転居するが、白秋夫妻は三崎にとどまる。
「城ヶ島の雨」はこの時期につくられ、梁田貞の作曲で発表された。
翌年の2月、俊子の転地療養ということで小笠原父島に渡るが、7月には帰京し、麻布坂下での一家同居の貧窮生活のなかにあって俊子と離別する。
旺盛な創作期であった三崎時代の絢爛とした光満ちあふれる新生の歓喜を詠んだ短唱集『真珠抄』や『白金之独楽』、
第二歌集『雲母集』を相次いで刊行した。
【未来】 四 季 【預言】
192 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/11/02(水) 09:02:16.59 ID:2YPnyYo9
1916年、結婚と同時に葛飾に転居。本郷動坂での生活を経て、1918年に小田原に移住。鈴木三重吉の児童文学雑誌『赤い鳥』が創刊され、
童謡部門を担当し、創作童謡を次々発表する。全国のわらべ歌の収集に力を尽くすなど童謡詩人としての活動が旺盛になされ、生活も安定するが、
1920年新築地鎮祭の日、妻に叛かれたとされる事件により離婚。翌年、佐藤キク(菊子)と結婚し、家庭的な安定を得た。
詩歌論集『洗心雑話』、清貧生活を題材にした歌集『雀の卵』を刊行し、山田耕作(筰)との共同の芸術雑誌『詩と音楽』(1922〜23)、
前田夕暮、土岐善麿、釈迢空との超結社歌誌『日光』(1924〜27)を創刊する。
上野谷中の天王寺墓畔に転居した1926年には、詩誌『近代風景』(〜28)を創刊主宰するなど旺盛な活動を示している。
1928年(昭和3)には、1925年の樺太、北海道の歴遊から題材を得た紀行集『フレップ・トリップ』を刊行。
4月、旅客機による「芸術飛行」の企画により約20年ぶりに郷里柳川を訪問し、熱烈な歓迎を受けた。
翌1929年には『海豹と雲』を出版し、またアルス版『白秋全集』全18巻(〜1934)が刊行開始となる。
1935年「新幽玄」と「新象徴」を理念とした短歌雑誌『多磨』を創刊し、浪漫主義の復興を唱えることで「アララギ」と歌壇を二分する新勢力となる。
1937年『新万葉集』の選歌に携わるが、糖尿病、腎臓病による眼底出血により視力が衰える。
1939年、紀元二千六百年記念・長篇交声詩「海道東征」や長唄「元寇」を完成。
翌年、病中の薄明吟を集めた歌集『黒檜』をまとめた。1941年島崎藤村(1940年に選任されたが辞退)、窪田空穂とともに芸術院会員となる。
昭和17年11月2日死去。水郷柳河写真集『水の構図』の跋文が未完の遺稿となった。
詩集、歌集のほか『とんぼの眼玉』(1919)などの童謡集、翻訳童謡集『まざあ・ぐうす』(1921)、歌謡集『日本の笛』(1922)、
詩文集など多彩で旺盛な創作活動は、質量ともに国民詩人白秋の名にふさわしい(日本大百科全書 参照)。

北原 白秋。
http://youtu.be/hv1OLbg3tzM


「柿生ふる 柿生の里 名のみかは 禅寺丸柿
 
 山柿の赤きを見れば まつぶさに 秋は闌けたり」 北原 白秋。


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