- 首都がずっと京都やったら、今頃は?
21 :名無しさん@お腹いっぱい。(ジパング)[sage]:2021/12/30(木) 15:33:25.80 ID:cNoMNXTK - レイテでは第1師団の東京1連隊、甲府49連隊、佐倉57連隊に、岐阜12連隊、福山41連隊、津33連隊、
さらに日本一の精鋭と呼ばれた68旅団の水戸126連隊(日本一悲運の部隊でもある)と皆よく戦って玉砕したが、 損耗率10%で逃げたくせに京都新聞のインチキ戦記で広島福山41連隊の悪口を後世に伝えた弱兵京都の9連隊はどうなのよ? お公家連隊の生き残り「我々16師団も健闘したんドスエ」←いやいや16師団でよく戦っていたのは三重の津連隊だけでしょうが! 山の中で人肉求めて共食い始めたのが京都連隊でしょうが! カトモン山の放棄=京都9連隊←結局この方面に米軍来なかったからね。辛い役割はすべて三重33連隊の京都垣(16)師団です… ↓ 京都16師団の戦闘振りは、友近軍参謀長(愛媛県出身)をはじめ多くの上級兵団の不満を買った。 水際陣地よりの早期後退、カトモン山の放棄は、航空作戦実施中の南方総軍をがっかりさせた。(昭和19年10月)31日付電報で、ペリリュー島の敢闘(水戸、高崎連隊)を引用しつつ、方面軍の作戦指導を避難しているくらいである。 レイテ戦記(上)327頁 この非現実的な作戦にも拘らず、左翼を受け持った佐倉57連隊の二個大隊の奮戦は賞賛に値しよう。 圧倒的に優勢な砲兵と化学兵器の圧迫の下に、闘志と白兵戦闘の技術を生かして、支えられるはずのない北方稜線を10日、錯綜した東方山嶺を30日以上支えたのであった。 12月21日転進命令の出た時は参加人員約2,500のうち、91名しか残っていなかった。 レイテ戦記(上)399頁 ↑ 同じ日本人、同じ兵隊でありながらなぜこうも違うものかと精神力の差をまざまざ見せつけられた気がしてならないよね。 ではではー 押忍!
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