- 博士号の無い教育学部の大学教員は・・・
262 :実習生さん[sage]:2011/11/12(土) 23:24:13.80 ID:3tqP9CeG - ポスト構造主義を踏まえた上での話だけど、科学ってのは何でもそうで、
曖昧・漠然・朦朧としたものを複数の構成要素に分解・分節・類型化して、 それらを体型的に秩序立てた上で、新たな有機的全体として統合したり、 あるいは上の手法を鑑みて他と比較・対照し、低劣な部分を根絶・消去し、 一方で伸ばすべき部分はブラッシュ・アップし、壊しては従前を踏まえて建て直し、 壊してはまた従前を踏まえて建て直し、そうやって弁証法的に発展してきた。 少なくとも教育学も、この手法を取ってきた。 対して、中国史や日本文学やってて思うけど、「だから何なんだ」ってのばっか。 こういう奴は昔殺し合いで勝った、逆にこういう奴は殺し合いで負けたとか、 あるいはどういう脈絡で言ってるのかという動機やら感情やらの背景を伝えずに、 単に自分の主張を古典語やら詩に置き換えて「古の偉人はこう言っています、 どうだ意味分かるか? 分かんないだろw」と心の内で愉悦に浸るだけで、 結局美辞麗句で質的に着飾っただけで言ってることは同じとかで、結局理屈になっていない。 都合の悪いことはすぐに煙に巻く。抽象曖昧、漠然、朦朧とした言葉で煙に巻く。霧散させる。 カルチュラル・スタディーズのように、文学作品を通して時代を読み解く、 当時の心性を探る、すなわち「分析的・組織的に、あくまで生活経験上の疑問を 解決する手法として読む」のなら十分にありだが、もし上記のような意図で中国史だの 日本文学だのを読んでいるのなら、他の文化圏との比較とそれによる問題点の措定を 怠るのならば、それこそイギリス経験論の礎にあたるフランシスコ・ベーコンが 伝統的な古典語教育を批判し、「言語よりも事物に関する知識(自然科学的知識)を教えるべきだ」 と主張したように、それこそこんなものは、ナショナリズムの肩の上に乗った似非学問でしかないと俺は思うな。 俺も以前までは、文学やら漫画やらと生活世界を区分していたが、構築主義を踏まえれば、 文学の世界と生活世界の区分なんて明確には存在しないんだぜ。なぜならそれらは究極的に 同じ言葉で語られており、この世のあらゆる事物は何かしらのメッセージ性を持った投影物でもあれば、 それによって営まれた行為・文化・現象・事象でしかないのだから。
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