- 江戸が東京になってから日本がハチャメチャに
20 :名無しさん@お腹いっぱい。(大阪府)[sage]:2021/10/28(木) 21:49:03.76 ID:IZkL9ETV - 【仮病贅六(壱)】
昭和14年7月、満洲ノモンハンで日ソの衝突が重大危機に陥り、逆上した関東軍が、北満国境駐屯の仙台・大阪両師団に応急動員下令、出動を命じたとき、 仙台第2師団は勇躍出発、ハイラルより徒歩行軍四日間で現地到着、先遣隊たる新発田16連隊(新潟)の如きは、直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して、 大阪4師団は出動下令されるや、急病人激増、何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し、怒った連隊長が医務室へ出向き、自ら軍医の診断に立会う仕末。 やっと出動部隊を編成したまではよいが、ハイラルから現地までの行軍では、2師団が四日間で強行進軍したのに大阪師団は一週間を要し、しかも落伍兵続出、 現地にやっと先遣隊が到着したら日ソ停戦協定成立。とたんに元気が出た浪花ッ子の面々、口口に戦闘に間に合わざりしを残念がり、落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。 帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった。 (新潮文庫『兵隊たちの陸軍史』279~281頁、『現代史研究』第7集より) 【仮病贅六(弐)】 …以上の命令に接し、各部隊はハンダガヤを経て、丸三日間を驚異的な行進速度で目的地に到着した。落伍者は相当に出たが、一日以内に各原隊に追及し得た。 この行軍間、連日遥か西北方に殷々たる砲声を聞き、将兵一同血湧き肉踊るの感があった。又、時に敵機が我が頭上に飛来することもあったが、損害は殆んどなかった。 この行軍の行程を第四師団(大阪)に至っては、我が連隊(新潟新発田)が三日にて前進せし距離を、一週間も要して漸く前進した。連隊の行軍能力の如何に優秀かが明瞭であると、宮崎氏(連隊長)は後に語っている。 (「歩兵第16連隊のノモンハン事件参戦」より 新発田駐屯地援護室・佐藤和敏氏) 【仮病贅六(参)】 (大阪第4師団)と同じ大阪編成の第34師団は湘桂作戦で、第68師団は芷江作戦でそれぞれ辛酸を嘗めている。 第68師団では「御身大切」という兵隊用語が、一般の師団より特別なニュアンスで使われたが、芷江作戦のとき将校、下士官、古参兵の入院が相ついだ。 消極的、合理的な出動拒否である。 『兵隊たちの陸軍史』282頁
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