- 大阪の都市計画について語るスレ Part49 [無断転載禁止]©2ch.net
229 :名無しさん@お腹いっぱい。(大阪府)[sage]:2017/01/12(木) 22:34:26.37 ID:6MbLmvKt - 今年の夏にはコンラッド大阪が開業だな。
楽しみ。
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244 :名無しさん@お腹いっぱい。(大阪府)[sage]:2017/01/12(木) 23:10:23.76 ID:6MbLmvKt - http://www.pref.osaka.lg.jp/koho/sugata/ayumi.html
大阪の地は遠く1万年以上も前から人類が住み、生活していたことが明らかになっています。 5世紀ごろには、朝鮮半島などからもたらされた大陸の文化が広まり、大阪が日本の政治・文化の中心となりました。 7世紀には、日本最初の中国の都にならった都城が大阪に置かれました。その後、都は近隣の奈良や京都に移りましたが、 文化・通商の玄関口としての役割は変わることなく繁栄を続けました。 12世紀の終わり以降、政権が武士の手に渡り戦乱の世となりましたが、堺は中世のイタリアに見られるような自由都市として 発展しました。さらに1583年、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、大阪を本拠地と定め、巨大華麗な大坂城を築城、日本の 政治・経済の中心地となりました。 17世紀には政治の中心は当時江戸と呼ばれていた東京に移りましたが、大阪は「天下の台所」、つまり全国の経済や物流を とりしきる所として重要な役割を果たしました。この時代に、大阪では広く町民を中心とした文化が成熟し、さらに、懐徳堂や 適塾といった官制の学問にとらわれない私塾による学問も大阪に根を降ろしました。このようにして、開放的な気風や旺盛な 企業家精神が育ち、やがて近代の大都市となる豊かな地盤がつくられました。 その後、19世紀には、明治維新と近代国家成立に向けての混乱により大阪商人は非常な打撃を受けましたが、その低迷から 脱出、工業都市として発展を遂げ、近代都市への脱皮を図りました。第二次世界大戦による空襲の大被害からも立ち上がった 大阪は、日本を代表する商業の都として、流通に、貿易に、工業に大きな役割を果たしてきました。 そして今、大阪は内外の人・物・情報が交流する世界都市へと大きく飛躍する時代を迎えています。
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247 :名無しさん@お腹いっぱい。(大阪府)[sage]:2017/01/12(木) 23:17:41.72 ID:6MbLmvKt - http://www.daichimiura.info/kibo.php
豊臣秀吉の時代、「米の値段は大阪で決まる」と言われました。 米は経済の中心でした。 藩内や東京(江戸)、京都の取引場(市場)でも米の値段は決められていましたが、大阪は商いで富を成した商人が多く、 それぞれの藩へお金を融通していたため、藩の蔵に年貢として納められていた米を抑さえ、日本国全体の米の取引場 (米相場)の中心となり、地方の米の情勢にも大阪が決めた米の値段が影響を及ぼすようになりました。 米の値段は需要と供給から成り立ちます。 この時代、現物の米は取引現場にはなく、先を見据えて米の売買が行われていました。 そのため、買う側は、災害などで米の収穫量が少なく値段が高くなることが予想されれば先に米を買っておき、売る側は、 実り豊で低価格が予想される場合は少しでも値段が高いあいだに米を売っておきます。 このやり取りは、一定の決められた期間に行われ、この期間に交渉した価格で米(商品)の売買が行われていました。 これが「先物取引」の先駆けです。 豊臣秀吉の時代に、大阪で「先物取引」が行われていたことは、世界の史上稀に見ることです(世界初とも言われています)。 「天下の貨物の7割は浪華(浪速)に集まる」といわれ、中之島、江戸堀、土佐堀に設けられた蔵屋敷を中心に、藩に納められた 大半の貢租米、地域の特産物や農工生産物が大量に集まり、これらを取り扱う蔵元、掛屋、問屋、仲買などの大商業の資本家 が輩出しました。 堂島、天満、雑喉場の大阪三大市に、それぞれ米、青物、魚の市場が開かれ、東京(江戸)への輸送には貨物船(菱垣廻船、 樽廻船)が往来しました。 大阪が「天下の台所」と言われるゆえんです。 現在、大阪に「淀屋橋」という橋があります。江戸時代、岡本家が大阪の三大市場(米、青物、魚)を握っていました。 材木の行商を営み、城や堤防の改修工事で高い技術力をあらわし、中之島を切り開き、江戸時代から現在までの経済を築き 上げました。 岡本家の屋号が「淀屋」です。 幕府に財産を取りあげられ、しばらく表舞台から遠のきましたが、牧田家に暖簾分けされ「淀屋」は明治時代まで引き継がれました。 「江戸(東京)が政治的中枢いわば頭脳であるならば、大阪は経済的中枢いわば心臓である」と言われていた江戸時代前期は、 商品や貨幣経済の勢いは目覚ましいものでした。
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255 :名無しさん@お腹いっぱい。(大阪府)[sage]:2017/01/12(木) 23:40:49.02 ID:6MbLmvKt - 「日本」という国号は、畿内を中心とした大和朝廷を指す国号として成立した。本来、「日本」とは畿内の政権のことを指し、
「日本人」とは近畿を中心とした西日本の人々「大和民族」を意味した。 東の地(関東・東北)の人々は「蝦夷」と呼ばれた。 従って現在の東日本の人々は「蝦夷」の子孫であり、正しくは「日本人」ではない。 ※あるいは、大和朝廷の政策により東国に朝鮮半島からの奴隷・難民等を入植させており、「朝鮮人の子孫」とも言える。 (666年 百済人2000人を東国に移す。716年 高麗人1799人を武蔵國に移すetc) 近畿及び西日本の人々は大和朝廷の「大和民族」の子孫であり、真の「日本人」である。 正史「日本書紀」に記されているように、日本人は単一民族ではなく「大和民族」と「蝦夷などのその他」に分けられる。 以上のことは過去・現在・未来において不変。 「蝦夷」について、景行天皇は次のように述べられている(日本書紀)。 「東の国(関東・東北)の人々は性質が凶暴で人を凌辱しても恥じることない。 国を治める人がいないので、領地争いばかりしている。 道を通る人に悪いことをしたり、苦しめたりしている。 蝦夷は男と女が雑居して暮し、親子の礼儀を知らない。 獣の皮を着て動物の血を好み、兄弟は仲が悪くて争ってばかりいる。 人から恩を受けてもすぐに忘れるが、人に恨みを持つと必ず仕返しをする。 仲間を集めては、大和朝廷の国境に侵入して農家の仕事を邪魔し、人を襲っては物を奪ったりして人々を苦しめている。」 大和民族は「和の精神」を受け継いでおり「愛・情け・慈悲・親切・許容」を基本としており、明るくて開放的であり、感情豊かで 個性的。そして、反骨心、向上心がありとても優秀。 また聖徳太子の「日出ずる処の天子〜」からわかるよう、大和民族は大国相手に媚びへつらうことはない。 しかし東の人々は「妬み・恨み・嫉妬」を基にしているため、暗くて閉鎖的・排他的かつ攻撃的であり、感情が乏しく無個性。 反骨心なく権力には媚びへつらう。そして誹謗・中傷を好む。 東京人は蝦夷or朝鮮人の子孫。これは史実であり揺るがしようのない事実。
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