- 日垣隆★135 [無断転載禁止]©2ch.net
29 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/03/21(火) 21:30:18.48 ID:hWAQw4Ob - ★立ち直る人と立ち直れない人★━━━━━━━━━★
△■:私も震災直後、しばらくフリーズしていました。仕事がありましたので、嫌でも外に 出ていかざるをえなかった面があります。 日垣:△■さんからご覧になって、立ち直れるはずの人が立ち直らないのはどのような理由 だと思いますか。 △■:私は精神科医なのですが、自分から医者の門を叩いて「何とかしたい」と訴えに来る 人は立ち直っています。診察にやって来ること自体、アクティブな行動を取っているわけで すから良い方向に向かっているのです。家にこもったまま、病院に行かずにお酒に走ってし まう人の話はよく聞きます。 日垣:自殺者は、東日本大震災の犠牲者としてカウントされません。私がさまざまな人から 話を聞く限り、地震と津波が原因による自殺はかなり多く出ていると予測しています。 震災から立ち直るためには、ネットワークや楽天思考、オカネやスキルなどたくさんの要 素が必要です。あえてひとつだけ「これさえあればいい」というオプションがあるとすれば、 何だと思いますか。 〇□:「行動」以外にありません。 △■:「人」です。家族や職場、近所で自分を必要としてくれる人のネットワークがあった おかげで、私は助かりました。 私はネガティブ志向な人間でして、楽天思考はかえって危ないと思うのです。 日垣:そうかもしれません。慎重でありながら、なおかつアイデアを行動に移す機動力をも つ。行動に移せない人とは、どういう人なのでしょう。 〇□:行動できない人は、震災に関係なく動けないのではないでしょうか。たまたま震災が あったおかげで、そのことがはっきりしただけだと思います。私は70%も年収が減る中、 ローンを支払い、子どもの学費を払い続けなくてはなりませんでした。震災の1カ月後か らすぐ行動に移したおかげで、秋には成果が出始めています。 日垣:先ほど、ご友人が自殺されてしまったとおっしゃいました。 〇□:ウツだったようです。友人の告別式で妹さんにお会いしたところ、「地震のときに亡 くなったほうがラクでした」とおっしゃっていました。 日垣:△■さんは、精神科医として大勢のウツ病患者と接してこられたと思います。 △■:2011年夏あたりから、ウツ病で精神科を訪れる人が増えました。 日垣:震災直後、一家4人が亡くなったのに平然としている消防団長さんがいました。人間 の緊張状態が続くのは、せいぜい4カ月が限度と言われています。避難所になった体育館 をあちこち訪ねましたが、必ず精神的におかしくなっている人がいました。そうなっても仕 方がないと思います。しかし、そのことはマスコミでは報道されません。マスコミ報道は、 むしろ実態を隠してしまいます。 〇□さん、最後にひとことお願いします。 〇□:このまま仙台が良い都市になる。今がその境目だと思います。
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30 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/03/21(火) 21:30:41.33 ID:hWAQw4Ob - ★「津波てんでんこ」で逃げた大船渡の人たち★━━━━━━━★
日垣:▽◎×■〇さんはこの1年、岩手日日新聞に週1回入っているフリーペーパー「い わにちリビングun(アン)」のライターとして活躍されています。2010年末までスナック のママさんをしており、その前はクロネコヤマトのドライバーとして働いていたのだとか。 吉村昭さんの『三陸海岸大津波』を読み、書く仕事をしたいと思い始めました。今では1日 6本も記事を書く売れっ子ライターです。 ▽◎さんは陸前高田で生まれ、大船渡で育ちました。いずれも津波を避けがたい町です。 先ほど、仙台のお二人が「地震が起きて良かった」とおっしゃいました。▽◎さんは「津波 を見てみたいと思っていた」と言います。 ▽◎×■〇:三陸地域に住んでいる人は、皆さん津波のおそろしさについて話には聞いた ことがあります。でも、実際の津波をはっきり見たことがある人はいません。 1960年のチリ地震津波や1933年(昭和8年)の昭和三陸地震の津波は、いずれも夜に やって来ました。津波をきちんと見たことがある人は、高齢者であっても三陸地方にはいな いのです。「人さえ死ななければ、いつか津波を見てみたい」という気持ちを私はもってい ました。 日垣:「人さえ死ななければ」という条件つきで津波を見てみたいと思うのは、自然な感情 だと思います。 ▽◎さんに大船渡を案内してもらったときに「ここに駅舎があって、ここに交番があっ て......」と説明を受けながら、線路や建物の面影はまったくありませんでした。最初は▽◎ さんが何を言っているのかと思いましたが、そのくらいひどい津波に遭ったわけです。犠牲 者が多かった陸前高田市や大槌町(おおつちちょう)と比べて、大船渡の被災状況がメディ アに取り上げられることはそれほどありません。 3月11日の震災では、大船渡には莫大な数の死者は出ませんでした。ということは、生 き残った人が多かったのですよね。 ▽◎:津波が来たときには、蜘蛛(くも)の子を散らすように「津波てんでんこ」でそれぞ れが逃げました。チリ地震の教訓があったからです。 日垣:大船渡市は、瓦礫処理も迅速に進みました。自立した商店街の組合が行政よりもスピ ーディに動き、ただちに屋台村を作り上げています。しかも、その屋台村の売上は、本店舗 があった前年より伸びてしまったのだとか。こういう元気な町には、もっとスポットライト が当たってもいいと思います。 ▽◎:大船渡市の人口は約4万人、震災による死者・行方不明者は約500人です。リアス 式海岸の町では、どの商店街も平らな場所は流されています。陸前高田市よりも、大船渡市 の流出家屋のほうが多いのです。チリ地震の教訓があったおかげで、家の心配をする前に 人々は津波から真っ先に逃げました。 日垣:世界的に見て、津波災害について最も勉強になる町だと思います。 ▽◎:マスコミの人には、大船渡のことをもっと褒(ほ)めてほしいです(笑)。 日垣:大船渡では『津波はいつかまた来る』(村田プリントサービス)という資料が防災教 育に生かされています。写真を撮影したカメラマンの村田さんは、自宅を流されてしまいま した。村田さんには「動くものを撮らせたら自分の腕はピカイチだ」という自負があり、プ ロとして津波を撮りたかったと話していたのが印象的です。
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31 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/03/21(火) 21:31:02.72 ID:hWAQw4Ob - ★貧乏ならばダブルワーク、トリプルワークで働けばいい★━━★
日垣 今回の震災では、運と不運が存在することを実感しました。▽◎さんは津波で流され た交番のすぐそばに、2010年12月まで住んでいたそうです。 ▽◎:私は強運だと思います。 日垣:取材で▽◎さんと一緒に訪ねた不動産屋には、どんどん人が訪れていました。皆さん、 震災から立ち直ろうとしている人たちです。 ▽◎:私たちは、震災のおかげで良い方向に向かっているグループなのだと思います。これ は誤解を受ける言い方かもしれませんが、要は「何もやっていない人」もいるわけです。気 持ちがつらいことはもちろんわかりますが、何もやらなくてもいいのでしょうか。 震災後の今はとにかくどこも忙しく、求人を出しても人がまったく集まらないという話 をよく聞きます。支援金や賠償金などオカネをもらった被災者は、働く気がなくなってしま うのでしょう。「正社員でなければ嫌だ」「事務職以外の仕事はやらない」という人も多いよ うでしす。 正社員の求人がないのに「正社員でなければ嫌だ」と言っているようでは、一生仕事なん て見つかりません。オカネがないのであれば、ダブルワーク、トリプルワークでガンガン働 けばいいと思うのです。誰かから仕事を頼まれたら、基本的に返事は「ハイ」としか答えな い。そういう気持ちで今日まで一生懸命働いてきました。 日垣:▽◎さんにとって、ものすごく大きな変化があった1年だったと思いま す。 ▽◎:私の仕事はライター業一本ではありません。フリーペーパーの仕事もありますし、ス ナックのバイトをしていたこともありました。宮城県が出している気仙新聞の仕事もあり ますし、奥州エフエム放送のインタビュアーも週に1回担当しています。大船渡屋台村の 事務局の収入もあります。 日垣:仕事が一本だと不安になりますよね。どこかで変化をつけなければ、書く仕事に飽き てしまったりもします。▽◎さんは宅急便のドライバーとして勤めたり、スナックのママを やったり、現在はライターになりました。転職歴が変わっていますが、過去の仕事が今に生 きていると思います。 ▽◎:全部つながっています。どこでもクルマを運転していけますし、スナックのママ時代 に培った人脈のおかげで、知り合った人たちがどんどん仕事を頼 んでくれるのです。
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32 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/03/21(火) 21:31:37.16 ID:hWAQw4Ob - ★津波で死ななくても済んだ人々★━━━━━━━━━━━━━★
日垣:一緒に大船渡を取材していると、▽◎さんの知り合いだらけでびっくりします。この 人脈は、記者としてもってこいですね。 ▽◎:私は人の話を聞くのが得意みたいです。通り一遍ではないホンネの部分を聞けたとき に、ライターとしての幸せを感じます。 日垣:偶然が重なり合いながら、今に至っている。偶然ではなく、必然だったのかもしれま せん。▽◎さんには、もともと文章を書きたいという願望があったのですか。 ▽◎:ブログを書いて本を出したいと漠然と思っていたのですが、いざ書こうとすると、何 を書いたらいいのかわからなくなってしまったのです。 先ほど福島の×◇さんがおっしゃっていたとおり、震災が起きてから一生懸命情報を取 ろうとしても、情報がありませんでした。ここで起きている本当のことを、私自身が文章で 伝えていきたいという強い気持ちがあります。 津波であんなにたくさんの人が死んではいけなかった。一刻も早く逃げさえすれば、死な なくて済んだはずです。なのに、こんなにたくさんの死者が出てしまった。その教訓につい て訴えたいという気持ちがあります。 日垣:これから1年後、2年後にやってみたい仕事はありますか。 ▽◎:震災からちょうど1年が経ちましたが、私が担当している記事はまだハッピーな部 分しか書けません。時間が経つにつれて、ハッピーではない部分やこれから気をつけなけれ ばいけないことを書きたいと思います。悲惨な出来事に接したときに「かわいそう」と思っ てしまっては、目が曇ってしまうと思 うのです。
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33 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/03/21(火) 21:31:59.50 ID:hWAQw4Ob - ★お上に頼らず自力で仮設商店街を復活★━━━━━━━━━━━★
日垣:大船渡には屋台村と夢商店街がありまして、▽◎さんはどの店に入っても顔が知られ ています。屋台村では、20軒のお店の売上を管理しているそうで す。 ▽◎:有限責任事業組合として支援金や補助金をもらっていますから、売上についてはきち んと報告しなくてはいけません。 日垣:仮設商店街にあったケーキ屋さんは、津波によって3店舗のうち2店舗が流されて しまったそうです。しかし、1カ月で売上が5倍になったと聞きました。ここで売っている お菓子は、とてもおいしかったです。 ▽◎:大船渡には「かもめの玉子」で有名なさいとう製菓があります。こちらも震災後に売 上が落ちると思いきや、売上が前年比150%にまで伸びているのだとか。地元以外の人たち が、復興支援のために商品を買ってくださるのだそ うです。 日垣:ホタテなどの養殖業でも、再建できているところとできていないところがあります。 両者はどこが違うのでしょう。 ▽◎:漁協幹部の動きが良いか悪いかの違いだと思います。 日垣:仮設商店街では、商店街の理事長さんが「行政の区画整理に9年かかる」と言われた そうです。「商人がモノを売らないでどうする!」と思った理事長さんは、すぐに一人の親 戚の地権者に声をかけて土台をつくり、30軒の入居者を募りました。仮設商店街には、食 べ物屋さんや本屋さん、理容店などさまざまなお店があります。とても楽しそうな場所です。 大変な震災が起きてしまったのに、ものすごい活気と元気があります。 ▽◎:元気をなくしてしまったら、ご先祖様に恥ずかしいじゃないですか。吉村昭さんの『三 陸海岸大津波』によると、明治29年(1896年)の明治三陸地震、昭和8年(1933年)の 昭和三陸地震、昭和35年(1960年)のチリ地震で起きた津波から、三陸地方はことごとく 立ち直っています。今は機械で瓦礫撤去ができますが、昔は瓦礫を自分たちの手で片づけて きたわけです。私たちが復興できないとあきらめてしまったら、ご先祖様を前にして恥ずか しいと思います。
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