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かる ◆FR0SUGcqU.
【未来】 2010 夏 【預言】

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【未来】 2010 夏 【預言】
434 :かる ◆FR0SUGcqU. [sage]:2011/04/02(土) 10:10:40.93 ID:P6a52YtN
おはようです。

暦で今日は「図書館記念日」でもあり、
日光では「輪王寺強飯式(式後の「がらまき」は本年は行われないようです。)」が、
佐原香取神宮では「御田植祭」が行われ、「岐阜伊奈波祭」等も行われる所もあるかと思います。

輪王寺。
栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。
日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。
東照宮は徳川家康を「東照大権現」として祀る神社である
一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。
「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、
近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。
現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。
「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については21世紀の現在も東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着を見ていない。

輪王寺は、天平神護2年(766年)、勝道と弟子の一行は、霊山である日光山の麓にたどりついたが、
大谷川(だいやがわ)の激流が彼らの行く手をはばみ、向こう岸へ渡ることができずに困っていた。
そこへ、首から髑髏を下げた、異様な姿の神が現われ「我は深沙大王である」と名乗った。
深沙大王は2匹の大蛇を出現させると、それらの蛇はこちら岸と向こう岸を結ぶ橋となり、勝道ら一行は無事対岸へ渡ることができたという。
現在、日光観光のシンボルでもある「神橋」は「山菅蛇橋」とも呼ばれ、その伝承の場所に架かっている。
深沙大王は「深沙大将」とも呼ばれ、唐の玄奘三蔵が仏法を求めて天竺(インド)を旅した際に危機を救った神であるとされ、
神橋の北岸には今も深沙大王の祠が建っている。「2匹の大蛇」の話は実話ではなく伝説であるが、
この伝説が日光山が古くから山岳信仰の聖地であったこと、日光山が近付きがたい場所であったことを投影しているものと推察される。

姿は、1面2臂(ひ)で髑髏の瓔珞をつけ、象革の袴を履く、持物については一定しないが、蛇や戟を持つものがある。
勝道は、大谷川の対岸に聖地を見付け、千手観音を安置する一寺を建てた。紫の雲たなびく土地であったので、「紫雲立寺」と言ったが、
後に「四本龍寺」と改めたと伝わっているようです。
現在の輪王寺の本堂(三仏堂)は、大谷川からかなり離れた土地にあるが、「四本龍寺」の旧地にも観音堂など、若干の堂塔が建っている。
翌神護景雲元年(767年)、勝道は四本龍寺に隣接する土地に男体山(二荒山)の神を祀った。
二荒山神社の始まりである。現在、「本宮神社」と呼ばれている社地がこれに当たる。なお、勝道がこの神を祀ったのは、延暦9年(790年)だとする説もある。

天応2年(782年)、勝道は日光の神体山である男体山(2,486メートル)の登頂に成功した。
観音菩薩の住処とされる補陀洛山に因んでこの山を二荒山と名付け、後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、
これが「日光」の地名の起こりであるという。男体山の山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、
奈良時代から山岳信仰の聖地であったことは確かである。
【未来】 2010 夏 【預言】
435 :かる ◆FR0SUGcqU. [sage]:2011/04/02(土) 10:11:34.87 ID:P6a52YtN
延暦3年(784年)、勝道は、四本龍寺西方の男体山麓にある湖(中禅寺湖)のほとりに中禅寺を建立した。
これは、冬季の男体山遥拝所として造られたものと言われている。
「立木観音」の通称で知られる中禅寺は現存しているが、当初は湖の北岸にあった堂宇が明治時代の山津波で押し流されたため、
現在は湖の東岸に移転している。
創建以後、平安時代には真言宗宗祖の空海や天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)らの来山が伝えられる。
円仁は嘉祥元年(848年)来山し、三仏堂、常行堂、法華堂を創建したとされ、
この頃から輪王寺は天台宗寺院としての歩みを始める(現存するこれらの堂は、いずれも近世の再建)。
「常行堂」「法華堂」という同形同大の堂を2つ並べる形式は天台宗特有のもので、延暦寺や寛永寺にも同名の堂が建てられた。
鎌倉時代の日光山は幕府や関東地方の有力豪族の支援を受け隆盛した。
男体山、女峰山、太郎山の三山の神を「日光三所権現」として祀る信仰はこの頃に定着したようである。
三山、三所権現、祭神(垂迹神)、三仏(本地仏)の対応と伝わっているのを下記に記載。

男体山(2,486メートル)=新宮権現。
大己貴命。
千手観音。

女峰山(2,464メートル)=滝尾権現。
田心姫命。
阿弥陀如来。

太郎山(2,386メートル)=本宮権現
味耜高彦根命。
馬頭観音。

のように日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されていたのであり、
輪王寺本堂(三仏堂)に3体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。

深沙大将。
仏教の守護神の一人で、大般若経の十六善神とともに描かれることが多い。深沙神、深沙大王とも呼ばれる。
玄奘三蔵がインドへ行く途中、砂の中から現れ、玄奘を守護したと伝えられる。
【未来】 2010 夏 【預言】
436 :かる ◆FR0SUGcqU. [sage]:2011/04/02(土) 10:21:17.20 ID:P6a52YtN
佐原香取神宮。
千葉県香取市香取にある神社である。式内社、下総国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約400社ある香取神社の総本社である。
祭神は経津主大神 (伊波比主命)。

神職首座は大宮司、大禰宜といい経津主の兄(子とも伝えられる)の天苗加命(あめのなえます)の子孫が香取連を名乗り首座となったが、
後世大中臣氏(藤原氏)が養子に入り相互に重職を世襲されたと伝わっている。
関東地方を中心として全国に分社の香取神社がある。神宮の位置する山はその形状から亀甲山と呼ばれている。
香取の神は『日本書紀』神代紀一書において葦原中国の平定に先立って天の悪神(天津甕星)を誅する神「斎主神」(『古語拾遺』には経津主神)とされている。
創建は、紀元前643年と伝えられている。『常陸国風土記』によると、神代の時代に肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、
開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばした。
この際に出雲国の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが、香取神宮の起源とされている。創建年が古すぎるとの異論もある。
鹿島神宮と共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であり、重要視されていた。
平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、『延喜式神名帳』によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけであった。
本殿から鹿島神宮本殿は約13キロメートル、ほぼ正確な北東にある(ずれは15分未満)。
鹿島神宮とともに東国三社と称された息栖神社本殿は約8キロメートル、ほぼ正確な東にある(ずれは10分未満、緯度の違いは1秒未満)。


伊奈波神社。
岐阜県岐阜市にある神社。美濃国三宮で、旧社格は国幣小社。式内社「美濃国厚見郡 物部神社」の論社である。
祭神。
垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を主祭神とし、
妃の淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)、母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)、外祖父の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)、
臣下の物部十千根命(もののべのとちねのみこと)を配祀する。総称を「伊奈波大神」と
社伝によれば、景行天皇14年、武内宿禰が稲葉山北西の椿原(現在の岐阜公園内の丸山)に五十瓊敷入彦命を祀ったのに始まる。
壬申の乱の際に天武天皇が当社に戦勝を祈願したという。
天文8年(1539年)、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、現在地に遷座した。
この際、その地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守とした。
以降も、岐阜の総産土神として篤い崇敬を受けた。明治6年に県社に列格し、昭和14年に国幣小社に昇格した。
『延喜式神名帳』では、美濃国厚見郡の神社として「伊奈波神社」の社名は記されていないが小社として「物部神社」の社名があり、
これが当社に合祀された物部神社であるとされる。
あるいは、当社自体が式内・物部神社であるとする説もある。『美濃国神名帳』には「正一位 伊奈波大神」「従五位下 物部明神」と記載されている。
社伝によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、
朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたと伝わっているようです。

五十瓊敷入彦命主祭神については、古事記、日本書紀にもそのご事蹟が記載され、父垂仁天皇から弓矢を賜り武事をおさめ、
勅命によって河内、大和、摂津、美濃など諸国に開拓された池溝の数は、実に800に及び、このため諸国の産業は勃興し、
農事は豊かになって天下は泰平であったと記されている。
更に茅渟の川上宮にて劔1千口を作り、これを石上神宮に納めて有事に備えられた。
今でいえば内政、土木、軍事などあらゆる面で活躍されたといえる。
薨去の翌年(景行天皇14年)命のご偉徳を偲び稲葉山(金華山)の地(丸山)に鎮斎あげたのが始まりで、
それ以来1900年余りの長きに亘る。
天文8年(1539)斎藤道三が稲葉山城を居城とするにあたり、現在の地に遷し奉った。昭和14年11月1日国幣小社に列せられる。
揖斐・長良・木曽の三大川に恵まれ水の恩恵に浴したものの一方では、
洪水に悩まされ洪水から守り稔り豊かな土地にする事が土地を治める者の最大の務めであり、
「水を制する者は天下を制す」と諺があるように、
水を制するには金を以て当てるというのが陰陽五行の信仰であり、
この地方は特に金、水に関する地名も多く伊奈波神社は水を防ぐ信仰の神社でもあると伝わっているようです。
【未来】 2010 夏 【預言】
437 :かる ◆FR0SUGcqU. [sage]:2011/04/02(土) 11:06:14.18 ID:P6a52YtN

世界各国の国々が、時の流れと共に各国其々が発展しつつ現在の各国の姿があるように、
この国も時の流れの中には、武力や宗教による国家統一をという時代があったのも事実です。
その時の流れの中には、文献等の背景には多くの方々の涙や悲しみがあり、
寺院仏閣等をもその時の流れに流され、本来あるべき古くから伝わる信仰という人々の心をも、
そうした時代だったという事であっても、誤った方向へと導いてしまっていたのも事実かとも思います。
以前に>>295で記載したこともあるのですが、
例えばこの「水を制する者は天下を制す」という諺ですが、この諺が生まれた時代はおそらく
戦国時代と呼ばれる時代背景があってのことかと思います。

そしてこうした過去の伝わりや出来事等から、その全てを神仏等の怒りだと安易に考えてしまうのではなく、
地震等における災害に関しては、自然現象の一つとして世界中どの国においてもこの地球上では避けられないことであり、
問題なのは、需要と供給において、需要量が増し矢も負えず「原子力」という人工的な発電を現時点においても
私達が使用しているという立場において、その供給元等を責めるということは不誠実であるということ等、
一人一人が、自分自身の心と向き合いその心の中の「過ちを認め、悔い改める」ということがとても大切なことかと
若輩者ながら私はそのように感じています。
【未来】 2010 夏 【預言】
438 :かる ◆FR0SUGcqU. [sage]:2011/04/02(土) 11:06:58.87 ID:P6a52YtN

「上善水如。」

「上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず。
衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。
居には地を善しとし、心には淵なるを善しとし、
与には仁を善しとし、言には信を善しとし、
正には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。
夫れ唯だ争わず、故に尤め無し。」 老子。
【未来】 2010 夏 【預言】
439 :かる ◆FR0SUGcqU. [sage]:2011/04/02(土) 11:24:17.21 ID:P6a52YtN

もののけ姫 -アシタカ聶記。
http://www.youtube.com/watch?v=xNbagvkyVeE
【未来】 2010 夏 【預言】
440 :かる ◆FR0SUGcqU. [sage]:2011/04/02(土) 11:26:48.69 ID:P6a52YtN

「すふはやせをちそのやひぞつ

 のほゆるやせとひゐぞぬそや。」


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