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名無しさん@公演中
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト

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三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
567 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 14:51:46.93 ID:VTm/ZsOm
『1Q84』(村上春樹著)を読んで、誰もがこれはオウム真理教のことだ、と思ってしまうでしょう。ただ、
ここに描かれている新興宗教のリーダーは、本当にオウム真理教の教祖がモデルなんでしょうか。決して
それだけではないと思います。もっと大きなシステムを体現した存在である。実に村上春樹がリーダーに与えて
いる規定は、折口信夫が天皇に与えている規定とまったく同じなんです。
(中略)預言者とは、未来を予知する者(予言者)ではなくて、神の言葉を自らの身に預かることができる者です。
村上春樹はそう規定しています。(中略)
さらにこの男は神の声のレシヴァ(receiver)だとされている。しかもレシヴァというのは、ただその人間が
存在するだけでは能力が発揮できず、パシヴァ(perceiver)という認識者が必要不可欠であると書かれている。
(中略)レシヴァが王でありパシヴァが少女であって、王の近親者である。つまり、姉妹もしくは実の娘が
神の声を王に届ける。これは折口信夫が「大嘗祭の本義」等で説いている天皇の規定そのものなんです。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
568 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 14:52:17.67 ID:VTm/ZsOm
折口は、昭和三年に発表された「大嘗祭の本義」と密接に関連する論考の中で、天皇のことを御言持
(ミコトモチ)であると定義しています。(中略)まさに預言者としてある王でしょう。(中略)
折口はさらに続けます。最高位のミコトモチは天皇であるが、ミコトを預かるという条件を満たせば、他に無数の
ミコトモチが生まれ出てくる可能性がある。(中略)天皇は、天上世界の神々の声を聞き届ける人間であり、
神の声の象徴であるとさえ折口は言う。折口のミコトモチ論は戦後の象徴天皇制の先取りにもなっているんです。(中略)
『1Q84』のなかでは、獣であり精霊でもあるリトル・ピープルが空気さなぎというものを織り上げます。
空気から透明な糸を紡いで繭を織る。その中から新たな存在が生まれ出てくる。それは原型(イデア)としてある
王の分身なんです。折口は「大嘗祭の本義」において、新たに即位する天皇に真床襲衾という寝具であり
衣裳である巨大な布を被せる。同じ情景を『死者の書』では、少女が蓮の花から採った透明な糸で織り上げた
曼陀羅として描く。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
569 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 14:52:49.97 ID:VTm/ZsOm
曼陀羅は「衣」であり「裳」であると折口は書く。どちらも糸を紡いで織り上げられた繭です。その繭の中から
先代の「天皇霊」(折口の定義によればそれは言葉の霊でもあります)を受け継ぎ、先代の分身となった新王が
即位する。王という存在は滅びないのです。天皇の身体は霊が身にまとう単なる「容器」に過ぎない。反復される
王の即位の際には、王の身体に生命(霊魂)を取り憑かせ、安定させるために「水の女」である后が象徴的にも、
実際的にも性の交わりを果たす。王と少女はまさに「多義的に」交わるのです。
そっくりだというと語弊があるかもしれませんが、私が長年研究してきた折口信夫の『死者の書』と『1Q84』は
非常によく似た物語構造を持っていると思うのです。その核心には天皇制というシステムがあり、さらには
想像力によるその乗り越えが図られている。現実の制度を想像力によって解体し、再構築するのです。新しい王国を、
作品として到来させるのです。こう考えてみると、おそらくは村上春樹が意識的に読み込んだ先行作家の姿も
浮かび上がってきます。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
570 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 14:53:16.41 ID:VTm/ZsOm
大江健三郎の『燃えあがる緑の木』三部作から『宙返り』へと続く、宗教教団と救世主をめぐるサーガです。(中略)
さらに、より直接的なのは三島由紀夫との関係です。ただし私は、村上春樹が実際のインタビューで三島の
作品群に対して否定的な見解を述べていることを無視しているわけではありません。おそらくそうした個人的な
好悪の判断を超えて、現代の日本で意識的に小説を書こうとする書き手たちの作品、想像力によるシステムの破壊と
再構築を意志した作品はみな相似形を描かざるを得ないのでしょう。三島由紀夫が『英霊の聲』で提示したのも、
まさに折口信夫が「大嘗祭の本義」で大きく準拠した宗派神道に伝わる神道儀礼でした。国家神道と同時期に
無数に生まれ出た新興神道の教祖たちが明らかにした憑依の主体、神主と審神者の構造をもとに、折口も三島も、
天皇制を脱構築しようとしたのです。ただし、ここで三島もまた、折口に対してきわめて批判的な、というよりも
愛憎が複雑に入り交じった両義的な態度をとりました。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
571 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 14:53:44.99 ID:VTm/ZsOm
三島が『英霊の聲』で依拠したのは、出口王仁三郎の「大本」から分かれた友清歓真の鎮魂帰神法です。神の声が
憑依する「神主」がおり、神主に憑依を促し、それを統御する「審神者」(さにわ)がいる。神主とは神の声の
レシヴァであり天皇である。審神者とは神の声のパシヴァであり后である。折口=三島の天皇論をまとめれば、
こうなります。三島由紀夫が『英霊の聲』で得たヴィジョンを作品として結晶化させたのが、遺作となった
『豊饒の海』四部作だとすると、村上春樹に至るまでの戦後文学の課題が一体何であったのか、おぼろげながらも、
しっかりと把握できるのではないでしょうか。
何度も繰り返すようですが、それは天皇制というシステムの問題なのです。しかもこの天皇制というのは、
太古から連綿と続いてきたシステムではない。この極東の地を含めて世界が一つになりつつあった最初の時期に、
現在でも猛威をふるう強力な資本主義グローバリズムの圧力のもとで、アジアの片隅に勃興した新興の一国家が
生き残るために採用した、近代になって再発見され、再構築されたシステムなのです。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
572 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 14:58:42.63 ID:VTm/ZsOm
だからこそ、表現においても、実践においても、このシステムに従い、またこのシステムに抗うことが重要に
なってくる。折口も三島も、神道的なるものにキリスト教的なるものを接ぎ木して、グローバリズムを生き抜く
ための理念、恐るべき雑種としての信仰原理を作り上げたのです。東洋と西洋の信仰と文化を怪物的な王のもとで
統一しようとしたのです。
そしてそのすぐ傍には、折口や三島が作品として抽出してきた権力発生の方法を現実世界に応用する人物が
現れてきた。折口と同時代を生きた大本の出口王仁三郎です。出口王仁三郎は結果として、日本の中に天皇の
分身ともいえる存在が統治するもう一つの神聖王国を築いてしまった。しかもその神聖王国を、一国家を超えて
アジアにまで拡大しようとしていた。日本の大陸政策と軌を一にした満州や蒙古への進出です。現実の国家が、
そのようなもう一つの理想国家の存在を許すはずがない。大正、昭和の二度にわたる大本弾圧事件が起こるのは、
相似形をもったシステム同士の齟齬という事態を考えれば必然だったわけです。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
573 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 14:59:12.24 ID:VTm/ZsOm
しかし、第二次世界大戦で天皇制は滅びず、より抽象度を増し、より純粋なシステムとなった。そのシステムが
まさに飽和状態を迎えようとした時、一九八四年から一九八五年にかけて、大本のネガのような存在である
オウム真理教が生み落とされることになった。オウム真理教もまたこの地上を、そのまま現実のシャンバラ
(楽園)に変えようとします。麻原彰晃を中心とした天皇制の劇画とも言えるシステムを用いて……。つまり
近代という時代は象徴天皇制を条件として、現実世界においても想像世界においても、それを生の指針とし、
その疑似システムとしてしか成り立つことができなかった。そこで意識的な実行者たちは天皇制を模した現実の
組織を作り上げて国家と対峙し、意識的な表現者たちは想像力によって理想の王国をもう一度自分の手だけで
作り上げようとした。それらはみな驚くほど似てくるのです。それが近代日本思想史と近代日本文学史のいずれにも
またがり、その二つが交叉する本質的な問題となったのです。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
574 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 15:07:58.43 ID:VTm/ZsOm
『1Q84』は、そのような流れの中で形になった作品だと思います。その点に、村上春樹の作家としての創造性と
困難の両方があるのではないかと推測されます。信じられない部数が出たというのも、おそらくは時代の無意識に、
この極東で近代=現代という困難な時代を生き抜いている多くの人々の無意識に、ダイレクトにつながることが
できたからでしょう。我々の誰もが悩んでいるシステムそのものをどう脱構築していくのかという実践が、
この作品の執筆にかけられている。また、だからこそ、村上春樹の多くの作品に、まるで回帰する亡霊のように
「満州」という言葉が何度も登場することになったのでしょう。(中略)オウム真理教の信者たちにインタビューして
仕上げられた作品のあとがきでは、「唐突なたとえだけれども、現代におけるオウム真理教団という存在は、
戦前の『満州国』の存在に似ているかもしれない」という一節がわざわざ明記されなければならなかったのでしょう。
村上春樹にとっては、自分が書いている物語の世界が現実として逆襲してきたんじゃないでしょうか。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
575 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 15:15:51.06 ID:VTm/ZsOm
(中略)ここに描かれているのは、村上春樹にとって切実な物語であるとともに、近代以降を生きている我々に
とっても実に切実な物語なのではないかと思います。ただ、そのシステムは非常に男性的なシステムなんですよ。
(中略)実際、この物語では女たちだけが不幸になってゆく。男は受動的に享楽を得ることができる。
(中略)システムへの意志、つまり物語が長編小説としてまとめられてしまうことを拒むような拡散への志向、
男性的な権力をたわめてしまう女性的もしくは中性的な未知なる力への夢想。この作品に弱点があるとすれば、
そうした視点があまり見受けられないことでしょう。
システムの矛盾、システムの悪とその解消を描くはずの物語が、理想のシステムそのものとなってしまう。私は
そこに大きな不満を覚えます。
(中略)麻原彰晃は狂ったまま生き延びているし、象徴天皇制は揺るがない。だから王が殺されて物語が
完結するこの小説は、やはり作り物めいてしまう。あまりにもシステム通りに、きれいに作られすぎている。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島由紀夫全戯曲上演プロジェクト
576 :名無しさん@公演中[]:2011/11/07(月) 15:16:23.75 ID:VTm/ZsOm
(中略)現実の出口王仁三郎は破壊的なユーモアの持ち主であるとともに、誰からも好かれる規格外の大人物で
あったといわれているし、麻原彰晃にしても、内部の者に対しては限りのない包容力を持っていたと伝えられている。
それが反権力の闘士となり、また底知れない悪を体現することにもなった。『1Q84』だと、不気味な悪の
源泉であるリーダーをはじめとして皆、格好よすぎるわけです。そして女は死に、男は生き残る。レシヴァで
あった王を引き継いで小説家になるであろう男は無傷のまま美少女と安全な愛を交わす。これではあまりにも
不公平です。
しかし、だからこそシステムは円滑に動いているとも言えるわけです。王と少女の関係が物語の母体となり、
その関係性が反復され、それぞれ展開されてゆく。そこにはまったく無駄がありません。(中略)男はエロスの
物語を生き、女はタナトスの物語を生きる。(中略)小説家を志した男だけが生き残って、リーダーの後を継ぐ。
だけど青豆は物語の構造上、生き残ることができない。青豆は物語の構造に、システムに殺されたのです。

安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より


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