- ソーシャル・ネットワーク the social network Part4
13 :名無シネマ@上映中[sage]:2011/01/27(木) 22:14:27 ID:jv3cdoEt - はじめに
遣唐使とは、630年から838年まで古代日本から唐へ送られた使節のことです。遣唐使に関しては古代の日本が唐の進んだ 文化を受け入れて国家体制を整え古代文化の繁栄を築いたことや、遣唐使が唐へ行く途中に海難事故にあい多くの命が失わ れたことなどが知られている。ただ遣唐使について日本は外交上の名分を争う種とならないように遣唐使に国書を持たせなかっ た等の間違った考えも一般化していた。著者はそういう事に問題意識を持っていて、現在明らかになった重要な事実をもとに日 本と唐の間にどんな交流があったかや、どんな船で海を渡ったのか、旅程とコース、遣唐使のメンバー、往来した品々など遣唐 使の実態について根拠になる史料や主な参照文献を使って様々な検証を行っている。
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14 :名無シネマ@上映中[sage]:2011/01/27(木) 22:16:32 ID:jv3cdoEt - 旅程とコース
遣唐使の旅程は三つに分かれる第一は都から難波にでて北九州まで、第二は北九州を出発して大陸まで第三は大陸内の旅行です。 また旅行のコースにも各時期によって変化があった。第一期は北路といって朝鮮半島を経由して黄海を横断、山東半島に上陸して洛陽、 長安に向かう北回りのコース。北回りのコースでは船や使節の編成は比較的小さく653年の遣唐使は2船各々120名ほどだった。第二期 は南路といって北九州の五島列島から直接東シナ海を横断して北は江蘇省から、南は福建省に至る沿岸に到着し揚州などの近くの大都 市に一度集まってから洛陽、長安を目指すコース。第二期になると一回につき4〜500人あまりの編成で、船は4隻という形が定着する。 渡海に使われた船は2本マストの帆船であり、船体は部材を組み立てた構造船で、船底は尖り、竹を細く裂いて編んだ網代帆を備えていた。 大きさは長さ30メートル、幅9メートル弱、喫水2.6メートル、排水量270トン、積載量150トンぐらいと推定されている。
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15 :名無シネマ@上映中[sage]:2011/01/27(木) 22:17:38 ID:jv3cdoEt - 遣唐使のメンバー
遣唐使の構成は大別すると使節、船員、随員、留学者の4つになる。使節は、大使以下、録事に至る四等官と、その下の史生(書記官)・ 従者であって、遣唐使の本体である。唐に対して日本を代表する立場だから大使や副使にはそれにふさわしい人物が選ばれた。第一期で は犬上、高向など渡来系の氏族が外交や留学との深いつながりを評価されて選ばれていたが、第二期では中臣、藤原などヤマト朝廷以来 の名族から選ばれた。次に遣唐使の中で比重が大きいのが船員である。知乗船事、船師、?師、挾杪、水手長、水手といった役割があり、こ れはそれぞれ船長、機関長、操舵手長、操舵手、水夫長、水夫のことだ。随員は中国語、新羅語、奄美語などをしゃべって使節の言葉を訳す 通訳や、薬の管理や調合を行う医師、絵筆を取って記録に留める画師、船が襲われた場合の備えとして射手など各々何らかの技能を持って 遣唐使の使命を助ける仕事だ。最後は技術を学びにいく留学者である。技術者の種類としては、ガラスや釉薬について学ぶ玉生、錬金技術を 学ぶ鍛生。鋳金技術を学ぶ鋳生、木竹工を学ぶ細工生がある。留学生は技術を学び終えると遣唐使船で帰国し、日本が唐の文化を受け入れる 具体的な場面で、重要な役割を果たした。
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16 :名無シネマ@上映中[sage]:2011/01/27(木) 22:19:51 ID:jv3cdoEt - 往来した品々
日本から唐へ輸出した朝貢品は大きく三つのグループに分けることができる。一つ目は?・真綿などの絹製品、 麻布。二つ目は銀、鉱物製品。三つ目は油・樹脂・植物性甘味料。一つ目は、ほとんど全て当時の税として課され た品々である。二つ目のうち銀は、一般的な税物ではないが、やはり朝廷が対馬から調として貢納させた品々だ、 鉱物製品というのは、出火水晶、瑪瑙、出火鉄である。三つ目は、具体的には海石榴油、金漆、甘葛汁、木綿であ る。これらも調として貢納された品々で日本の輸出品の中心部分は、調・庸 や交易雑物といった貢納制度で徴収さ れる品そのものであり何ら特別な製品を含んでいないことがわかる。次に唐から日本に輸入された主なものを概括す る。一つ目は漢籍と呼ばれる中国の思想・制度・歴史・文学に関する書物と仏教経典。二つ目は仏像などを含む美術 工芸品。三つ目は薬物・香料と動植物である。一つ目の漢籍と仏典の輸入は極めて大規模だった。9世紀末に日本で 編まれた日本国見在書目録によると輸入された漢籍の種類は千六百近く、巻数は一万七千巻になる。仏教経典に関 しては詳しい数はわからないが七世紀半ばには少なくとも二千巻あったとみられ、唐の文物が大量に日本に入ってきたことがわかる。
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17 :名無シネマ@上映中[sage]:2011/01/27(木) 22:20:42 ID:jv3cdoEt - 著者の結論
日本は七世紀末からの200年余り大勢の外交使節や留学者といった人々を遣唐使として多くの遭難にあいながらも長安・洛陽に派遣した。 遣唐使は唐で様々な技術を研修したり、唐の優れた思想・制度・歴史・文学を学びそして大量の文物を日本に持ち帰ってきた。この時に入っ た外来の文化要素は、今日まで続く日本文化の基礎を形成した。 感想 遣唐使がどういうコースをたどって中国に向かったのかや、遣唐使のメンバーにはどういった人達が選ばれたのか、そしてどういった品々 が往来したのかなど遣唐使のことについてとても良く学べました。
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