- 【未来】 四 季 【預言】
150 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/13(木) 08:59:27.23 ID:6dY7S85y - おはようです。
暦で今日は日蓮宗開祖と知られている、日蓮上人を偲ぶ催しが行われる所もあることと思います。 日蓮。 安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市小湊)の地で、貞応元年2月16日に生まれた。 出自については、三国氏、貫名氏など諸説があるが、有力漁民の子であろうというほかまったく不明である。 幼年期を海浜の村で送ったのち、12歳のときにほど近い清澄山の清澄寺に入り、住僧の道善房を師として修学に励む。 当時の清澄寺は、天台宗の法華経信仰に、浄土教・密教をあわせた有力な山岳寺院で、僧侶の往来も激しかった。 やがて出家して是聖房蓮長と称し、本尊の虚空蔵菩薩に智者としての大成を祈願したが、生死の問題を解決するわけにはいかなかった。 鎌倉幕府の体制が質的な面において問い直され始めたという社会の風潮が、このような意識を抱かせ始めたようで、 やがてこの疑いを晴らすことを目的に、清澄を去り比叡山遊学の旅に上る。 比叡山を拠点としながら、京都・奈良の諸大寺を訪れ、さらに高野山、四天王寺に足を伸ばして修学したが、その目に映ったのは浄土教の隆盛である。 この現象を天台宗の正統である法華経信仰の衰退ととらえ、これを復興することによって現世の平安を獲得することを誓う。 ふたたび清澄寺に帰り、南無妙法蓮華経と初めて唱え、『法華経』の伝道を宣言した。 1253年(建長5)4月28日のことで、この日を立教開宗の日として記念している。 蓮長を日蓮と改めたのも、このころである。ところが、日蓮の主張は『法華経』の信仰を主張する反面、 浄土教の信仰を強く拒否するものであったから、日蓮はついに清澄山を退出することとなる。 しばらく房総(千葉県)の天台宗勢力を頼りながら伝道を続け、下総国の守護千葉介頼胤に連なる武士たちの間に信者を獲得した。 富木常忍、太田乗明、曽谷教信らで、終生その信仰を守った。この後、遅くとも1257年(正嘉1)の初め頃迄に、 日蓮は鎌倉へ進出して松葉谷に草庵を構えて、伝道活動を展開した。ところがその年8月に起こった大地震は激しく、鎌倉は壊滅状態に陥る。 そのうえ洪水、干魃、疫病、飢饉などの天災が続出した。日蓮はこのように不安な状態から脱出する方法を、宗教者として模索し始める。 浄土教の信仰を捨てて法華経の信仰になりきることによってのみ、現実の世界は仏国土になることができるというのが、その結論である。 いま法然(源空)の説く浄土教を禁圧して『法華経』に帰依しないならば、国内に内乱が起こり、他国から侵略を被るであろうと、 為政者の宗教責任を問う『立正安国論』を著した。日蓮はこの書を、前執権北条時頼に呈上し、 『法華経』の信仰に基づく善政を施すことによって災難の克服を進言する。1260年(文応1)7月16日のことである。
|
- 【未来】 四 季 【預言】
151 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/13(木) 09:02:36.78 ID:6dY7S85y - 日蓮のこのような主張に反発した浄土教の信者たちは、8月27日の夜に大挙して松葉谷の草庵を焼打ちした(松葉谷法難)。
危うく難を逃れた日蓮は、下総に移って事が静まるのを待ち、翌年ふたたび鎌倉に進出する。 ところが5月12日にまたもや捕らえられて、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に流された(伊豆法難)。 ここでは伊東八郎左衛門のもとに預けられ、その病を祈って快癒させ、海中から得た立像の釈尊を贈られ、これを生涯の随身仏とした。 1263年(弘長3)に赦免されて鎌倉に帰って伝道活動を再開する。その翌年の64年(文永1)11月11 日、故郷を訪れていた日蓮を、 かねてから浄土教の法敵とねらっていた東条景信が、東条郷松原大路に待ち伏せして襲撃した。 激闘のすえに幾人かの死傷者を出し、日蓮自身も眉間に刀傷を負った(小松原法難)。 再び鎌倉に赴いて伝道していたところ、1268年閏正月に蒙古の牒状が幕府へ届いた。それは元朝への臣従を求めたもので、 これを拒否するならば武力による侵攻を被ることは覚悟しなくてはならない。 日蓮はこれをもって『立正安国論』の予言が的中したと主張し、『法華経』の信仰を盛んに唱えた。 やがて蒙古との関係がさらに悪化すると、幕府は侵攻軍との徹底的な防衛戦を決意し、全国的な臨戦体制を敷いた。 このような状況のなかで、予言の的中と法華経信仰を叫ぶ日蓮は、71年9月12日に捕らえられ、片瀬の竜口刑場に引かれて斬首されようとした。 ところが斬首は果たされず、佐渡流罪の途に上る(竜口法難)。 鎌倉にいた弟子たちも多く捕らえられ、信者のなかにも信仰を捨てる者が続出して、教団は重大な危機にみまわれる。 日蓮は相模国依智(神奈川県厚木市)の本間氏の屋敷にとどめられたのち冬の信濃路を越えて寺泊に出、佐渡に渡った。 国中平野の一隅にある塚原の三昧堂に置かれた日蓮は、雪中の寒さと飢えに死を覚悟しながら『開目抄』を著す。 やがて一谷に移され、『観心本尊抄』を著し、本尊と崇めるべき大曼荼羅本尊を書き示した。
|
- 【未来】 四 季 【預言】
152 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/13(木) 09:05:20.16 ID:6dY7S85y - 74年には異例ともいうべき流罪の赦免を得て鎌倉の地に帰るが、その主張がいれられないとみて、甲斐国身延山(山梨県身延町)へ隠栖し、
弟子や信者の信仰指導にあたる。各地に住む信者たちは、供養の品とともに信仰の指導を求めてくる。 日蓮は、書状や曼荼羅本尊を弟子たちに届けさせて、その要請にこたえるのが常であった。 故人の遺骨を抱いてはるばる身延を訪れ、山中に納骨する者も現れた。領主から信者に対する弾圧も激しくなったので、 その対応も深刻に考えなくてはならない。山中に隠栖生活を送る日蓮は、しばしば下痢の病に伏したが、けっして心の休まる暇はなかった。 なかでも79年(弘安2)9月に起こった熱原法難は、駿河国富士郡熱原(静岡県富士宮市)の百姓たちが殉教したほどの深刻な事件であった。 一方、日蓮が予言した蒙古の襲来は、1274年10月に現実のものとなったが、大暴風雨によって船が覆ったので、かろうじて事なきを得た。 ところが81年の夏にふたたび博多に来寇したが、武士の果敢な戦いと台風の襲来によって、難を逃れることができた。 その年の11月には、領主の波木井実長が10間四面の大堂をはじめとする諸堂を建てて寄進した。 身延山久遠寺の開創である。ところが翌年の82年になると日蓮の病は進み、秋には立つのも困難なほどになった。 このため、故郷を訪ねて常陸(茨城県)の湯に入ろうと、身延山を出て東方に向かった。 けれども9月19日、武蔵国千束郡(東京都大田区池上)にある池上宗仲の屋敷に至ると、ふたたび立つことができなくなった。 死の近いことを知った日蓮は、弟子や信者に『立正安国論』を講じ、教団の中心となる弟子6人を定める。 やがて10月13日辰の刻(午前8時ころ)、波瀾に富んだ一生を終えた。 遺骸は池上の地で火葬にし、遺骨は身延山に移されて墓塔が営まれ、 弟子たちが月番でこれを守ることとなったと伝わっているようです(日本大百科全書参照)。 「命と申すものものは 一身第一の珍宝なり。」日蓮。
|
- 【未来】 四 季 【預言】
153 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/13(木) 09:43:40.28 ID:6dY7S85y - 今日の宵に、南東に木星を眺めることができ、今週末には土星が太陽の方向(合)となります。
昨日も古くから伝わる童話を少し記載しましたが、今日もやはりなんとなく記載しようと思います。 いばらの輪。 ある日 釈迦はこんなお話しを修行僧に話されたことがあります。 「修行僧達よ、今日は四種の馬の話をします、今ここに一頭の馬がいるとします。 この馬は飼い主が鋭い棘をついた荊の輪を持ち馬屋に入ってくると 急に暴れだしました。 その理由は、飼い主はあのいばらの輪で自分(馬)どうしようというのだろう、いばらの輪から逃れる為には どうすればいいのだろう、とあれこれ考え不安でいてもたってもいられなかったからです。 次にここにもう一頭の馬がいるとしましょう。この馬はいばらの輪を見ても別に恐れることもなかったのですが、 いばらの棘が体に触れた途端暴れだしました。 その理由は、もしかして飼い主はこのいばらの輪を自分(馬)の首にかけるのではと不安になったからです。 ここに更にもう一頭の馬がいるとしましょう、この馬はいばらの輪を見ても恐れず、いばらに触れても驚きませんでしたが、 棘が刺さり肉が裂かれた途端暴れだしました。 その理由は、飼い主は自分(馬)をどうしようというのかと不安になったからです。 そしてここに更にもう一頭の馬がいることとしましょう。この馬はいばらの輪を見ても、棘が体に触れても、肉が裂かれても 恐れおののくこともなかったのですが、骨を削られた途端暴れだしました。 その理由は、飼い主は自分(馬)をどうしようというのかと考え、不安と恐れでじっといておられなくなったから
|
- 【未来】 四 季 【預言】
154 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/13(木) 09:48:03.23 ID:6dY7S85y - です。
世の中には、このような四種の馬がいることを覚えておきましょう。」 「その四種の馬とは、何を意味しているのですか」と、弟子の一人が釈迦に尋ねると 「今ここに一人の人間がいるとしましょう、その人はどこか人が病気になり死んでいったという話を聞いただけで恐れおののき、 どうしたらその恐怖から逃げられるだろうと考えています。 そしていっしんに真理を求め、全ては無常であると知り、やがて真実をありのままに見る目を得ます。 この人は、先に述べた一頭の馬と同じです。」 「おぉ…なるほど」 「次にここにもう一人の人間がいるとしましょう、その人は実際に自分の目で病の人、死ぬ人を見て恐れおののき考え、真理を求めて ついには真実をありのままに見る目を得ます。この人は二頭目の馬と同じです。 更にもう一人の人間がいるとしましょう、その人は自分の家族でそれを体験し、恐れおののき考え、求めついに真実をありのままに 見る目を得ます、これは三頭目の馬と同じなのです。 そして、もう一人の人間がいるとしましょう、その人は、自分の身体が病気になり、死ぬのではないかという恐怖に襲われ、 どうしたら逃げられるかを考えます。 そして真理を求め、無常を知りついには真実を見る目を得るのです。これは四頭目の馬と同じなのです。 修行僧達よ、世の中にはこのように四種類の人間がおり、早い遅いあれど、皆善良な人々です。 日々見守り真実の目を得ることができるようにと、手を差し伸べていましょう。」という釈迦のお話の一つです。
|