- 【松山ケンイチ】 ノルウェイの森19 【菊池凛子】
39 :名無シネマ@上映中[]:2011/01/26(水) 03:38:37 ID:NZ1YT9ot - 基本的に映画としての完成度は高いと思う。
村上春樹の文体を映像化するのは難しい。 そのなかではよくできていた方だ。 ただ直子が自殺した後、ワタナベの孤独を表現するために孤島を出した件は いけてなかった。原作には『ノルウェイの森』の古い井戸の話が 出ているんだからそれをそのまま映像化すればよかったと思う。 古い井戸に落ちれば誰にも発見されない。その井戸はとても深く暗い。 映像も真っ黒にして台詞だけをながすなりすればよかったのでは?と思った。 それに孤独を表現する孤島の時間がやたらと長い。 その時間を上記の井戸の暗闇で表現して台詞だけ流して時間を短くして、 もっと大学生活の光の部分を映像化すべきだったと思う。 突撃隊との件や寮生活の楽しい部分の映像化を増やすことで 「生きる」ことの難しさや苦悩だけでなく、楽しさや喜びの部分にも もっと触れて欲しかった。原作にはその部分もあったんだから。 それと緑との楽しい会話(緑との会話も生きるなかでの光の部分)も もっと増やして欲しかった。唯一おもしろかったのは マスターベーションの件ぐらい。原作にはもっと豊富にあった。 高校から大学時代は人生で最も純粋で透明度の高い時間であるはず。 友人のキズキは美しいままで死んだ。その美しい時間の映像化が なされていないのが残念だった。
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- 【松山ケンイチ】 ノルウェイの森19 【菊池凛子】
40 :名無シネマ@上映中[]:2011/01/26(水) 03:57:12 ID:NZ1YT9ot - 結局自我の壁を突破できるかどうか。
他者と自分との関係性を保てるかどうか? 親友のキズキは「私」を殺した。 そうすることでしか生きていけなかった。 直子は他者であるキズキの死をどのように受け入れるかが最大の問題だった。 自殺することでキズキは僕(ワタナベ)や直子にとって全っき他者(神)となった。 ワタナベや直子には回収できない存在。そしてそれは神無き後に残る ニヒリズムを意味する。 そのニヒリズムの前に苦悩し自殺を選択する直子。 また直子がSEXをしたのはワタナベとの一度だけ。 SEXは忘我であり、「私」を突破(エクスタシー)する。 結局直子はそれ以上他者との関係を保つことができずに 「私」を殺すことでその壁を破らざるを得なかった… 神(絶対的な価値)無き後に残る世界(ニヒリズム)で どのように生きていくのか?
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- 【松山ケンイチ】 ノルウェイの森19 【菊池凛子】
44 :名無シネマ@上映中[]:2011/01/26(水) 15:35:25 ID:NZ1YT9ot - >>43
そうでもないと思う。 人(他者)との関係性を考えることは企業人や一般人であれ官僚や芸術家であれ 避けることができない問題。人と人とを繋げるのが「愛」であったり、 「経済」であったりその「力」自体は人それぞれだろう。 それが『ノルウェイの森』の中でも表現されている。 ワタナベ、キズキ、直子、緑、永沢、初音… それぞれがそれぞれの欲望(未来図)を基に他者との関係性に 苦闘しながら「生きている」。 『ノルウェイの森』は誰が正しい生き方かを問うているのではなく、 「必死に生きている」その姿を描写しているのではないだろうか? そう考えると本来は誰でも共感できる。 日本だけでなく世界的に賞賛されている事実から考えても あながち間違っていないと思う。 もしあなたの意見があり得るとすれば 企業人や一般人と読書の関係、もしくは文学との関係にあると思う。 たとえばサルトルがアフリカの難民を前に文学について講釈たれた問題とか。
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- 【松山ケンイチ】 ノルウェイの森19 【菊池凛子】
45 :名無シネマ@上映中[]:2011/01/26(水) 15:59:27 ID:NZ1YT9ot - >>41
確かに映画の場合、直子の描き方が悲惨だった。 原作では直子も輝いていた。 自殺によるキズキの不在といった事実を抱えながらも 必死で生きようとする直子の姿はけなげで美しい。 ワタナベとの会話でも暗さだけが目立った。 原作ではもっと明るい会話もあったはずだ。 世界を明るくする突撃隊の話がなかったのも残念。 結局映画では 直子=闇 緑=光 と単純化されていたように感じた。 しかし原作では直子にも光の部分があり緑にも闇の部分が あったわけだし。直子にもっと光を! つーか直子役はもう少し考えて欲しかった。 ハリウッドスターの「菊地凛子」を起用することで 箔をつけたかったのかな?
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