- 東京人がおそれるのは、京都の都構想からの首都移転
311 :名無しさん@お腹いっぱい。(東京都)[]:2021/02/27(土) 22:53:27.00 ID:eNXe899R - 貴族で固めた文化財のなかからは宗教は生まれぬ、霊性はわき出さない。
美しい女の子が生れないで尊貴の身分に近付けぬ悩み、位が上がらぬので威張れぬ悩み、 文芸の際がなく男振りがよくないので異性に持て囃されぬ悩み・・・ そんな悩みくらいで宗教は生れぬ。 なるほど宗教は現成世界の否定性をもっている。しかしそれは心の底の底から感じられるものでなくてはいけない。 霊性そのもののおののきでなくてはならぬ。 平安時代の多くの「物語」または「歌集」中に見られる如き憂愁・無常・物のあわれなどというものは何れも淡いものである。 人間の魂の奥から出るような叫びは、どこにも聞こえぬ。 (『日本的霊性』鈴木大拙・石川県金沢市出身の仏教学者)
|
- 東京人がおそれるのは、京都の都構想からの首都移転
312 :名無しさん@お腹いっぱい。(東京都)[]:2021/02/27(土) 22:56:01.69 ID:eNXe899R - 平安朝文化
彼らのいかに涙の多いことよ。何かというと泣いている。彼らの長袖はいつも濡れている。 『源氏物語』のような文学的作品は世界にないと言うが、こんなもので日本精神が代表されては情けない。 貴族生活の恋愛葛藤・政治的陰謀・官能的享楽・文学的遊戯気分・修辞的技巧などで充たされている作品はあまり持て囃さぬがいいと思う。 (『日本的霊性』鈴木大拙・石川県金沢市出身の仏教学者)
|
- 東京人がおそれるのは、京都の都構想からの首都移転
313 :名無しさん@お腹いっぱい。(東京都)[]:2021/02/27(土) 22:56:53.31 ID:eNXe899R - 鎌倉時代は実に宗教思想的にみて、日本精神史に前後比類なき光景を現出した。
平安時代の四百年も決して無駄ではなかった。 いずれも鎌倉時代のための準備であった。 こんな根蔕があったので鎌倉時代の春が来た。 ここで美しき思想の草花が咲き出した。 そして七百年後の今日に至るまで、それが大体において我らの品性・思想・信仰・情調を養うものになってきた。 (『日本的霊性』鈴木大拙・石川県金沢市出身の仏教学者)
|
- 東京人がおそれるのは、京都の都構想からの首都移転
314 :名無しさん@お腹いっぱい。(東京都)[]:2021/02/27(土) 22:58:51.76 ID:eNXe899R - 鈴木大拙→梅原猛曰く「近代日本最大の仏教(哲学)者」
林屋辰三郎→京都国立博物館館長、京都大学名誉教授 「約束の念仏は申して候よ やろうやらじは弥陀のはからい(熊谷直実)」 の如きは武人の心構えそのものを赤裸に出していると言ってよい。 阿弥陀の本願にまかせて念仏を称えている自分、それで極楽往生ができるものかできないものか、 それは自分の計らいできまるのでない、阿弥陀の計らいであるから、 いずれなりとあなたまかせだという心持は、他力信者のそれではないか。 また武人として約束はどこまでも守る、その結果がどうあろうと、それはこちらで知ったことでないというのは、 いかにも関東者の律儀性を発揮しているではないか。 『日本的霊性』鈴木大拙・石川県出身 京都盆地は五世紀に朝鮮半島からの渡来まではいぜんとした氾濫原であった。 渡来人最初の村は東山の麓に祇園社を祭る高句麗の人々の八坂村、衣笠山の麓に北野社を祭る秦氏の北野村、さらに南東の方には同じく秦氏の深草村、西の方には太秦村という村々であった。 そしてこの村々の人々は盆地の開発に助け合った。開発は治水を前提としなければならぬ。葛野川に大堰をつくって水量を調節し堤防を築いて水田を造成した。 平安楽土はまさしく渡来人たちが長い間の苦闘の末につくり上げたものであった。 (林屋辰三郎・石川県出身)
|
- 東京人がおそれるのは、京都の都構想からの首都移転
315 :名無しさん@お腹いっぱい。(東京都)[]:2021/02/27(土) 23:00:44.43 ID:eNXe899R - 「東人こそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、ことうけのみよくて、まことなし」
東国の人間は、言ったことはきちんと守る。京都の人は簡単に受け合うけれど、誠実さがないというわけだ。 これに対して尭蓮上人の答えはこうだ。都の人が嘘つきなわけではない。「心やわらかに、情ある」ために、人の頼みを断り切れないのだ。 しかも貧しい人が多いから、結果的に頼まれたことが実現できないのである。 東国人は、心に含みがなく、無骨で、一途に強い気性だから、できないことは「はじめより否といひて」断ってしまう。 それでも財産・実力があるから、他人からは頼みにされるのだ。 都人を弁護する議論だからこうなっているのだが、これがもし『軍鑑』作者や朝倉教景ならば、きっとこう付け加えるであろう。 だから公家には命をあずけられないのだ、と。 武士の世界で「頼む」というのは、己れの命をあずけることである。確実な裏付けもなく「ことうけのみ」よいような、それこそ「うろんなる」者に命はあずけられぬ。 頼むに値する武士、「頼もしい」大将とは、一を一とする、「分別」ある「有りのまま」の人物でなければならない。 (『武士道の逆襲』講談社現代新書)
|
- 東京人がおそれるのは、京都の都構想からの首都移転
316 :名無しさん@お腹いっぱい。(東京都)[]:2021/02/27(土) 23:04:59.93 ID:eNXe899R - 【茨城時代】
鎌足のおとどは、常陸国[茨城県鹿嶋市]にて生まれたまへりければ...(『大鏡』) 中臣氏ですら、巷間に伝わるかなり抽象的なその氏名の由来譚に対して、 戦前から中臣氏も、「ナカ」という地名を本拠地とし、臣の姓(かばね)を賜った氏族である、という推論をしていたのが太田亮氏だね。 長い間この説は黙殺されていたが、戦後になって、「足で研究した」網野善彦氏が、常陸中郡氏の子孫の家に伝わっていた『中郡文書(『桐村文書』とも)』を発見して、一躍脚光を浴びることになった。 神耶井耳命後裔・多(おほ)氏の一族が常陸に移り、常陸の那珂(仲、中)国造に任じられた経緯、系譜が記されているんだよね。 今でも主流学説になったとまでは言い難いが、 この中郡文書には、常陸平氏の別れである陸奥海道平氏の海道小太郎成衡が出羽清原氏に婿入りし、清原氏の家督を継ぐ予定となったわけだが、正式に家督を継ぐ前にその清原氏が源義家に滅ぼされてしまったあとの行方については不明であった。 それがこの中郡文書には、成衡のその後の下野国への移動、およびその最期の迎え方など詳しい経緯が書かれており、歴史的にも整合性が取れる。 【京都時代】 藤原氏[茨城~奈良~京都]:積善藤家 というけれど、謀略・陰謀こそがお家芸(高橋崇・岩手大学教授)
|