- 田舎の娯楽
284 :名無しの権兵衛さん[sage]:2011/06/02(木) 11:08:52.47 ID:5pW5FwmM - 子供はみんな遊びの達人である。
「遊びをせんとや生れけん 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声をきけば わが身さへこそゆるがるれ」 といふ古い今様があるが、子供の遊びの純粋さに対する大人の感動と郷愁がよく出てゐる。 大人の遊びは結局この子供の純粋な遊びをまねることであるが、子供の遊びも、チャンバラからお医者様ごつこまで、 結局すべて大人の真似事であるから、遊びといふ点では、大人と子供は別々にあそんでゐても、結局、お互ひの マネを演じてゐるにすぎない。大人の遊び場所から子供は完全に閉め出されてゐるが、その中で大人のやつて ゐることは、要するに子供に帰らうとする身振りである。賭け事も、ダンスも、性行為そのものも。 なぜ大人は酒を飲むのか。大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。子供なら、 何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。 三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
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285 :名無しの権兵衛さん[sage]:2011/06/02(木) 11:11:56.52 ID:5pW5FwmM - (中略)子供とちがつて、酔ふためには手続が要り、金がかかる。だから遊ぶためにアクセク働らかねばならず、
遊ぶために緊張過多にもなつてしまふ。これでは本末転倒といふものだ。折角レクリエーションと称して郊外へ 出かけても、混雑した電車や自動車ラッシュで、ヘトヘトになつてしまふ。 遊び人といふ人種がゐて、このごろの用語ではプレイ・ボーイといふ。私より二つ先輩の名高いプレイ・ボーイに、 この間久しぶりに銀座でパッタリ会つたが、あひかはらず上等な洋服を着て、一分の隙もない身なりで、きれいな 女の子を連れて歩いてゐた。(中略)この男は三百六十五日、ナイトクラブ通ひをしてゐる金持息子だが、よくも 飽きないものだと思つて、私はまづその体力に感心するのである。ヤキモチでいふのではないが、いくら女を とりかへたところで、よほど想像力と空想力が貧しくなければ、三百六十五日ナイトクラブ通ひなんかできるものではない。ナイトクラブ なんていふものは、映画の張りぼてのセットみたいなもので、ひたすら、高級めいたセクシーな雰囲気をかもし 出すために作られた造花にすぎない。 三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
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286 :名無しの権兵衛さん[sage]:2011/06/02(木) 11:15:00.52 ID:5pW5FwmM - そんな造花的雰囲気がどうしてもこの男にとつて必要な点では、しかし、三百六十五日、縄のれんの呑屋に通ふ
をぢさんと大差ないかもしれないのである。 誰でも固有の、遊びの条件といふものを持つてゐる。ある人は金をばらまかねば遊んだ気にならず、ある人は 人にタカらなければ有効に遊んだ気にならない。これは貧富の問題といふよりは、気質乃至趣味の問題で、 ハリウッドの大スターでも、決して人の煙草しかのまないといふ「がめつい奴」がゐるさうだ。 大体日本人は家へ人を招く習慣が少ないが、これは日本の家の貧しさばかりでなく、日本料理が作る手数の かかることと、人を招いたらムヤミと御馳走を並べなければならぬといふ旧習のなせるわざであらう。西洋人は 自宅へ人を招くのを最高の礼儀と考へてゐるが、日本では花柳界の料理屋へ招くのがもつとも手厚い接待だらう。 アメリカ人などは、大さわぎをして自宅へ招くが、ろくな御馳走を出しはしない。大ていお料理は一いろか二いろだ。 カクテルなどでは、よくまアこれでお客をするものだ、と思ふほど、ポテト・チップスと南京豆ぐらゐの肴で すまして、ケロリとしてゐる。 三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
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287 :名無しの権兵衛さん[sage]:2011/06/02(木) 11:17:48.57 ID:5pW5FwmM - しかし自宅へ西洋人を招くとわかるが、彼らが実にたのしみ上手遊び上手だといふことである。知らない同士も
たちまち十年の知己のやうになり、少しも人みしりをしないでたのしく話し、たちまちたのしげな雰囲気を 作つてしまふ。 それを見てゐると、いかにも遊び上手のやうにみえるが、彼らが本当に内心たのしいのかどうかわかつたものではない。 たえず知つた同士で呼びつ呼ばれつして、家庭的なたのしみをくりかへし、いつも夫婦同伴で、単調な交際の外へ出ず、 ポーカアをやるにも、ダンスをやるにも、顔ぶれが決つてゐるやりきれない小市民生活は、アメリカ映画で皆さんも よく御存知であらう。「ア・ロット・オヴ・ファン」(面白かった)とか、「エンジョイした」とか、しきりに言ふが、 どこまで口先のお世辞かわかつたものではない。アメリカ流のカクテル・パーティーのせはしない附合は、私には、 何だか浅い、中途半端な、悲しい遊びに思はれる。 三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
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288 :名無しの権兵衛さん[sage]:2011/06/02(木) 11:19:25.23 ID:5pW5FwmM - 遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、散歩でも、 現在自分のやつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。この点でも日本人はテンション族で、 遊びにまで緊張過多なのは前にも述べたとほりだ。 プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の 判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、 「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、 人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。 三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
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