- 日本人は間違った倫理観を変えられないか
195 :実習生さん[]:2013/09/27(金) 22:52:42.15 ID:x0Y+wmYz - ★本当は恐ろしい日本の道徳/河野哲也 1
ちくま新書からこのたび出版された拙著では、新しい道徳教育のあるべき姿について論じた。 この本のなかで私は、自分が従来の徳育に感じてきた二つの「なぜ」に答えようと試みた。 ひとつ目の「なぜ」は、「どうして日本の道徳教育は、こんなにも辛気臭く、説教臭いのか」 というものである。 たとえば、中学校の指導要領に見られる「道徳的」価値のいくつかを列挙してみよう。 「礼儀」「感謝」「公徳心と社会的連帯」「勤労と奉仕の精神」「父母・祖父母への敬愛」 「社会の一員としての自覚」「日本人としての愛国心」。 私の感覚からすれば、見るだけで鬱陶しくなる言葉ばかりが並んでいる。全く聴く気に なれない授業になりそうだ。 道徳教育は、「道徳」の時間のなかでだけ行われるものではない。石原千秋が『国語教科書の 思想』(ちくま新書)で見事に分析している通り、戦後、日本では、国語教育が道徳教育の 役割を担ってきた。特定の人物像を理想像に据えて、それを目指すというパターナリスティックな 徳育だ。さらに石原によれば、近年、『心のノート』という「不気味な『道徳教育』の冊子」が 作られ、「明らかに権力に都合のいい内面の共同体を作りだそうとする」意図が窺えるという。 石原の指摘には全く同意できる。
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- 日本人は間違った倫理観を変えられないか
196 :実習生さん[]:2013/09/27(金) 22:54:41.04 ID:x0Y+wmYz - ★本当は恐ろしい日本の道徳/河野哲也 2
日本の道徳教育が胡散臭いのは、単純に言って、個人の尊厳、各人の自由、人間の多様性を 軽視しているからだ。個人を尊重しない道徳教育は、結局は、集団への帰属と貢献ばかりを 強調する全体主義的強制と変わらなくなる。 二つ目の「なぜ」は、組織不正の問題だ。バブル崩壊以後、組織的な不正・不祥事はひっきり なしにマスコミをにぎわし、深刻な社会不信をまねいてきた。組織不正とは、問題が一部の 悪意ある人間によって引き起こされたのではなく、組織構造や業務のあり方全体に起因している 不正をいう。個人としては小さな犯罪さえ起こさない人たちが、組織人としては驚くべき数の人に 危害を与え、人の命を奪うことさえある。さらに、その罪にまったく無頓着であることも多い。 侵略戦争、奴隷制、民族虐殺、差別、搾取。人間の巨大な罪のすべては、集団行動の産物である。 なぜ、「善人」の集団から巨悪が生じるのか。どうすればそれを防げるか。 これまでの倫理教育は、個人の行動に焦点を当てていた。しかし、自分の所属する集団を 道徳的に善きものにしていくという組織作り・社会作りの視点がなければ、集団の悪は 決して防げない。 以上の二点、すなわち、「個人の尊厳」と「善き集団形成」が拙著での道徳教育の原則と なっている。そして、「現代社会における道徳教育とは、リベラルな民主主義社会を維持し、 発展させる働きを担う主権者を育成することだ」と結論した。あるべき道徳教育とは、 民主主義の主権者を育成することである。
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197 :実習生さん[]:2013/09/27(金) 22:55:42.97 ID:x0Y+wmYz - ★本当は恐ろしい日本の道徳/河野哲也 3
民主主義は、単なる政治制度ではない。それは、道徳性を中核にした思想運動であり、 他者との共同の範囲を拡大して、より多くの人々を包括する社会を作ろうとする道徳的実践 である。民主主義が進歩するのは、これまで社会の傍流に属し、不当にその利益が無視 されてきた人びとへの共感によってである。 私見によれば、日本人は、しばしば、弱肉強食的な考えを好み、権力主義的な傾向を強く 持った人々であり、他者への共感と想像力に甚だしく欠けている。日本人の同調志向や協調性は、 その権力主義から理解されるべきである。だが、それは、おそらく、彼・彼女らの向上心と 勤勉さの裏返しでもあるのだ。しかも、明治以来の立身出世的な教育指針が、この傾向を 後押ししてしまっている。教育者たちはこの逆説に無自覚だ。 日本の子どものための道徳教育は、個人の存在をそのままに肯定し、人間を包み込む (インクルードする)姿勢に立脚すべきである。この社会では、そうした共感の制度化としての 民主主義の価値を、繰り返して、強く主張する必要がある。 (こうの・てつや 立教大学文学部教授) 『道徳を問いなおす リベラリズムと教育のゆくえ』 詳細 河野哲也 著 http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/593/
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