- 錦馬超を語るスレ 8代目
407 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/24(月) 11:42:08.35 ID:/RXWo3Hg0 - キ城に篭る親曹操派の頼みは討伐軍だったわけで曹操勢力が入ってなければ少なくとも内紛はなかった。
その後の善政はわずかな期間で謀略により本拠を失って流浪してるから分からんが、 勢力を引き継いでからの統治能力というのならそれほど悪くない。 ドウ関大敗後、父を誅殺されれも尚韓遂以上の速さで立ち直る求心力や、 危機に陥っても必ず潜伏先で守られるのだから、 人望の無い人間なら最前線で単独で戦い続けることは出来んよ。
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- 錦馬超を語るスレ 8代目
408 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/24(月) 12:17:13.90 ID:/RXWo3Hg0 - 単独というのは言い過ぎたかな、一応張魯の支援もあったわけだから。
苛酷な状況で命を失わず戦い続けたのはそれなりにすごいこと。 豪傑張飛でも遠征準備中、前線から遠く離れ交戦前の安泰の中で 部下の心を失って殺されて呉への土産にされたのだからね。
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- 錦馬超を語るスレ 8代目
410 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/10/24(月) 23:47:45.00 ID:/RXWo3Hg0 - 悪政を敷いていたならば韓遂以上の求心力は得られないと思うが・・。
敗戦し連合は瓦解し父も誅殺された状況で再度涼州で台頭できたのは馬超自身の力があってこそだろう。 韓遂も遅れて立ち直りはしたが馬超のように涼州をひっくりかえしたわけではないしな。 先見性においては疑いはしていたのでその事柄で否定されるものではないな。 曹操に靡かなかったという点では見る人によればあるのかもしれないが、 靡かない馬超が韓遂を説得し結成した10万の連合といえば赤壁の孫 劉連合より大きな規模であるから、 相手がさらに大軍といえど勝算が無いわけでもなく、 靡いていれば果たしてそれだけの事が出来たのかといえばまた疑問。 妻を信じ謀略にかけられたのは判断力によるものだろう。 生かした楊阜は馬超の力を認めており、馬超もまた疑いつつも戦力として楊阜 趙昂らを欲した。 その後の楊阜 趙昂を見るに人物眼は確かだわな。
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