- クラシック板・教養学部ドイツ科
369 :名無しの笛の踊り[sage]:2013/08/31(土) 20:33:36.35 ID:5nf3s5b2 - >>366
いろいろ教えてくれてありがとう。 >>350では何を書こうとしたんだっけな? 文学作品における言語そのものへの探求度の深さについて、それとアイデンティティとの関連について、 何か思うところがあったのだろう。 そもそもの発端、赤坂真理の「東京プリズン」から少し引用してみよう。 「一人の語り部が、一人の言葉を継ぐとは限らない。一度に一人分しか言えない、というだけだ。 語り部とは器なのだ。無限の、器なのだ。私は主体ではない。私は客体でもない。私は、通訳だ。 全ての個体は通訳なのだ」 「神が宇宙を創造したのではなく、神が自分を表現したのが宇宙である。 だから神でないものなどこの宇宙には存在しない。あなたも神なのだ、わが子よ」 「人は役割を演じているか否かによらず、すでに世界に遍在する言葉を媒介できるにすぎないのではないだろうか。 そして<私>の本体とは、行為する私ではなくそれを見る透明な意識の方なのでは」 そして最後、主人公は天皇を再定義する。 「神にあらず、人にあらず、神の御言葉を取り継ぐ者だったもの。同時に幾多もいたであろう人。普通の人。 したがってすべてが神であり人であり神の御言葉を取り継ぐ者なのだと、古い日本人は知っていたのではないでしょうか。 肉にして霊、霊にして肉、それが自分であり、のみならず、万物であるという」
|
- クラシック板・教養学部ドイツ科
370 :名無しの笛の踊り[sage]:2013/08/31(土) 20:34:31.48 ID:5nf3s5b2 - さて、>>350でも触れたように俺は西洋近代主義、もっと言えば19世紀のロマン主義的芸術観に毒されているのかもしれない。
それは自覚しているが、ドイツ文学に触れる中で得たより親しみのある芸術観は次の様なものだ。 「言語という無尽蔵の大海の中に手を突っ込んで、そこから民族と世界の本質をつかみ出し、詩として形象化する」 という「民族の預言者としてのDichter」という芸術観だ。 作家の個性や独創性ということにとどまらず、民族の精神史を表現することこそが、その作家の最大の個性であるという。 まさに、すでに>>345が書いていた通りのことだw ゲーテ、シラー、F・シュレーゲル、ヘルダーリン、トーマス・マンetc. 彼らはみなドイツの精神史を表した詩人にとどまらず、世界文学であるが。 こうしてみると“Dichter”という芸術観は、一言で西洋近代主義と言ってしまうにはより深いものだが、 「天才」というか、「使命を帯びた選ばれた者」というところと結びつく。 とはいっても言語の総体、文化の総体から見れば一つの「媒体」であるから、 赤坂真理のように表現しても間違いではない。 もちろん“Dichter”という芸術観と赤坂真理の共通点と相違点は精査しなければいけないが、 2ちゃんねる上での「連想」ならば、特に問題はないだろうという程度の気持ちで書いた。 そうした一連の思考とも呼べない思考のなかで歌舞伎が思い浮かんだ。
|
- クラシック板・教養学部ドイツ科
371 :名無しの笛の踊り[sage]:2013/08/31(土) 20:36:27.12 ID:5nf3s5b2 - 正直あなたの様な博識な人が現れると分かっていたら、軽々しく歌舞伎に触れるんじゃなかったよww
俺も鈴木淳史のように 「歌舞伎や文楽がある時代で成長・発展を止め、伝統芸能として生き残りを図った」 と思っていた。 というより、成長・発展を止めた根本的な要因の一つとして、 「教える(教わる)ことの出来る文化」ということがあると単純に思っていた。 これと関連するが、バロック音楽が、古臭い、未熟な、時代遅れのものとされ 忘れ去られていた時代があったことについて、もう一度自分なりに考えてみようと思う。 「身体で繋いでいく文化」というものの存在について考えてみようと思う。 >>350で百田尚樹について触れたが、戦争の体験というものも、記録として残すだけではなく、 語り継ぐということに意味があるのかもなぁと、ふと感じた。 もちろん作品という形でも、たとえば原民喜は物凄いものを残してくれたけれども・・・ >>368 おお、いいことを聞いてくれたな? ドイツ文学やバッハやブラームスについて語ることだけが、 ドイツについて学んで来た者が、ドイツについて語る場で語ることではないのだよ。 直接ドイツを話題にしていなくたって、ドイツについて語っている。全ては繋がっている。 それが教養。
|