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名無す
なぜ関西人はどこに行っても関西弁を直さないのか

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なぜ関西人はどこに行っても関西弁を直さないのか
112 :名無す[sage]:2014/01/14(火) 21:50:30.82 ID:TbCYgeBT
言語島奈良県十津川方言の性格
http://www.jstage.jst.go.jp/article/gengo1939/1979/76/1979_76_29/_pdf

十津川アクセントの体系と五条・新宮・田辺・本宮3方言のアクセント体系表を比較してわかるように五条方言以下の場合は十津川方言よりも型の数が多い。
たとば2拍アクセント節では五条以下の方言では4型、十津川方言では3型である。
ここには省略したが奈良・京都・大阪・神戸・大津・津・熊野など近畿諸方言の京阪式アクセントの場合も皆同じ。
平安末期京都方言では2拍アクセント節に5種の型があったと推定されるが、室町期には3類の低平型が頭高型に変化して2類と統合して4種の型になった。
これが現代京都および京阪式諸方言に分布している((表7参照))。
整献資料や方言分布の実態を観察すると、時代を経るとともにアクセントの型が統合して型の数が少なくなっていることがわかる。
以上の事実から型の数の多い体系は型の数の少い体系よりも古い体系であるといえる。
したがって型の数の多い田辺以下京阪式アクセントは、型の数が少ない十津川アクセントよりも古い体系あると考えられる((表1〜7などを参照してもわかるように、
3拍アクセント節では京阪式で5種または6種であるのに対して、十津川方言では4種である。
また大分方言の多型アクセントから鹿児島の二型アクセントが生まれたことも合理的に説明できるが、さらにこの2種の型から成る鹿児島アクセントの2型が統合してして、
隣接地域の志布志町や都城のいわゆる一型アクセントが生じたことも科学的に実証される)。

さらに十津川アクセントの体系を構成する型の相が、どのような型からどのようにして変化統合したものであるかをかなり合理的に説明することができる。
これに対して逆に十津川アクセントが京阪式アクセントより古い体系であると仮定して、
田辺方言以下の京阪式アクセント体系が十津川アクセントから派生した説明することはたいへん無理である。
型の数の少ない体系から型の数の多い体系に変化したとする場合、音韻・文法・意味のうえから言語学的説明が必要である、
十津川アクセントの場合、文献資料や方言分布の実態を動員しても、これを証明するに足る科学的根拠がない。

注1東京式アクセントが京阪式のものから生じたという考えを具体的に唱えたのは金田一春彦氏で、
これは石川県能登島の向田方言およびその周辺のアクセント分布の状態を例示しながら、詳細に説明した説得力のある論文であった(文献61)。
その後関連論文が発表されてこの説を補強した(文献30・31)

2戦前から全国的臨地調査を続けていた筆者も、ほぼ同様な変化方向を考えていたので石川県輪島市(大部分は京阪式特殊アクセント地域)の中で、
一部地域である天地方言(海士方言とも)が東京式になっている事実を京阪式から派生したものと説明した(文献62)次いで四国の幡多方言(東京式)が
高知方言(京阪式)などの体系から変化したものであることを説明した(文献63・65)

3サムエル・ラムゼイ氏(コロンビア大学助教授)が、昭和54年2月24日、東京都立大学方言学会で、東京式アクセントが京阪式アクセントより古いとする仮説を発表したが、
これは飛躍と無理が多くて賛成できない(都立大学方言学会会報85号参照)。
なぜ関西人はどこに行っても関西弁を直さないのか
113 :名無す[sage]:2014/01/14(火) 21:51:23.35 ID:TbCYgeBT
すでに述べた通り、十津川方言の3拍形容詞の2種の型は、和歌山県下の諸方言、とくに田辺・有田・本宮などの方言のそれとよく対応し、しかもその型の出自は、
これらを母体とすることを説明できるもので、両方言間の親近性を物語っている(京阪式の中では形容詞の区別を保っている方言は少なく、
わずかに相生市の周辺の古考の間に型の区別を曖昧ながらみとめるていどで、和歌山県下のものほど広くかつ明瞭なものは珍しい。
しかも室町期京都方言(『補忘記』)の相をほとんどそのまま現代に伝えているという点で価値が高い。また、この古形は高知方言のそれと相通じる)。

奈良県吉野郡南部地区には本来は田辺・有田・本宮などとほぼ同種のアクセント体系が行なわれていたものと推定される。
それが、十津川郷を中心とする団結の強い社会条件と最近までとくに交通不便な山間集落という環境で、田辺など都市地域とのゆききも少なく、
同種方言間の文化の手綱もゆるんで、中央方言の影響力も弱まり、とくにアクセントは孤立変化を起こして、
時代とともに自発的に変化したものと考えられる(自発変化を起したといっても、それは、まちまちな変化ではなく、アクセントの体系性を保持しつつ変化したものと考える)。

新宮方言も広い意味では田辺方言なでと同じ地盤のものである。主な相違点は新宮方言がその環境上、かなり揺れていることである。
とくにアクセントにおいてめだつ(また、イントネーションに特色がある)。
新宮だけでなく、三重県南牟婁地区や尾鷲などを中心とする地区まで一般にアクセントが動揺しているか変種を生ずるかしている。
このようなアクセント状態が南近畿という内陸的には交通不便な領域という点で京都・大阪・奈良など中央文化との交流は比較的に薄かった地方に行なわれている点を注目したい
これらのアクセントは本来は田辺・奈良・京都・津などと同類のの明瞭なアクセントであったものから、それぞれ派生したものと考えられる。
新宮アクセントは、京阪式アクセントではあるが、上記のような方言の中で最も有力なものといえる。
また過去の十津川アクセントも自発変化をしたとはいっても、本来はこれら諸方言のアクセントと同じ性質を共有していたであろう。
そこえ新宮アクセントの刺激も加わってアクセント体系の変化を早めたかと考えられる。

日本語アクセントは結果的には意味の区別に役立つが本来は恣意的なもので、しかも拍の性格にも支配されるから、
動き始めると早期に変化する可能性がある(逆に、安定した環境では長期にわたって大さな動さはない。
たとえば平安末期京都方言で2拍・3拍の1類名詞は「上声・上声」「上声・上声・上声」で全高平(● ●、● ●●))型であるが、
室町期を経て現代に至るまで一貫して全高平型を保っている)。
京阪式アクセント内に潜在する動きの芽(変化の核)の方向はもちろんその時代の社会的条件に順応するが、
顕在する結果を考慮すれば東京式アクセント(共通語アクセント)に近いアクセント体系への方向をたどっているように思われる。
すでに触れたように十津川アクセントも過去のある時期には田辺式アクセントに近く、かつ南近畿というアクセントの動揺する地盤に共通する性格を備えていたものと思われる。
これが前述のような特殊な環境において変化の刺激を受けて始動し、現在のような東京式アクセントに生れかわったものと考えられる。

十津川アクセントが、東京式アクセントに変った時期については、明確に断定できないが、3柏形容詞1・2類の対立とその型の対応関係をはじめ、
各柏のアクセント節における型の対応と型の相の観察のうえから、平安末期の『類聚名義抄』のものよりも室町期のr楠忘記』の体系との関系がより密接であるから、
『類聚名義抄』時代以前の京阪式アクセントから変化したとは考えられない。
室町期(あるいはそれ以後)田辺アクセントに類以する京阪式アクセントから十津川の東京式アクセントが生まれたものと推定される。


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