- 俺達の青春Disco史(60年代〜90年代)
45 :サタデー名無しフィーバー[]:2018/04/17(火) 13:21:03.50 ID:6GhM2jAL - これまでの『爆笑踊り場おじさんの壮年の主張』 まとめ
ディスコの語源となったのはフランス語のディスコテックであり「レコード置き場」の意味であった。 形態としては第二次世界大戦中に生バンドの演奏が困難となったナイトクラブでレコードを代わりに掛けるようになったのが始まりであり 第二次大戦後にパリにラ・ディスコテークと呼ばれるクラブが出現したことにより定着した。 この生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」が本格的な発展を遂げたのは1960年代以降のアメリカのニューヨークのゲイ・シーンである。 客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であった。 こうしたディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。 こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージ、セイント、フラミンゴ、ギャラリーなどが挙げられる。 いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリーのディスコであった。 日本では1960年代にオープンした渋谷の「クレイジースポット」や新宿の「ジ・アザー」が最初とする説がある。 中川三郎が、1965年ディスコをつくり、所得の少ない若年層が来やすいように、値段が安くラフな服装でも訪れやすいようにしてダンスの普及をした。 客層は部落民の日本人・朝鮮系などのマイノリティの若者が主流でトンキン土人の元気な子達が集まり楽しむ場所で モラルなきトンキン感覚やトンキン思考、トンキンルールに支配されたまるで治外法権が適用されているゲットーのような場所であった。 こうしたディスコは在日朝鮮人のための発展場としての役割と少年ヤクザなどアンダーグランドな人種の受け皿としての二つの面を持っていた。 そういった初期のころの踊り場じゃ顔面割られ血が噴き出したままでも根性モンで踊るのがそれなりであり、まさにダンスフロアーという名の戦場であった。 「やられる前にヤル!」これが当時も今もトンキン土人と在日朝鮮人は流儀であり、 「スキ見せてナメられたら終わり」の修羅の世界観は正に暗黒の中国大陸の理屈といっしょである。 それはたとえ踊っている時でも同じである。踊ることすら命がけなのである。正にあほであーる。
|