- シャープの裏事情 Part169 [転載禁止]©2ch.net
856 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 14:40:32.62 ID:7D51+6at0 - 『おいこんなところで寝るな、死ぬぞ』
早朝、技術センターの床の上で朦朧としていた液晶プロジェクターの若い技術者は、体を乱暴に揺すられて意識を取り戻した。 冷えた空気、ぼやける視界の中で、彼は体を担ぎ上げられ、傍らの椅子に座らされた。 液晶プロジェクターの開発・生産が始まってから4年目に入っていた。 発案者は既に副事業部長になっていたが、精神論を振り回すタイプの人物だったためか、優秀な部下は集まらず、また育ちもしていなかった。 当時ビデオ事業は、技術者の異動を含めほぼ完全にSRECへ移管が完了しており、またテレビ事業は例の赤文字の件から安全規格の変更に対する対応で忙しく、技術者を派遣する余裕は無かった。 (本音の部分では、ブラウン管テレビをより安全な商品にする為、だったのだろうが) そんな中での開発設計業務は、まだ20代の若者には荷が勝ちすぎる業務であっただろう。 視界が徐々に正常なものになっていく。 彼を起こした人間は、他の倒れている技術者達を同じ様に乱暴に起こしてまわっていた。 長身にスラリと伸びた手足、豊かで艶やかな長い黒髪、大きく鮮やかな鳶色の瞳。 ワイシャツに品の良いネクタイ。タック入りの黒いスラックスを吊るサスペンダーは、常に重いブラウン管を扱うテレビの技術者の証か。 工場はもちろん、技術センター内でも死人が出る事は珍しくなかった。 若い技術者は、自分の体が異常に冷えている事に気づいた。 2月の朝、死ぬ時はこんな感じなのかと今更ながらに体を震わせ、起こしてくれた自分と同世代と思しき、鳶色の瞳の青年に感謝した。 だが、その若い技術者の見立ては間違いだった。 その日の部長朝礼時に、前に並んだ数人の技術者。テレビ事業部からの転入者達だった。 その中に鳶色の瞳が居たのだが、名札には係長を示すラインが入っており、自己紹介で述べた年齢は、彼より12歳上だったのだ。 鳶色は、テレビ事業部のいわゆるエースだった。 部長朝礼の後のグループ内朝礼で、副参事が言った。 事業本部内で、いつも数人は居ると言われる、その製品の設計に秀でた人物。多くの場合色々な業務に精通しているので、ひとり技術部やスーパーマンなどとも呼ばれる。 彼はその中の一人だと。
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857 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 14:41:25.39 ID:7D51+6at0 - ただ、鳶色はテレビの副事業部長が掴まえて離さないという話だったので、なんでこっち(液プロ)に来たのかは分からない。
かなりの戦力になって助かるのは間違いないから、気にする必要は無いんだが、とも。 若い技術者は、鳶色の異動に関してテレビ事業部の友人に聞いてみた。 結果、鳶色は、彼の恩師が液プロで困っているので手伝いに行きたい、と上層部にアピールしたのだとか。 若い技術者は、それはウソだと思った。 当時の液プロに回されてくる技術者といえば、他の事業部で持て余されたか、もしくは単に頭数稼ぎの新入社員がその殆どだったからだ。 そんな中に、歴史あるテレビ事業部出身の鳶色にとって、恩義ある人物は居る筈はないと。 若い技術者の疑念を他所に、鳶色は仕事に取り掛かった。 現状での問題点を洗い出し、強引とも思えるやり方で解決して行く。 特に問題とされていた、外注に頼っていた基板設計に対しては、内部で全て賄う方針を打ち出し、社内CADの導入、数人の若手への教育(当時困難と言われた多層板のそれも含んだ)、オートルータ(自動配線ソフト)の検討及び導入などを一気に行なった。 それで日程上のボトルネックが解消され、液晶プロジェクターの開発は半年足らずで劇的に効率的なものに化けた。 更に、隣の部門で開発検討をしていた液晶テレビの基板設計まで引き受けたのだ。 そもそも液晶テレビの開発はX68000の残党が主体で行なっており、テレビなど他の事業部との横のつながりは無かった。 その頃の液晶テレビは、可能性の低い夢だけの製品として、まさに鬼っ子扱いだったのだ。 その壁に横から風穴を開けた。まさに獅子奮迅。 更に鳶色は、自分でも基板設計を行なった。 基板とは、設計要件のまとまるタイミングから最も後に設計が始まり、生産の都合から最も早くラインへの投入が要求されるもの。 鳶色は、そこへ持ち前の設計能力をフルに投入し、日程はもちろん、性能やコスト・安全性に至るまでを充足させたものを設計していった。
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858 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 14:42:06.84 ID:7D51+6at0 - まるで少女マンガに出てくる男の子みたい。
庶務の女性たちの言だ。 男性モデルがショー会場でするような振る舞い、幼ささえ感じさせる甘い風貌、合間に見せる懐こい笑顔。 役者が舞台劇の稽古をしているようなその雰囲気は、相対する他の技術者たちは、自らも出演者の一人になったかのような錯覚を覚えさせたほどだった。 そんな鳶色の行動に刺激されたか、数人居た、実力はあるものの上司の拙い指導に腐っていた者たちが、業務に本気を出し始めた。 加えてグループ間の連絡も密になり、設計された液プロの完成度は、それ以前と比して圧倒的に向上した。 鳶色は基本的には無口な男だったが、担当者から副参事辺りまでにはそこそこ愛想が良かった。 しかし相手が部長以上となると、途端に無愛想になった。 まるで機械を見るような怜悧な目つきで、必要事項しか口にしない。 相対する部長以上は、表情にこそ出さないが心中ではかなりたじろいでいた。 何故こんな応対をするのか? 自分の配下になってまだ日が浅く、特に恨みを買う様な事も無かった筈なのに? だが傍目には、若い係長が素の振る舞いで上層部にプレッシャーをかける図となり、それは他の担当者達にとっては痛快そのものだった。 それ故、若い技術者は、その頃にはもう鳶色の思惑など気にしなくなっていた。 ただ、仕事が上手く回り始めたと。その好循環に身を浸していた。 鳶色が液プロ事業に異動してから1年が経った頃、液プロの事業部は、家庭用から、利益率をより高く取れるビジネス用へ、生産の主力をシフトする事に決めた。 より高度な設計力が要求されるその分野。それには鳶色の存在があった事は傍目にも明確だった。 そして米国を舞台に繰り広げられる、ビジネス用液プロの販売合戦。 より新しい仕様や性能を一番先に実現したものだけが、溢れる利益を得られた。 シャープの液プロは、素早い商品開発と的確な仕様設定によって、数多く居たコンテンダー達を蹴散らし、唯一のライバルであるソニーすら市場からの撤退へ追い込んで行った。
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859 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 14:42:51.80 ID:7D51+6at0 - 鳶色が来てから2年が経った頃のある日、天理から20インチの試作液晶パネルが、矢板の液晶テレビ開発部隊の元へ送られてきた。
(その時点で)世界最大を誇る、その威容。 漆黒の闇を水平に切り取ったかのような表示面と相まって、見る者に、これを光らせてみたいという欲求を強く起こさせるものだった。 それとタイミングを合わせるように、当時の社長から“液晶テレビ宣言”が出される。 2005年までにブラウン管テレビを無くすと言うそれに対し、矢板工場ではブラウン管テレビの技術部門を中心に猛反発が起きた。 それは当然だったろう。 例の赤文字の件で、技術陣はブラウン管テレビの安全性を高める事こそが、逝った者への最高の手向けとなると信じて疑わなかったのだから。 ブラウン管テレビそのものを止めてしまえば確実、と判断した経営陣との意向の違いは、実はこの時点で明らかになったのだ。 そこで、ブラウン管テレビの事業部は、液晶テレビ開発の遅さを理由に、宣言の撤回を求めようとした。 しかし、その時点で既に、液プロの儲けが其処へ注がれており、ヒト・モノ・カネの内、モノ(パネル)とカネは充分とは言えないまでも揃っていた。 あとはヒトだけ。ブラウン管テレビの技術陣は、逆に決断を迫られる事となった。 この件は、液プロにとっても明るい話題ではなかった。 天理は、液晶テレビ用のパネル開発に総力をあげる(=液プロ用のパネル開発を止める)事を意味しており、それはつまり、液プロは液晶テレビまでのツナギだと社長に宣告されたのと同義だったからだ。 パネルについては、ソニーから最新版を安く叩いて購入する事が決まっていたので、問題は無かった。 だが、液プロの発案者である事業部長は面白くなかった。 ここまで苦労して、やっと軌道に乗せた事業なのに! それに加えて、当時流行り始めていたインターネットの掲示板。そこで自身の事業部の技術者と思しき人間が、仕事場の愚痴や上層部批判を遠慮無しに書き込んでいた。 それを毎夜読んでいた事業部長は、朝礼の度に技術部員全員に向かって言い放った。 辞めたきゃ辞めてもいいんだぞ、どうした、今すぐ辞めろ! 今この場で手を上げろ! と。 それを見る技術部員たちは、全員無言で、事業部長の気が済むのを待つしかなかった。
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860 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 14:43:32.66 ID:7D51+6at0 - その毎週月曜日に行なわれる酷い朝礼は、約1年間続いたという。
世間では、バブル崩壊後に於いて尚最悪の景気状況だった。 りそなが倒れ、あしぎんも倒産が噂された。 それでも、液プロの設計と生産・販売だけは好調を極めた。 そして、その儲けの殆どは液晶テレビ開発の原資となるべく蓄積されていった。 ◆ それは、鳶色が液プロに来てから3年が経ったある日。 その日は月曜日で、例によって事業部長による退職勧告の朝礼が、技術部内で行なわれていた。 いつもに増して酷い内容。いや、内容など無かったかもしれない。徹頭徹尾、単に技術者たち(その頃は100名以上居た)に退職せよとヒステリックに叫ぶだけだったのだから。 いい加減声も枯れ始めた頃、事業部長は気が済んだか、お立ち台を降りようとした。 それを止める様に、集まりの後ろの方で手が上げられた。 そして掛かる声。 『分かりました、辞めます』 手と声の主は、あの鳶色だった――
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862 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 16:31:27.73 ID:7D51+6at0 - 信管センターの所長は、午後の仕事場の中で所員たちがマジメに働く姿を見ながら、今朝の、事務棟での本部長朝礼を思い出していた。
議題は普段と変わるものではなかったが、終わり際に本部長が零したボヤキが気になっていた。 それは、エースの一人が退職の意向を持っている事と、それの慰留に関する事だった。 よく聞く話だった。多くの場合は他社からの引き抜きが原因であり、それらは本部長の慰留で無事に納まる場合が殆どだった。 大した話ではない。気になったのは、それを自分に照らして考えたからだ。 あと数年で定年となる身。辞める時には誰に何と言うべきだろうか? 自分より明らかに年下(となるだろう)の本部長に向かって、長い間お世話になりました、というのも変な話だ。 かと言って、これからも頑張ってくれ、と言うのもおかしい。 自分も名札が銀色となり、重要な会議の末席に組み込まれる立場になってはいるものの、目上の本部長への言葉として適当ではないからだ。 では、誰にどう言えば? 益体も無い事だ。そんな事はもっと先に考えれば良いし、仮に良いセリフを思いつかなくとも、その際には社友会の老人たちにでも聞けば良い。 少なくとも、業務時間中に思い悩む事ではない。 頭を軽く振って、処理すべき書類に目を落とそうとした。 その時、庶務の女性が来客を伝えてきた。 それは本部長だった。一人でこの信管センターに来ていた。 驚き、立ち上がって本部長を迎える所長。 通常、本部長が信管センターに来る事はない。用があれば自分が事務棟へ赴いたからだ。 所長は、遠路(本当に矢板工場内は広いので)の来訪を労いつつ、その目的を尋ねた。 すると本部長は、勧められる椅子を丁寧に断りつつ、技術センター屋上へ通じるドアの鍵を借りたいと言った。 技術センターの屋上には、看板と、その内側に簡易な不要輻射測定サイトが在る。 その管理の都合から、屋上へ出るドアのものと共に、信管センターが鍵を管理していたのだ。 所長は、構いませんが、と言いながら担当者に鍵を持って来るよう指示した。 本部長は、釈然としない表情の所長に、エースの慰留の為だと小声で言った。
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863 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 16:31:57.09 ID:7D51+6at0 - 今朝の話か。
確かにあそこなら他人の耳の心配は無い。しかもこの矢板工場を一望出来る壮大なロケーションは、残留への説得に力を与えるのだろう。 だが、本部長にそこまでさせるほどの人物なのか、そのエースは。 所長は、微かに興味を持った。 担当者から笑顔で鍵を受け取った本部長は、成功すれば自分が返しに来る、と言ってその居室から出て行った。 風に気をつけて下さい、と声をかけて本部長を見送った所長は、またすぐに会う事になるだろうと、その時はそう思った。 しかし、現実は所長の興味を満たす方へ動いた。 概ね30分ほど経った頃。 居室の出入り口辺りでざわつく雰囲気。鍵の返却に来たとの声が微かに聞こえた。 おそらく本部長だろう。所長はそう思い、確認中だった書類から目を上げた瞬間―― 鳥肌が立った。いや、戦慄が走った。 長身にスラリと伸びた手足、豊かで艶やかな長い黒髪、大きく鮮やかな鳶色の瞳。 そして全身に纏った、えもいわれぬ不思議な空気。 それは敢えて一言で言うなら、擬人化された工場か。 この巨大な矢板工場が持つ存在感、それが凝縮され固体となって、ヒトの形を持ったような。それが自分の目の前に立っているのだ。 それが故か、周囲の人員はまるで舞台の書き割りの様に存在感を失っていた。 『長い間、お世話になりました』 そう言って、軽い会釈の後に鍵を机の上に置く、鳶色の瞳の青年。 この男が件のエースなのか。 鍵を持って来たという事は、即ち、本部長の慰留は失敗したのだろう。 そして、所長がつい先程まで悩んでいた最後の言葉を、何の躊躇も無く発していた。 それについて、所長は何故か違和感を持った。 『……少し、無責任なのではないか?』
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864 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 16:32:27.73 ID:7D51+6at0 - 少しどころではない威圧感に晒されながらも、所長は思った事を口にした。
信管センターの所長に就任してからこの数年、事務棟との往復ばかりで、技術者たちとは会わない日々が続いていた。 しかし、この男は確かに見覚えがある。だからそれは、多分ずっと昔の事。 そしてこの若々しさ。違和感の正体はきっとそこなのだろう。だが。 『約束は、まもなく果たされる事になるでしょう。ですから』 男は、所長とはっきりと目を合わせて、そう言った。 こう言えば分かる筈、という意思の様なものが込められていた。 そして、ここまでの無駄の無い所作。それは倉庫の中で荷物を扱う機械の正確さを髣髴させるもので。 それで、所長はやっと思い出した。 この男は、旧技術センターで探し物を手伝わせた、あのビデオの若い技術者だと! 約束、と男は言った。 それはあの時の、見てはならない覚書の事か。 その中に書かれていた事を意味しているのか。 『キミは、あの時アレを見たのか……』 それは質問であり同時に確認であった。 男は、一度長めに瞳を閉じたあと、また再びその大きな目を開き、所長と視線を合わせた。 答え難い問い掛けに対する肯定の印ならば、それは。 あの覚え書きの中身を知る者の間でしか通用しない符丁だったのだろう。 約束、と、果たされる、という言葉の意味が。 この矢板工場の存在意義に関わるレベルで、終わりが来ると。 そこまで理解したと所長の瞳の色を見て取ったか、男は綺麗に一礼して踵を返した。 それを見て焦燥感に襲われる所長。 本部長は、慰留に成功すれば自分が鍵を持ってくる、と言った。 それはつまり、失敗すればエースが持ってくるから、その時は慰留を頼むぞという意味だったのだろう。 このまま、この男を行かせてはならない!
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865 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 16:33:02.91 ID:7D51+6at0 - 『音響事業部の通い箱は、音響事業部で使われるべきじゃないか?』
咄嗟に出た言葉。 説得力の有無に関し、考える時間も無いままに。 ただ、あの時に交わした会話の続きをする様に。間を持たせる為に。 男は、一歩踏み出したところで立ち止まり、首を巡らせ左目だけで所長を見た。 そして、苦々しそうにこう言った。 『……貴方は、本当に酷い人だ』 そして男は、今度こそ居室から出て行った。 所長は、遂に最後まで椅子から立ち上がる事は出来なかった。 時に、1999年・春の事であった。 ◆ その後、男は八本松のオーディオ事業部へ転勤となり、シャープに籍を残した。 液プロの事業部長は、その男を止められなかったという理由で更迭された。 (矢板の本部として持て余していた事業部長だったので、都合の良い理由だったが) そして、液プロ事業の残したカネと、男(鳶色)が残した技術部内の業務システムが、2年後に液晶テレビの量産と言う形で花開くのである。 更にその数年後、定年を迎えた信管の所長は、間際で仕事に追われていた。 亀山工場稼動に伴なう再編で、八本松のオーディオの設計部隊を矢板に迎え入れる準備だった。 その忙しさの中で、所長は、あの男の事を思った。 彼があの時言った、約束は果たされる、という言葉。 亀山という一貫生産の工場に主力が異動した現在、それは正に予言ではなかったかと。
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866 :株屋@矢板工場異聞[sage]:2015/05/22(金) 16:34:34.47 ID:7D51+6at0 - 八本松からは、オーディオ技術部のほぼ全員が矢板に来ると知らされていた。
あの男に会ったら、一度一緒に飲んでみよう。 そして、この矢板工場の成り立ちと成り行きに関し、語り合ってみようと。 本部長以外であの覚え書きを見た、唯一の仲間として。 程無くして、オーディオの設計部隊が矢板にやって来た。 しかしその中に、あの男の姿は無かったのである。 ◆ その後に行なわれた、所長自身の送別会。 もう自分がこの工場で働くことは無い。 その時の社長は、矢板では副本部長どまりだった。営業上がりの彼が亀山に一貫生産の工場を建てたのは、それが故だったのかもしれない。 きっと、あの男にはここまで見通せていたのだろう。 ああ、だから“酷い人だ”と言ったのか。 まさか自分に、昔出て行った事業部を矢板に呼び戻させようとするとは、と。 会える機会があれば、謝らなければならないな。 だが、そう思った所長の気持ちは、叶えられる事は無かったのである。 その時点で、永遠に不可能となっていたのだから―― 【矢板工場異聞】完 >>176 >>309 >>345-346 >>386 >>436 >>462 >>479 >>484 >>856-860 >>862-866
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