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金持ち名無しさん、貧乏名無しさん
ベーシックインカムを日本にも普及させよう206 [無断転載禁止]©2ch.net

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ベーシックインカムを日本にも普及させよう206 [無断転載禁止]©2ch.net
704 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん[]:2017/05/17(水) 05:49:10.49 ID:YJHxc0rS
// www.geocities.jp/burke_revival/blogjiyuushugikeizai.htm
EDMUND  BURKE(エドマンド・バーク)の系譜
 
真正自由主義(伝統主義、真正保守主義)  
// counter.geocities.jp/ncounter.cgi?id=burke_revival
    ===

保守主義の哲学---自由主義経済学者A・スミス、F・A・ハイエク、M・フリードマンの智恵

―――――保守主義(哲学)の神髄―――――


・・・(3) 国民全員に対する一定の生活最小限度の保障の役割

ここで重要なことは、自由主義国家の政府が行う生活保障とは、“ある限度の保障で全員にとって達成可能な、いかなる特定の個人あるいは集団のいかなる特権ともならない保障”でなければならないということである。
つまり具体的には“厳しい物的欠乏に対する保障”=“最低所得の保障”である。これに対して「絶対的な保障で、それが自由社会において全員にとっては達成不可能な保障」という概念が存在する。

つまり「一定生活水準の保障で、個人あるいは集団の享受する水準と他の人びとあるいは集団の享受する水準を比較することによって決定される保障」=「ある個人が受けるに値すると考えられている特定の所得の保障」である。

読者の皆さんや良識ある日本国民は、この二つの保障概念を明確に区別して、現在の日本国の社会保障制度は、抜本的に改める必要があることを理解せねばならないであろう。
後者の保障は「福祉国家」を煽る野心、すなわち「所得の再分配」を保障するために政府の権力を握りたいという願望(=共産主義などの本質である)と密接に関連する。

このように、後者の保障が特定の人びとが特定のものを得ることを保障するために政府の権力(=強制力)を用いるべきであることを意味するかぎり、
それは異なった人びと(→例えば、富裕層など)に対するある種の差別と不平等な扱い(→比例課税ではない極度の累進課税など)を必要とするもので、文明国家(自由社会)とは両立しない。

2.社会的正義(=分配的正義)についての簡単な考察

日本国政府が、国家権力であるという理由かつ富裕者が富裕であるという理由だけで富裕層に極度に大きな累進課税をかけて、極端に多くの私有財産を没収することが「正義」であるという「社会的正義(分配的正義)」つまり、
 
ベーシックインカムを日本にも普及させよう206 [無断転載禁止]©2ch.net
705 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん[]:2017/05/17(水) 05:53:58.57 ID:YJHxc0rS
 
・・・「○○弱者救済の正義」の論理は、果して正しいのであろうか?

例えば自由主義社会の貧しい村にある大富豪一家が引っ越してきたと仮定する。そこで村の人口の2割程度を占める村の富裕村民の内の過半数の者たちが集会を開き、

「この村のわれわれ以外の残り8割を占める貧しい村民たちは、他の村や町の人びとと比べてもずっと貧しい暮らしをしているのだから、他の村や町の人びとの平均値程度に裕福になるくらいまではその大富豪宅から私有財産をいくら強盗しても、
強盗する富の量は大富豪の所有する私有財産のほんの僅かな一部でしかないのであるから、この村の誰かが大富豪宅の私有財産を強盗してきて、その財産を8割の貧しい村民たちに2割の富裕村民たちの裁量で富を分配することは〈許され得る正義〉である。」

と、議決して数名の村人が強盗を実行したとする。さて、この村人らの行為について、被害者の大富豪が、村の警察署に強盗事件の通報をして、裁判所に対して、「村人たちの行為は〈何の正当な根拠もない、差別にすぎない不正義〉である。」と提訴した場合、
果たして裁判所は「村民の行為は村の8割の弱者である貧しい村民を救済する慈愛から発した行為であるから〈正義〉であって犯罪ではない。」と、判決するべきであろうか?

あまりも馬鹿馬鹿しい話である。そのようなことは認めるべきではない。自由主義社会の司法の判断は必ず、強盗罪などの「有罪判決」である。そのような行為は、司法が判断しても「正義であり犯罪で無い。」と言える正当な理由は一切ないから有罪とせざるを得ない。

これを強引に「無罪である」と言い切るためは、マルクス主義の「搾取」論と「階級闘争」論、あるいはレーニンの「帝国主義」論さらには、ウェッブ夫妻のフェビアン主義などの概念を持ち出すしかないが、
いずれを持ち出しても“自由主義社会”の司法判断では「有罪」にしか成りえない。なぜなら、これを司法が「無罪」と判断してしまえば、自由主義社会の秩序は一切成立しないからである。

ところが、実はこの村人たちの蛮行を「正義である」などと嘯く論理が、共産主義の社会的正義(=分配的正義)の本質であり、
この社会的正義(=分配的正義)が日本国の社会保障制度の多くの部分(=徴税、赤字国債発行などで負担している部分)の理論的根拠とされているのである。
 


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