- 【未来】 四 季 【預言】
142 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/12(水) 08:41:37.89 ID:KQW/IueL - おはようです。
暦で今日は「スペイン・イスパニアの日」ということで少し調べてみました。 スペイン。 (スペイン語: Estado Espa?ol)は、ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。 西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。 本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、 アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。 スペイン人の祖先は、先住民族のイベリア人と、前1000年ころから北から移住してきたケルト人との混血である。 ほかに現在も少数民族として残るバスク人がピレネー西部に住んでいた。前11世紀ごろフェニキア人が半島南岸に渡来し、 前6世紀にはギリシア人が東海岸に植民した。前3世紀にはローマ人がイベリア半島の征服に着手してラテン語やキリスト教をもたらし、 言語や宗教に影響を及ぼした。また農・工業を発達させ、ローマ水道橋や橋、円形劇場などを残した。5世紀には西ゴート人が侵入するが、 8世紀に北アフリカからイスラム教徒が侵入してこれを滅ぼし、 以後コルドバの後ウマイヤ朝が滅ぶ1031年まで半島の大部分を支配してイスラム文化をスペインにもたらした。 8世紀初頭、キリスト教徒がレコンキスタ(国土回復戦争)を始め、小王国をつくりつつ南下し、 そのなかから強大となったカスティーリャのイサベルとアラゴンのフェルナンドとの結婚(1469)によってスペイン統一を完了し(1479)、 1492年にはグラナダから最後のイスラム王を駆逐した。 この年のコロンブスによる西インド諸島航海に始まるアメリカ大陸の植民地経営は大量の金銀を流入させて商業革命の契機をなし、 ハプスブルク家の支配下に空前の繁栄を示して世界最強の帝国として発展した。 しかし17世紀中葉以降しだいに衰え、18世紀にはブルボン家の支配下に入った。19世紀初め以来の政治不安と、 20世紀に入ってからの労働運動の激化から独裁を招いた。 独裁の崩壊と王制廃止に次ぐ第二共和制政府も、フランコ将軍の反乱、それに続くスペイン内戦(1936〜39)のなかで崩壊し、 フランコ体制は約40年にわたって存続した。
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143 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/12(水) 08:46:38.48 ID:KQW/IueL - 保守的な階層社会であるスペインでは、伝統的な祭りが社会生活の特徴となっている。
1年を通じてのさまざまな宗教的儀式、巡礼のほかに、市やカーニバルも開かれる。また闘牛は国技となっている。 宗教行事として最大のものは3〜4月の間の1週間、キリストの受難を記念するセマーナ・サンタsemana santa(聖週間)で、 マドリード、セビーリャなどの都市をはじめ地方の村々まで全国一斉に行われる。 スペインの民俗音楽と踊りは、それに用いられる楽器とともに地方色があり、アンダルシア地方のファンダンゴ、 同南部の少数民族ロマ(かつてジプシーとよばれた)より発展したフラメンコ、カタルーニャのサルダーナ、アラゴンのホタ、 バレアレス諸島のボレロなどがよく知られている。また、ガイダといわれるバッグパイプ、横笛とドラムなど独特なものがある。 数多くの民族が集まり、それぞれの文化遺産が後世に伝えられてきたことや、地形や気候的風土が地域的に大きく異なり、 山脈などに遮られて交流が十分に行われにくかったことなどのため、スペインの音楽や美術には多様性が特色として指摘される。 表現、集会、結社の自由はそれぞれ憲法によって認められており、出版物、新聞の検閲などは現在行われていない。 日刊新聞は約90紙あり、合計約400万部が流通している。 全国紙6紙のほかに、各地方独自の政治状勢や文化などを反映して地方紙が非常によく発達している。 出版物の約8割はマドリードとバルセロナで刊行され、出版社がこの2都市に集中しているが、バルセロナではカタルーニャ語による刊行物が多い。 博物館、美術館は1400以上を数え、各地に歴史的建造物や遺跡、歴史的町並みも数多く、よく整備、保存され、観光資源ともなっている。 アルハンブラ宮殿、アルタミラ洞窟、コルドバの歴史地区、エル・エスコリアル修道院など、多くの世界文化遺産が登録されている。
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144 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/12(水) 08:49:12.62 ID:KQW/IueL - イスパニア。
ローマ人が用いたイベリア半島の呼称で、現在のスペイン語のEspaa、フランス語のEspagne、英語のSpainはこれに由来する。 紀元前8世紀ごろに渡来したギリシア人は、同半島をイベリアIberiaとよんだ。 ついで前3世紀末に第二次ポエニ戦争の過程で半島に介入したローマ人は、この呼称を継承せず、かわって「イスパニア」という名を用いた。 前200年ごろの文書に初めてみられるこの呼称は、ローマ人に敵対したカルタゴ人のi-sephan-in(ウサギのいる海岸、または島)に由来するとされる。 「イスパニア」は、ローマ時代と西ゴート時代を通して半島全域の名称として定着したが、 ローマ時代にはティンギタニアTingitaniaとよばれた北アフリカの一部を含むこともある。 711年に半島を征服したイスラム教徒は、これをアル・アンダルスとよんだが、これによって「イスパニア」の呼称と概念が消滅することはなかった。 やがて半島北辺一帯に生まれたキリスト教諸国が弱小であり、半島の大部分がイスラム教徒の支配下にあったことから、 中世前期には「イスパニア」はたびたび前記アル・アンダルスをさした。 だが、12世紀に入ると、Espaaの語形の下に、南北間の宗教の相違を超えて、 カスティーリャ、アラゴン、ポルトガル、ナバラ、アル・アンダルスなどに分裂した半島全域の総称となった。 これはカトリック両王によるカスティーリャとアラゴンの連合(1479)後も続き、 ポルトガルの国民的詩人カモンイス(1524ころ―80)はカスティーリャ人とポルトガル人という区別はあっても、 「イスパニア人とはわれわれ全部がそうである」といった。ポルトガルが「イスパニア」から離脱してその結果、 「イスパニア」が現在のスペインに限られるようになったのは、スペインがポルトガルの分離独立を認めたリスボン条約(1668)以後のことである。
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145 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/12(水) 08:53:00.80 ID:KQW/IueL - そして暦で今日は紀行文集「奥の細道」の著者といても知られている、俳人松尾芭蕉を偲ぶ催しが行われることと思います。
松尾芭蕉。 江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄期(1688〜1704)に活躍した井原西鶴、近松門左衛門、 芭蕉は、それぞれ小説、浄瑠璃、俳諧の分野を代表する三大文豪として評価されている。 さらに詩歌部門に限っていえば、和歌文学の頂上に位置する万葉の柿本人麻呂に対して、俳諧文学の頂上として芭蕉が対峙し、 中間の新古今時代を西行と藤原定家とが世の評価を二分している。 しかも芭蕉自身は、己がつながる伝統を先人のうえに数え上げて、 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其道する物は一なり」(『笈の小文』)、 といいきり、文学のみならず、絵や茶も視野のうちにとらえて、風雅全般の伝統の継承者として、自分を任じていた。 芭蕉は寛永21年伊賀上野の赤坂農人町(三重県伊賀市上野赤坂町)に、松尾与左衛門の子として生まれた。 兄半左衛門のほかに、4人の姉妹があり、家格は無足人級(一種の郷士・地侍級の農民)であった。 藤堂(とうどう)藩の侍大将であった、食禄5000石の藤堂新七郎良精の嗣子、良忠に子小姓として出仕、時に19歳。 2歳年長の良忠(俳号蝉吟)とともに、貞門の北村季吟系の俳諧を学び、宗房の名のりを音読して号に用いたらしい。 作品の初出は1662年(寛文2)だが、まだいうに足りない。66年4月、良忠は病没、やがて致仕して兄の家に戻った。 漂泊の詩人といわれた芭蕉が、いつも帰ろうと思えば迎えてくれる母郷の家をもっていたことを重視したい。 芭蕉の帰郷は生涯10回にも及んでいて、滞在はおおかた2〜3か月の長期にわたり、 旅のついでに立ち寄ったという程度をはるかに超えている。これは「郷愁の詩人」(萩原朔太郎)といわれた蕪村の郷愁が、 慈母の懐袍のように、今は存在しない毛馬村の生まれ故郷を恋うた、浪漫的なものでしかなかったのと、まるで違う。 芭蕉における故郷は現在に存在する故郷であり、彼は意外に土着的発想が強い。 彼が故郷をいうとき、山家・山中・山里などといつも山ということを強調するが、 芭蕉にとっては上野そのものが「山家ノケシキ」であり、とくに半左衛門の家をさすことが多い。 懐かしいとともに貧しく寒々として悲しい故郷の様相ということだった。
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146 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/12(水) 09:05:07.18 ID:KQW/IueL - 1672年正月、宗房の名で伊賀上野の産土神、天満宮に、三十番句合を編んで奉納(『貝おほひ』の題で翌年刊)。
菅公七百七十年忌にあたり、発句の作者はすべて伊賀の住人、芭蕉の生涯での唯一の著述である。 そのころ行われていた小唄や奴詞(六方詞)や流行語などを縦横に駆使した判詞が珍しく、あたかも胎動期にあった談林流の無頼ぶりに一歩先んじている。 この年の春、「雲とへだつ友かや雁のいきわかれ」の留別吟を残して、江戸へ赴いた。 落ち着き先は日本橋界隈で、卜尺あるいは杉風方。おりから東下した宗因が談林の新風の気勢をあげたのに呼応する形で、同じ志の素堂と、 自分は桃青と号して、新風合流の意図をあらわにした「両吟二百韻」を興行した。 大名俳人内藤風虎らの後援を得、東下した言水、才麿、信徳らとも交流し、門弟にも杉風らのほか、其角、嵐雪のような若い俊秀が集まり、 独吟歌仙や句合を催し、立机披露の万句興行もやったらしい。神田川上水の普請に水役として、生活の資も得ていた。 1679年(延宝7)ごろから芭蕉は老荘思想や、杜甫、蘇東坡、黄山谷、白楽天、寒山などの漢詩風に関心をみせ始め、 作風も晦渋奇矯な句風に転換しだした。 「芭蕉野分して盥(たらひ)に雨を聞く夜かな」「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」「世にふるはさらに宗祇のやどり哉」など 延宝末から天和にかけ、徐々に純化の度は深まってゆく。
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147 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/12(水) 09:11:26.55 ID:KQW/IueL - 「不易流行」や「さび、しをり、細み」など俳諧常住の心構えは、「ほそ道」の旅中に胚胎し、上方滞在中、門人との問答のうちに漏らされたもので、
『去来抄』『三冊子』など、そのような意味で芭蕉の俳論の精髄であった。 それだけに、支考、許六らがあげつらったこちたき議論より、よほど含意が深く、読む者によって受け取り方も多岐に分かれやすい。 1691年冬、江戸へ帰還後は、旅中の心労その他が重なって、老衰を意識し、門戸を閉じて保養に努めたが、 やがて野坡ら町人俳人を相手に「軽み」の新風を唱導し、 「浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽き」(『別座鋪(べつざしき)』序)を志向した。 心の粘りや甘みや渋滞を去って、三尺の童子の無私の態度に倣おうとした。いわば大自然に身をゆだねる随順の態度だが、 それは「軽み」の具現とされる七部集第六冊『炭俵』の撰者野坡たちにも、平板な庶民性、通俗性と受け取られる傾きがあった。 1694年5月、最後の旅へ出、その終わりに近く、芭蕉自身「軽み」の神髄ともいうべき作風に到達する。 「此道や行人なしに秋の暮」「此秋は何で年よる雲に鳥」「秋深き隣は何をする人ぞ」など、芭蕉の理念の昇華して至った句境であったと思われ、 10月12日、大坂の旅舎花屋で生涯を閉じた。 病中吟、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。粟津(滋賀県大津市)義仲寺に葬られた。 七部集最後の『続猿蓑』は98年に刊行された。伊賀市に芭蕉翁記念館がある。 (日本大百科全書 参照) 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」 「今日よりや 書きつけ消さん 笠の露」芭蕉。
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148 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/12(水) 09:47:12.77 ID:KQW/IueL - 月暦で今日は満月(望)大潮であり、その時刻は十一時頃と予測されています。
そして今日はなんとなく、古くから伝わる童話の一つを少し記載したいと思います。 蓮の花。 源太夫というとても気の荒い大男がおり、殺生しても何とも思わず、少しのことにも腹をたて、 人を傷つけたり殺してしまったりとするので、人々から恐れられている男がいました。 ある日、源太夫は鹿狩りの帰りに寺に大勢の人々が集まっているのを見て、何事かと覗くと、 僧による説法が行われるとのことを知り、仏の教えや僧が大嫌いだった源太夫は、僧に刀を向け、 「おい、坊主、俺にも話を聞かせろ、但し俺がなるほどと思う話でなければお前を殺すぞ」と言い放ちました。 僧の話は、 「此処より西へ向かって遥か彼方に極楽という浄土があり、そこには阿弥陀如来という尊い仏がいらっしゃいます。 阿弥陀を信じるものは、死後この極楽の池に咲く蓮の花の中に生まれ、そこで阿弥陀如来の教えを聞き、 さとりを開くことができるのです。 阿弥陀如来の心は限りなく広い方で、長い間罪を重ねた極悪人であっても、心を改め、阿弥陀如来の名前さえ唱えれば、 必ずや極楽へ迎え入れてくださいます。 いえ、そういう人こそ阿弥陀如来は心にかけておられるのです。」というお話しでした。 話を聞くうちに、源太夫の顔は次第に真剣になっていき、 「おい、それは本当か。その仏は俺を憎んだりしないのか。 俺が呼べば答えるのか。」 「心を込めて呼べばきっと、み仏は誰も憎いとは御思いにならないでしょうが、 教えを守る弟子になれば、かわいいと御思いになられることでしょう」 源太夫は暫く考えていましたが、その後、 「では、俺の頭を剃ってくれ、今すぐにだ」というと、僧が剃るより先に源太夫自らが髪を切りはじめ、 その後僧が「出家なさるという その覚悟がおありなら」といい、源太夫の頭髪を剃り、黒い衣を着せました。 源太夫は歩き出し「おうい、おうい、阿弥陀仏ーー」と呼びながら歩きはじめました。 「違う、南無阿弥陀仏と唱えるのです。」と声をかけたのですが、もうすでに源太夫は西へ向かって姿が見えなくなっていました。
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149 :かる ◆N4OUHymbXQ [sage]:2011/10/12(水) 09:51:40.74 ID:KQW/IueL -
その後ひと月経った頃、源太夫を追って僧も西へ向かっていました。 僧は、ずっと源太夫の事を気にしていたのですが、ある日源太夫が極楽往生する夢を見て、 「あれほど荒くれ者がなぜ」と不思議に思い、僧は源太夫を見届けようと追っていたのでした。 やがて、僧は海に突きだした絶壁に辿りつきました、するとそのすぐ下の松の木に人がまたがっているのが見えました。 「おういっ、おうい、阿弥陀仏ーーっ」と源太夫は鉦を叩きながら叫んでいました。 僧がかけよると、源太夫は喜びながら 「坊さん聞いてくれ。わしはここから更に西へ向かい海に入っていこうと思ったのだが、 ここで阿弥陀仏が返事をしてくださったのだ」 「ほう…まさかとは思うが…で、どのように答えられたのです」 「よし、では呼びだしてみよう、聞いておられよ。おうい、おうい 阿弥陀仏ーーっ」 すると、不思議なことに日の沈む海の彼方からなんとも荘厳な美しい声が返ってきたのです。 「ここにいるよ」 僧は声も出ぬほど驚き、思わずひれ伏して手を会わせ、涙ながらに 「なんという優しいあたたかい声じゃ、源太夫どの、私はあなたのおかげで初めて阿弥陀如来の声を聞くことができました。」 源太夫はしばらくしてから 「坊さん、頼みがある、七日後もう一度ここに来てくれぬか?、わしの様子を見届けてほしいのじゃ」 「いいでしょう、必ず参ります」と源太夫と約束をし、僧は帰っていきました。 七日経ち、僧が再び海の絶壁にいってみると、源太夫は前と同じように松の木にまたがっていました。 しかし、声をかけても返事がありません。 よくみると、源太夫は座ったまま亡くなっていました。不思議なことにその口から見事な蓮の花が一本美しく咲いていたのでした。 「蓮は泥中より出でて清浄の花を咲かすというが、まことに源太夫どの、あなたの極楽への一途な思いが見事に、 花咲いていますぞ」といい、 僧は泣きながら、経をあげ、蓮の花に合掌してその清らかな姿を目に焼きつけるとそのまま帰っていったというお話です。
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