- クラシック板・教養学部ドイツ科
532 :名無しの笛の踊り[sage]:2013/10/16(水) 01:09:23.65 ID:+hEp+p/l - >>531
カール・ベームなのか福田康夫なのか、はっきりしなさいよ!
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533 :名無しの笛の踊り[sage]:2013/10/16(水) 01:10:30.08 ID:+hEp+p/l - 市民社会、教養。
平和と秩序を愛し、おのが生活圏で自由と責任を持って社会に貢献していく・・・、それは理想だな。 ドイツも今では大衆社会であろうが、市民社会の遺産は残っている。 ともに手を合わせて社会を築きあげて行くことは素晴らしいことだ。 しかし、何かに違和感を感じる。 それをずっと考えている。 教養としての保守思想とやらがあるのならば、誰か教えてくれ! ヴォツェック(ヴォイツェック)じゃないが、社会から見放された人、 お前は社会には必要ではないという宣告(自己認識)を受けた人間はどうすればいい? 全ての人間は不必要。 社会も不必要。 神も不必要。 。。。
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534 :名無しの笛の踊り[sage]:2013/10/16(水) 01:11:22.89 ID:+hEp+p/l - 街には今日も善意があふれている。
けれども総体として、この国には善意が欠けている。 自分だけ、自分の子供だけが良ければいいと思っている人間の塊に思える。 その人間たちの代表が、今日も我欲だ、責任だ、道徳だ、品格だと繰り返している。 戦後民主主義を否定することに、もはや何の反論も持たないよ、我々は。 シェーンベルクは晩年の弦楽三重奏曲に、生きることの痛みを刻んだ。 人間はそうまでして、生きなければならないのか? 是。 生きようとする意志、それは突き詰めれば「倫理」にほかならない。 生きようとする意志を失った人間に、倫理は・・・ない。 ※ 「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。」(「聖家族」) ではじまる堀辰雄の青春は、次の言葉で幕を閉じる。 「叔母さん、そんなに僕が生きていればいいと思いますの?」・・・(「恢復期」)
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