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名無しさん@お腹いっぱい。
堺屋太一

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堺屋太一
14 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/02/12(火) 00:26:38.77 ID:TOI0yShx
オリックスの宮内義彦シニア・チェアマンは10日、堺屋太一氏の死去について「当代稀(まれ)な碩学(せきがく)を失ったことは痛恨の極み」とのコメントを出した。主な内容は以下の通り。
突然の訃報に接し大変に驚愕(きょうがく)している。堺屋氏は広範な興味と旺盛な探求心のもと、晩年に至るまで時代層の分析、未来予測、社会の動きについて鋭い観察と先見性を示してこられた。
当代稀な碩学であり、同氏を失ったことは痛

石原慎太郎氏(86)は10日、都内の自宅前で取材に応じ「本当に驚きました。大事な人だった。ショックだね」と声を落とした。
堺屋さんとは、講演旅行で外国を回ったことがあり、昨年秋には、BSフジの報道番組にそろって出演。日本の課題について論を交わしていた。「『才人』と言えば、薄っぺらくなりますが、豊富な才能を持った人だった」としのび、「ただの友人ですが、同じ作家仲間でもあった
。西部邁くんもそうですが、日本の同世代の論客が亡くなっていくのは寂しいですな、本当に」と話した。
かつて日本維新の会をともに率いた橋下徹前大阪市長も、堺屋さんと深い関わりがあった。石原氏は、「橋下くんや大阪の責任者は、堺屋くんにずいぶん知恵を授けてもらったと思う。橋下くんは寂しいだろうね…僕も寂しいですが」と思いやった。
堺屋太一
15 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/02/12(火) 00:31:12.24 ID:TOI0yShx
堺屋太一さんは1998年7月から2年間、小渕恵三内閣と森喜朗内閣の目玉閣僚として経済企画庁(当時、現・内閣府)長官を務めた。日本経済がバブル崩壊の後遺症に苦しんだ時期。
かねて政府の景気判断が遅れ、有効な手を打てなかったと批判していた堺屋さんは、正確な景気判断とわかりやすい説明を掲げた。

 その象徴が自身の発案で2000年に始めた「景気ウォッチャー調査」だ。タクシー運転手や飲食店経営者、小売店の店長ら約2千人に景気の現状を聞いて指数化するもので、多くの経済指標の中でも景気の動きをいち早くつかめると評価されている。

 金融不安に揺れた1998年11月には、景気底入れの兆しを先んじて見通し、「変化の胎動も感じられる」と表現した。

 一方で、財政再建よりも景気回復を優先させる政策の理論的支柱も担い、歴代政権による度重なる財政出動で国の借金残高は膨らんだ。00年12月の長官退任後も内閣特別顧問を務め、現在の安倍政権下でも内閣官房参与として助言してきた。

 出身地の大阪では大阪証券取引所の社外取締役を務め、関西空港の機能強化など「関西復権」を訴える経済人の代表格だった。(
堺屋太一
16 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/02/12(火) 00:42:26.91 ID:TOI0yShx
「いつ寝ているのかと思うぐらい、人並み外れた情熱と行動力で駆け抜けた人だった」。堺屋さんの自宅を設計するなど40年来の親交があった建築家、安藤忠雄さんは、こう振り返った。

 堺屋さんは、昭和45年の大阪万博の企画・立案に携わったことでも知られる。「『失敗するぐらい大きな発想力で新しい世界を目指そう』というのが信念。敵も多かったろうが、
困難もすべてエネルギーに変えてきた」(安藤さん)。2025年に開催が決まった2度目の大阪万博についても、「なんとしても見届ける」と語っていたという。
 安藤さんは、「心残りだったろう。彼の無限大の発想力は、これからの日本にこそ必要だった。今度の万博を成功させることで、その魂を引き継ぐべきだ」と力を込めた。
昭和45年の大阪万博でコンパニオンの制服を手がけたデザイナー、コシノジュンコさんも、「素晴らしい日本の才能を一つ失い、悲しい限り」としのんだ。
短い丈のワンピースや地下足袋風のブーツなど、コシノさんの斬新なデザインが物議をかもすと、堺屋さんは周囲との調整に奔走したという。
「官僚といえばお堅いイメージだが、常に私の良き理解者として振る舞ってくださった。作家に転身し存在感を増し、万博の基本形を作った。経験者として、助言を与えたり、
著作を残したり、まだまだ活躍の場はあったはずと思う」と話した。
堺屋太一
17 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2019/02/12(火) 00:47:07.87 ID:TOI0yShx
田原総一郎

大阪万博が終わった直後の1971年頃、初めて堺屋さんにお会いした。誰も思いつかなかったような大阪万博を企画し、成功させた人に会いたかったからだ。ざっくばらんで官僚らしくない面白い人だと思った。

 とにかく構想力があり、ものすごい先見性やビジョンを持っていた。その後に携わった沖縄海洋博では、沖縄は観光資源も豊富で大いに発展できるのだという可能性を示した。

 書籍では、『団塊の世代』(76年)で、その世代が後に大きな問題になることを予見していたが、日本が石油を断たれたらどうなるかを描いた『油断!』(75年)も衝撃的だった。
『知価革命』(85年)では、80年代の段階でITの時代が来ると予言し、対応を訴えていた。だが、日本社会は変わらず、IT化が遅れてしまった。悔しい思いをしたのではないか。

 日本社会の縦割りの弊害を感じていた人だからか、水平思考という言葉をよく使っていた。バランスや、組織を横断することの重要性を言いたかったのだろう。
一方で万博や海洋博を企画したことを考えても、空気を破ることを何とも思っていなかった、希有けうな存在だ。

 才能だけでなく非常に勉強熱心で、話題も豊富だった。堺屋さんとカナダや中国、アメリカを旅行で回ったことがあるが、奥さんも一緒でとても仲が良かったのが印象に残っている。

 改革をしない日本の帰結を、97〜98年に新聞連載した近未来小説『平成三十年』で描いたように、彼は平成の日本には期待していなかった。実際に今、その通りになったが、
それでも経済の問題などをどうすればいいかを必死に考え、日本人の意識革命を促していた。政府にもの申す政策NPO「万年野党」
で一緒に活動していたから分かる。今年の夏も、シンポジウムで色々な議論をするつもりだった。もっと警鐘を鳴らしたかったはずで、非常に残念だ。(ジャーナリスト、談)

 
堺屋太一
18 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/02/12(火) 00:49:54.67 ID:TOI0yShx
コシノジュンコ

堺屋さんとの出会いは、大阪万博が開幕する前年の1969年です。それから50年ほどの付き合いですが、私と会うと、決まって当時の衝撃を思い出すみたい。

 大阪万博では、三つのパビリオンで、コンパニオンのユニホームのデザインを手がけました。その一つが生活産業館。パビリオンを担当した建築家から依頼されたのですが、
デザインを見せると、堺屋さんらから猛反発を食らいました。彼は当時、通商産業省(現・経済産業省)の役人で、生活産業館の責任者を務めていたのです。

 私は既にこの頃、グループサウンズのステージ衣装を手がけていたけれど、お堅い職業の人には知られていなかった。しかも、提案したのは超ミニスカート
に地下足袋風のロングブーツ。堺屋さんらは「こんなの、着させられない」と。私は納得がいかず、新幹線に乗って何度大阪に説明に行ったことか。

 万博では若い芸術家が多く起用され、一斉に文化が花開いた。堺屋さんだって、そこで文化に触れたからこそ、作家になったのだと思いますよ。その後はよく話をするようになりました。話し好きで、物知りで、大阪人っぽい人。

 70年頃のことです。東京・青山の外苑西通り近くにブティックを移転しました。この通りは64年の東京五輪に向けて着工された新しい通りなのに、いい呼び名がない。堺屋さんに相談したら、「あなたみたいな人が好きに付ければいいんだよ」と背中を押してくれました。

 その気になって、ピンキーとキラーズが人気だったことなどから「キラー通り」と名付けたら、定着した。それが2020年東京五輪で2度目のオリンピック通りになるのだから感慨深いですね。

 私は、25年の大阪万博の誘致特使を務めました。今後も万博に関わる予定で、堺屋さんからアドバイスをもらいたかった。残念ですが、「昔を振り返るのではなく、新しいことをどんどんやりなさい」と言われるように思います


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