- なぜ関西人はどこに行っても関西弁を直さないのか
113 :名無す[sage]:2014/01/14(火) 21:51:23.35 ID:TbCYgeBT - すでに述べた通り、十津川方言の3拍形容詞の2種の型は、和歌山県下の諸方言、とくに田辺・有田・本宮などの方言のそれとよく対応し、しかもその型の出自は、
これらを母体とすることを説明できるもので、両方言間の親近性を物語っている(京阪式の中では形容詞の区別を保っている方言は少なく、 わずかに相生市の周辺の古考の間に型の区別を曖昧ながらみとめるていどで、和歌山県下のものほど広くかつ明瞭なものは珍しい。 しかも室町期京都方言(『補忘記』)の相をほとんどそのまま現代に伝えているという点で価値が高い。また、この古形は高知方言のそれと相通じる)。 奈良県吉野郡南部地区には本来は田辺・有田・本宮などとほぼ同種のアクセント体系が行なわれていたものと推定される。 それが、十津川郷を中心とする団結の強い社会条件と最近までとくに交通不便な山間集落という環境で、田辺など都市地域とのゆききも少なく、 同種方言間の文化の手綱もゆるんで、中央方言の影響力も弱まり、とくにアクセントは孤立変化を起こして、 時代とともに自発的に変化したものと考えられる(自発変化を起したといっても、それは、まちまちな変化ではなく、アクセントの体系性を保持しつつ変化したものと考える)。 新宮方言も広い意味では田辺方言なでと同じ地盤のものである。主な相違点は新宮方言がその環境上、かなり揺れていることである。 とくにアクセントにおいてめだつ(また、イントネーションに特色がある)。 新宮だけでなく、三重県南牟婁地区や尾鷲などを中心とする地区まで一般にアクセントが動揺しているか変種を生ずるかしている。 このようなアクセント状態が南近畿という内陸的には交通不便な領域という点で京都・大阪・奈良など中央文化との交流は比較的に薄かった地方に行なわれている点を注目したい これらのアクセントは本来は田辺・奈良・京都・津などと同類のの明瞭なアクセントであったものから、それぞれ派生したものと考えられる。 新宮アクセントは、京阪式アクセントではあるが、上記のような方言の中で最も有力なものといえる。 また過去の十津川アクセントも自発変化をしたとはいっても、本来はこれら諸方言のアクセントと同じ性質を共有していたであろう。 そこえ新宮アクセントの刺激も加わってアクセント体系の変化を早めたかと考えられる。 日本語アクセントは結果的には意味の区別に役立つが本来は恣意的なもので、しかも拍の性格にも支配されるから、 動き始めると早期に変化する可能性がある(逆に、安定した環境では長期にわたって大さな動さはない。 たとえば平安末期京都方言で2拍・3拍の1類名詞は「上声・上声」「上声・上声・上声」で全高平(● ●、● ●●))型であるが、 室町期を経て現代に至るまで一貫して全高平型を保っている)。 京阪式アクセント内に潜在する動きの芽(変化の核)の方向はもちろんその時代の社会的条件に順応するが、 顕在する結果を考慮すれば東京式アクセント(共通語アクセント)に近いアクセント体系への方向をたどっているように思われる。 すでに触れたように十津川アクセントも過去のある時期には田辺式アクセントに近く、かつ南近畿というアクセントの動揺する地盤に共通する性格を備えていたものと思われる。 これが前述のような特殊な環境において変化の刺激を受けて始動し、現在のような東京式アクセントに生れかわったものと考えられる。 十津川アクセントが、東京式アクセントに変った時期については、明確に断定できないが、3柏形容詞1・2類の対立とその型の対応関係をはじめ、 各柏のアクセント節における型の対応と型の相の観察のうえから、平安末期の『類聚名義抄』のものよりも室町期のr楠忘記』の体系との関系がより密接であるから、 『類聚名義抄』時代以前の京阪式アクセントから変化したとは考えられない。 室町期(あるいはそれ以後)田辺アクセントに類以する京阪式アクセントから十津川の東京式アクセントが生まれたものと推定される。
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