- 【名駅】名古屋について語ろう【栄】★part115
200 :名無しさん@お腹いっぱい。(愛知県)[]:2021/11/25(木) 04:54:40.31 ID:jJUZG3pm - 原三渓(本名・富太郎)は慶応4(1868)年8月23日、厚見郡佐波村(現柳津町佐波)に青木久衛・妻琴の長男として生まれました。
幼少の頃より勉強が好きで、小学校を卒業すると大垣の儒者野村藤陰の鶏鳴塾で漢籍を学びます。17歳で京都の草場船山の門下生となり、その後跡見花蹊を頼って上京。東京専門学校(早稲田大学の前身)で政治・経済を学ぶ傍ら、花蹊が開いている跡見女学校で教鞭をとります。 そこで、のちの妻となる横浜の生糸豪商原善三郎の孫娘・原屋寿(やす)と出会いました。二人は相思相愛の仲となり、結婚を考えるようになります。双方共に跡取りという難題がありましたが、周囲の理解を得て明治25年結婚し、原家に入籍しました。 実業家として 明治32年、善三郎の死去により家業を継ぐことになります。三渓は原商店を合名会社に改組し、生糸業界では「世界のハラ」と呼ばれ事業を発展させました。 大正4年、帝国蚕糸社長、大正9年には横浜興業銀行頭取に就任します。 実業家として成功した三渓ですが、一方で日本美術に深い理解と興味を示しました。 明治39年には整備をすすめていた三渓園を一般市民に開放。当時としては画期的なことでした。また、新鋭画家の育成に力を入れ、援助を受けた安田靫彦、今村紫紅はのちに文展で受賞しています。 大正時代、日本美術創造の中心地となっていた三渓園には、小林古径、前田青邨、日本美術院の重鎮・下村観山などが集まり、また美術家のみならず、インドの詩人タゴールも日本滞在時には、三渓園に迎えています。 ⇒横浜の三渓園を作った原富太郎は岐阜県柳津町佐波出身、原家に養子に入り生糸で成功して横浜銀行の頭取となる なんだ、横浜を発展させたのは岐阜出身者だった。 しかも日本美術のパトロンとなって日本画の発展に貢献した。
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