- 教養と道徳を教えない学校は最低だ
105 :実習生さん[sage]:2013/12/31(火) 14:35:03.51 ID:7MSJPnov - >>102
>「周囲の人々に認められる」というのは人間関係を作るためのツールという面もあり、 >人間関係を作ることは経済的その他のメリットがあるわけで、 人間関係は自我のごく一部だと考えておられるようですが、それが間違っています。 自我とは自分は何者であるかについての物語と言えます。 「私は男だ。」とか「私は○○と○○の間に生まれた人間だ。」とか「○○会社の○○課の課長だ。」とか・・・ そういう社会的身分・役割の全体が「私」であり、私の「自我」です。 そして、まず私の中心に「私の本質」「私の核」のようなモノがあって、そこにいろいろな社会的役割が乗っかっていて 私の「自我」ができているというものではありません。 社会的役割や身分というモノを全部取り払った後に、自分の実体のようなモノがある訳ではありません。 私の「自我」から、「男」であるとか「会社員である」とかそういう役割を一つ一つ取り外していけば、何も残りません。 自我とは、社会的身分・役割分担の全体であり、それらはすべて人間関係と結び付くというか、人間関係そのものです。 すなわち、自我は他者との人間関係によって支えられているのです。他者との人間関係がなくなれば、自我は無に帰するでしょう。
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106 :実習生さん[sage]:2013/12/31(火) 14:51:53.77 ID:7MSJPnov - >>102
>自我を満たすためだけにすることではなく自我を満たすこととイコールではない、自我云々だけに結び付けているのはこじ付け 「自我を満たす」というのはどういう事を考えておられるのでしょうか。「自我の発する欲望を満たす」という意味でしょうか。 私は「自我を満たす」かどうかの話をしているつもりはありません。 自我が存続できるかどうか、自我が崩壊せずに維持できるかどうかの話をしています。 そして、自我は、何かに支えられなければ存続できません。 「何にも支えられず、従って何にも依存せず、何からも独立していて、自律的で主体的な自我」なるモノはこの世には存在しません。 それは、ヨーロッパでは昔からずっと、唯一絶対神でした。ヨーロッパ人は神の存在を信じ、神によってその自我を支えられてきました。 神を信仰し、神の教えを守る事が正しい行いであると堅く信じ、神の教えを守る事で自分の正しさを神に保証してもらってきました。 日本では唯一絶対神というフィクションには頼らず、周囲の人々との直接的な人間関係の中で、周囲に認められる行動をとる事を 道徳的に最も価値のある事と信じ、それによって自我を支えてきました。この信仰を守ることによって自分の正しさが保証されてきたのです。 あなたも日本人ですから、後者の生き方をずっとしてきている筈です。 そんな事はないとあなたが思うのは、自分の自我の在り方が見えていないからです。
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107 :実習生さん[sage]:2013/12/31(火) 15:01:32.48 ID:7MSJPnov - >>102
>俺で言っても人格やら周囲から認められんでも経済合理性に専念して自我なんぞ満たさなくてもやっていけるね もし、あなたが会社員だとして・・・ あなたはスーツを着ないで仕事ができますね。 自分の好みの派手な服を着て、装飾品をいっぱい付けて、髪の毛をモヒカンかなんかにして 金髪にして、無精ひげを生やして、仕事ができますね。周囲の人々の評価を気にしないのですから・・・。 風呂に長い事は言っていなくて、少々臭いにおいを発していても、「経済合理性」に専念して行動するのですから まったく気になりませんよね。 周りの人から「臭い」「汚い」とか言われても何にも気になりませんよね。 周囲の人々に認められる事を大事に行動するという事は、そういう事をすべて含みます。 それを否定して、それでも自分の正しさが何かによって保証されていると信じているなら、 上に書いたような行動を平気でとれるはずです。 敬語も使いませんよね。 「周囲の人々に認められる事」以外の何かにみんなの自我がそれぞれ支えられているのなら、その何かによって各自の正しさが 保証されているのなら、年上だからと言って、敬ったり気を使ったりする事はナンセンスですよね。
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108 :実習生さん[sage]:2013/12/31(火) 15:11:17.12 ID:7MSJPnov - 私は、やはり外に行く前にはシャワーを浴びます。前の晩ですけど・・・。
それは、周囲の人々に不快に思われたくない、変な人と思われたくないという気持ちが働くからです。 そして、外に行く場合でも、何かを買いにどこかへ出かけるのと、会社に行くときとでは違いますよね。 やはり、会社で同僚から「臭い」とか「汚い」とか「変な奴」と思われたくないので、きちんとひげを剃って きちんとした服装をして、清潔な感じを大事にしようなどと思いますよね。 買い物に行くときは、外で会う人がほぼ他人ばかりですから、気を使うと言っても、だいぶと手を抜いたりしますよね。 ときには、ひげを剃らずに出て行ってしまったり・・・。 そうやって、他者の目、他者の評価をきにするものではありませんか。それが日本人だと思います。 それはそれとして尊重しておいて、「他者を気にしない自律的な自我」を確立するという事は原理的に不可能です。
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