- 【曹操覇業の功臣】荀ケについて語る
695 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 00:07:45.34 ID:qyjBn6mr0 - >>694
袁紹・張バク。 エン州で自立するまでは荀ケの比じゃないほど役に立った。 なにしろこの人脈が無ければ曹操は群雄にすらなれてない。 >>693 逆だろう。曹操には地元名士層と妥協する選択肢もあったが、 辺譲を殺し張バクの乱を排して中央集権の道を取った。 求賢令は漢王朝旧来の察挙制度を無視して人事を牛耳る宣言。 屯田・兵戸は曹操が支配する軍部に兵糧と兵員の管理権を与える政策。 さらに、冀州牧・魏公王の階梯を昇り、華北最大の大州を君主権の元に所有した。 これを元手に曹操は四方を征伐し、 遺産を合法的に受け継いだ曹丕の一年以内の禅譲を可能にした。
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698 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 12:00:23.22 ID:qyjBn6mr0 - 少なくともエン州の乱の原因は徐州虐殺ではない。
漢朝廷の反曹操派とか、蜀呉の反魏論で虐殺に触れたものは無い。 唯一、袁紹の檄文がエン州の乱の原因は辺譲を殺したためと言っている。
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699 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 12:04:52.43 ID:qyjBn6mr0 - また、曹操は後漢朝廷と自分の丞相府に盛んに名士を招聘している。
特に丞相府掾属の名士は魏国建国の礎となった。 名士を厚遇し彼らの社会的地位を利用することに三国で最も熱心だったのが曹魏。 自分に忠誠である限りは、という条件が付くけど。
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702 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 12:56:05.12 ID:qyjBn6mr0 - 涼茂 国淵 王脩 ヘイ原 崔エン 徐奕 何キ ケイギョウ
鮑 華キン 王朗 董昭 劉曄 蒋済 劉放 孫資 劉馥 司馬朗 梁習 賈逵 鄭渾 王粲 衞覬 劉ヨク 桓階 陳矯 徐宣 和洽 韓キ 高柔 辛ピ 楊阜 牽招 徐バク 胡質 王リョウ 多すぎて拾いきれないので、 曹操が自分の公府に招いて掾属とした列伝クラスの人物だけ挙げてみた。
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705 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 15:35:46.08 ID:qyjBn6mr0 - エン州においては、その「地元名士サロン」からの支持を失ったのは
「辺譲を殺したから」と、曹操側の能動的な選択の結果とされている。 その後の曹操が地元名士を尊重した例としては、 「太祖は劉曄、蒋済、胡質等五人を徴した,皆揚州名士」 と、淮南に赴いた際に揚州に名声を博していた人物を取り立てたことが劉曄伝注に記されている。 冀州・荊州を制圧する度に大量に地元人を吸収したり、中原から避難していた人材を呼び戻したり しているのも同種のことだろう。
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708 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 16:11:46.35 ID:qyjBn6mr0 - >>706
建安当時書かれた袁紹の檄文の方が信憑性は高いんでないかね。 それでなくとも、曹操の当時の「悪行」の弾劾の数々に徐州の件が入っていないのは事実。
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710 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 16:42:04.80 ID:qyjBn6mr0 - >>707
それには二つの理由がある。 一つは、漢代からの儒学的政治論 「近戚内を主り、異姓外に距ぐ。故に姦軌は萌動するを得ず、而して破滅す」。 親族や、それに準じる個人的に信頼する者、旧臣などに宮中軍権や親政の補佐をさせて、 皇帝を守る藩屏とすべしというもの。 漢帝は殆どがこの規則を守り、漢の文帝のように、王時代からの臣を周囲に配した者もおり、 昌邑王のようにやりすぎて霍光ら旧来の漢臣との破局に至る者もいた。 漢での外戚の隆盛の理由がこれ。 魏では外戚に政治権力を持たせなかった代わりに、曹夏侯の親族をこれに充てた。 曹丕時代に中軍の総督を曹真・司馬懿・陳羣が担ったり、 曹芳を補佐する人材選びで曹宇と曹爽が軸になったのはこういう思想による。 二つめは曹魏政権の特殊事情。 曹操は軍事力によって覇権を築き、根幹となった軍部の掌握は曹夏侯氏によって行われていた。 曹操時代から魏王朝初期まで、諸軍を率いる都督となったのは殆どが曹夏侯氏。 しかし、曹魏が文字通り「軍閥集団」から官僚機構の整備された王朝へと移行するに従い、 夏侯尚の世代を最後に軍部の親族支配は解消され、一般の臣下の都督制に完全に移行する。 まあ、親近者や建国の功臣の優遇という点では両漢の方がずっと上だよ。
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711 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 16:46:00.71 ID:qyjBn6mr0 - >>709
曹操の中央集権策という視点で、反抗的な名士殺害と屯田策は一つの流れに繋がるんだよ? 徐州虐殺から名士の失望を買い、政策転換の末の屯田、という見方とは180度意味が違う。 なんで結論が変わらないのか理解に苦しむ。
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713 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 16:54:00.62 ID:qyjBn6mr0 - 民屯ってのは、始めてしまえば理に叶っているが、
実際には歴史上まだ誰も行ったことの無い政策だよ。 構想して実行に移すのが遅かったからどうだっていうんだい?
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715 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 17:03:18.62 ID:qyjBn6mr0 - あ、ちょっと違うな。屯田ってのは全国に典農官を置いて田地を管理させる国策だから。
曹操が司空になって以降でないと布告のしようがない。
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716 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/12/04(日) 17:06:32.85 ID:qyjBn6mr0 - >>714
流民を吸収して自分の田地を耕させるのなんて、 当時そこらの木っ端軍閥、豪族だってやっていたことだよ。 青州黄巾ってのは、女子供の家族を抱えた武装流民ってのが実態。 これを吸収した曹操だけが、他の軍閥と同じように家と田地を与えずに ただ飯ぐらいさせていたなんてどうして思うわけ?
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