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名無しさん@お腹いっぱい。(ジパング)
首都がずっと京都やったら、今頃は?

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首都がずっと京都やったら、今頃は?
5 :名無しさん@お腹いっぱい。(ジパング)[sage]:2021/12/28(火) 17:22:20.86 ID:rcgk/wkU
【帝国陸軍の頭号連隊】東京vs大阪【帝国陸軍のお荷物部隊】
【一気呵成奪取の精神】東京vs大阪【仮病続出またも負けたか】

《東京玉兵団》
11月1日、玉(東京第1師団)の4隻はレイテ島オルモック湾に到達する。船団の内の1隻、能登丸は8割程度の揚陸が済んだころ、爆撃を受け沈没す。
11月4日、歩57(佐倉連隊)の佐藤第3大隊の占めたリモン北峠から、レイテ決戦の火蓋が切られる。歩1(東京連隊)は、現地35軍の作戦指導で、ピナ山への苦難の行軍を強いられていたが、状況の変化により、反転し、21日からリモン戦線に戦闘加入する。
ラポッグ上陸で、遅れて到着した歩1原口第2大隊(東京連隊)は、師団予備隊として温存させられていたが、砲兵陣地付近に迂回侵入した敵が、キライ高地(原口山)に陣地を占領しようとしたので、19日、この高地の戦闘に加入する。
キライ高地の戦闘は、レイテの戦闘のなかでも有数な激戦となる。南北4キロの細長い稜線上で、10日余りも激戦を展開し、一時は原口大隊が稜線の北端まで敵を追いつめるが、30日には敵の増援が加わり、一方補給のない原口大隊はやがて全滅の運命を辿る(『レイテ作戦の記録』田中賢一氏)。

12月2日、この日朝、歩1原口大隊に対する敵の攻撃は熾烈を極め、大隊長原口豊二大尉、副官寺谷晃中尉は、手榴弾、拳銃をもって敵と戦闘中狙撃されて戦死する。
大隊は500m後方に位置する第2機関銃隊中隊(すでに中隊長高島中尉は戦死)の矢島忠吉少尉以下僅か30余名となる。
矢島少尉は、残兵を指揮し戦闘を継続したが、12月5日に至り、一兵も残さず戦死する(第一師団レイテ会にて取材)。

東京からともに第1師団に赴任した同期の芳忠見習士官は、野砲兵第1連隊第1大隊付であった。
野砲はレイテ上陸直後より、激しい空爆と雨と泥濘に苦しめられる。牽引力である馬を失い、友軍の戦車に支援されるが、砲の陣地侵入は筆舌を絶する苦難の連続となる。万難を克服して砲列を構え、ようやく一弾発射するや、米軍火砲のお返しは15分間に4千発を数える。
12月に至るや、リモン戦線は敵味方入り乱れ、野砲陣地はすべて敵に包囲される。
12月20日、第1大隊は全員銃撃戦の末全滅す。火砲と運命を共とし、一兵も残さず。芳忠見習士官の命日は12月20日である(第一師団レイテ会にて取材)。

12月21日。第1師団はレイテ峠を撤退。1万3千人の内1万数百人がリモン峠の戦闘で戦死した。
昭和20年1月12日。セブ転進。4回にわたる輸送で743名がセブ島へ。以後は転進不能でレイテ島に2千名残留、全員餓死。
終戦までセブ島の戦死者288名、師団の生還者は455名である。
第1師団将兵の戦死は97%。
ちなみに、歩兵第1連隊(東京)は2550名の内生還者39名、戦死は98.5%(第一師団レイテ会にて取材)。

金井英一郎『ジーパン主計ルソン戦記』光人社NF文庫、122〜124頁より

《大阪淀兵団》
旧日本陸軍の中で、日本一弱いと自他共に折紙付の師団が存在した。その名を大阪第4師団という。

昭和14年7月、満洲ノモンハンで日ソの衝突が重大危機に陥り、逆上した関東軍が、北満国境駐屯の仙台・大阪両師団に応急動員下令、出動を命じたとき、
仙台第2師団は勇躍出発、ハイラルより徒歩行軍四日間で現地到着、先遣隊たる新発田16連隊(新潟)の如きは、直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して、
大阪4師団は出動下令されるや、急病人激増、何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し、怒った連隊長が医務室へ出向き、自ら軍医の診断に立会う仕末。
やっと出動部隊を編成したまではよいが、ハイラルから現地までの行軍では、仙台2師団が四日間で強行進軍したのに大阪師団は一週間を要し、しかも落伍兵続出、
現地にやっと先遣隊が到着したら日ソ停戦協定成立。とたんに元気が出た浪花ッ子の面々、口々に戦闘に間に合わざりしを残念がり、落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。
帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった。

大本営でもこの第4師団の戦力と使い方にはよほど困ったとみえて、その後あれほど南方各地で陸軍が苦戦しても、この師団は遂に激戦地に使用されず、専ら後方基地で待機。
終戦は、タイ国バンコック付近で休養中に迎え、復員開始されるや全員血色のよいはち切れそうな元気さで帰国。出迎えの痩せ衰えた内地の人々を驚かせたという。

(新潮文庫『兵隊たちの陸軍史』279~281頁、『現代史研究』第7集より)
首都がずっと京都やったら、今頃は?
6 :名無しさん@お腹いっぱい。(ジパング)[sage]:2021/12/28(火) 17:26:23.29 ID:rcgk/wkU
>>3
弱兵の京都兵はなせが激戦地に放り込まれて戦わされてるけど、逃げ(仮病)上手の大阪兵はずるいよね
シ江作戦でも大阪師団なのに中国兵にボロカスにやられたのは和歌山の連隊だろ?大阪人ズルイわあ...

▽宇田友猪(高知県出身のジャーナリスト、1913年)
「由来第4師団(大阪)は近畿の弱兵なるを以て之を統率するの将軍其人を得ざれば、其成積の挙がるを期すべからず。故に歴代之に師団長たるものは概ね皆陸軍部内に重きをなすの威望と手腕とを兼備する…」


兵は近畿の弱兵、将も無能では話にならないからね
太平洋戦争末期に後方で留守番してた戦力外の大阪第4師団なら誰が師団長になろうと関係ないけど
首都がずっと京都やったら、今頃は?
7 :名無しさん@お腹いっぱい。(ジパング)[sage]:2021/12/28(火) 17:30:22.99 ID:rcgk/wkU
>>4
 渋沢に限れば、何が偉業かといえば、一番は経済モラルの関東的価値観を幼児のようなかけだしの日本という国に根付かせてくれた事だ。渋沢がいなければ、日本は(近江贅六風)の金さえ儲かれば何をしても良い。(大坂贅六風の)金を持てば勝ちだ、金持ちが全てだ、その為にしか仕事をしない。と言う間違った関西風哲学が定着して、二度と直せなかった事に成っただろう恐ろしい現実だろう。
 日本は政治にしても軍事にしても、大コケして迷走している。行政もそうだ。だが、経済だけは基盤がしっかりしている。これはひとえに経済モラルを定着させた事が非常に大きい。その偉業は埼玉県深谷市出身の渋沢が運よく長生きした事にもよる!

【日本流】
物質の進歩に精神が伴うて初めて完全なる文明が生まれるのである。換言すれば物欲万能の思想に精神的の分子を加え、物質と精神とを調和せしめていかなければならぬ。
(渋沢栄一・埼玉県出身)

【贅六流】
大阪は人品を捨てて、すたすた働きて貸殖するゆえに、たちまち富人となるなり
(海保青陵・江戸出身の儒学者・経世家)


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