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傍聴席@名無しさんでいっぱい
死刑賛成派と反対派の対談スレ◆Part49

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死刑賛成派と反対派の対談スレ◆Part49
150 :傍聴席@名無しさんでいっぱい[]:2012/01/15(日) 10:36:06.24 ID:O8MXP6aM0
私たちが生まれ、育ち、生活する社会は、犯罪のない社会ではありません。
そして、その犯罪のなかには、残念ながら、殺人も含まれます。
最近では簡単に人を殺すようになった――
そういう指摘を新聞や他のメディアで耳にするようになったのは三〇年ほど前、
私がまだ中学生の頃でした。その前はどうだったのか、
調べてみなければわかりませんが、いつもそう言われていたのではなかったか、
という疑問を私は持っています。

それとは反対に、私には最近の傾向と思えることは、
凶悪犯罪と呼ばれる事件が起きた直後の世論調査で、
死刑に賛成と答える人がとても増えたことです。
そのようなニュースに接すると、私はめまいを覚えます。
というのも、簡単に人を殺すことと、簡単に死刑に賛成することが、
結局のところ同じ時代の流れに属しているような、
同じ無思慮、同じ反射反応から出ているような印象を受けるからです。

殺人事件の報道に接したとき、私の頭に最初に浮かぶ考えは、
人を殺してしまったこの人は、なぜ殺さずに済ますことができなかったのか、
言い換えれば、なぜ殺すことができたのか、ということです。
一件の殺人を可能にする条件は、人を殺してしまった彼
あるいは彼女のなかにだけあるのではありません。
私たちの社会のなかに、「死の文化」と呼ぶべきものが確かに存在します。
そのような「文化」が、ある日、ある人に、人を殺すようささやき、
その決心を支え、その手順を示し、そして殺した後には、
行為を正当化するさまざまな口実を提供するのです。

そして、この同じ「死の文化」に支えられることなくしては、
死刑制度もまた存続できないと私は思います。
なぜなら、この制度がある限り、私たちの社会のある人が、
人を殺すことを命じ、あるいはその命令を受け入れ、
その決心を支え、その手順を考案し、そして殺した後に、
行為を正当化するさまざまな口実を必要とし続けるからです。
また、この制度の是非を問われる市民も、賛成と答えるためには、
やはり同様の文化を必要とするからです。


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