- 田舎の人間関係('A`) 9
348 :名無しの権兵衛さん[sage]:2011/07/30(土) 10:45:15.40 ID:sbC3sSH/ - ○○のとあるコミニュティ(地区とかの単位)で
どれだけ住民が結束しても、その事柄に適用される法律に 全く沿わない方向で結束しているものだと、 法的有効性などないものになる。 後にその思いを裏切ることとなり、 そこで誰かしらが吐き出す 「あいつが裏切ることさえしなければ云々」の言い分も、 あくまでもその人らの理屈が社会的ルールに沿っているという 前提で言ってるつもりだった。 その言い分を吐き出すことにおいても 自分達の政治経済の感覚は間違っていない つもりでやっている。 その状況をして 怨恨を自分達の勝手な認識を端に作っているだけ、と 上の人は見る。 彼らの人間関係の間には、自分達に間違いなどない という前提で怨恨が作られる これも歴史。
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- 田舎でありがちなこと9
972 :名無しの権兵衛さん[sage]:2011/07/30(土) 18:52:16.37 ID:sbC3sSH/ - それだけ見下したいのなら。。
日本人の誇り 国家の品格 の著者藤原正彦氏が進める 古き良き日本人社会各論の本の著者が書いた 別の著作を読みあさってごらん。 古き良き時代≒明治維新前後の日本人社会の様々な人の生き様が 活字びされているから。 その中に当然文盲の人のことも彼らの日常感覚まで出てくる。 そこを同じ時期のしっかりと教育を受けた人々の場合の記述と 比較するんだよ。学術的に。 当時の時代、生活環境の貧困きわまる人とそうでない人の認識感覚が 活字でもって残されている。ただ、その当時時代はどうであったのかを 十分に検証しておかないといけない。 あとは、その違い(十分bに教育を受けた人らとそうでない人ら)の時代を 今の平成に置き換えていけば良い。 あることを十分に知り足るまでの人と そうでない人の違いは昔も今もある。平成の日本において 文盲同然のレベルの人もいる、いわゆる認識感覚の違いが原因で。
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- 田舎でありがちなこと9
973 :名無しの権兵衛さん[sage]:2011/07/30(土) 19:02:07.28 ID:sbC3sSH/ - 明治維新以前とか当然全くもって読み書きが出来ない人もいた。
明治に入っても家庭の事情とかで皆目学校にいけない人らもいた。 それらを学者らは 彼らはどうやって世の中の様々なことを理解していったのか? を学術的に調べ活字にしている。元は、彼ら文盲の人らとかの 生活の知恵の取得方法について始まっていたものについての研究とか だけどね。
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