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名無しさん@お腹いっぱい。
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26 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:02:47.26 ID:Edh722bs
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永眠の際に は、ロシ
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296 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:03:07.11 ID:Edh722bs
ア正教会渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と
目されるキリル府主教(肩書当時)が弔問に訪れてもいる。駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられたロシア正教会の聖堂である、アレク
サンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に成聖するためにキリル府主教がイタリアを訪れた際には、ローマ教皇ベネディクト16世
とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名にお
いて祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた。また歴史的に、ロシア正教会は一貫
して反西方教会一色であった訳ではない。神学上・教会法上の一定の親和性があったこと、ロシアのロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴ
ァー朝が親戚関係にあったこと、ウクライナにおけるローマカトリック教会との深刻な管轄対立に類するような問題がないこと等から、聖公会
との関係深化の話し合いはロシア革命までは継続されていた。ただし2010年現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくな
っている。日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭(のち大主教)ニコライである。正教会は、三国干渉、日露戦争などにより日本におけ
る対露感情が悪化していく悪条件の中、一時期はカトリック教会に次ぐ教勢を獲得するに至った。しかしながらニコライ死後、ロシア革命の勃
発により、宗教弾圧を行う共産主義政権の下で監視下にあるモスクワ総主教庁の指導下にあり続ける事への不安や疑義から、日本の正教会内に
おいてもロシア正教会と距離を置くべきとする議論が高まった。この流れの中で、戦前には日本正教会は在外ロシア正教会で主教が叙聖される
などしてこれと関係をもち(ニコライ小野帰一)、戦後はGHQの圧力もあってアメリカ正教会の身である北米メトロポリアの指導下に入った。
1970年になり、北米メトロポリアがモスクワ総主教庁との関係を回復して独立正教会になるに際し、日本ハリストス正教会もモスクワ総主教庁
との関係を回復して自治教会となった。首座主教である全日本の府主教の認可はモスクワ総主教によって行われる一方、財政と信仰生活は完全
にロシア正教会から独立しており、教会運営においてほぼ完全な自治を行っている。ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、ロシア正
教会駐日ポドヴォリエ(国家における大使館的な役割を果たす、正教会における組織の種別)がある。元来は、原始キリスト教の五大総主教座
(ローマ、コンスタンディヌポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、きわめて古い伝統をもつ。かつては東ロ
ーマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシ
ャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東
ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂
(現・アヤソフィア博物館)に置かれていた。東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布し
ているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンディヌーポリ総主教が
皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対
的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンディヌーポリ総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。詳細は「皇帝教皇
主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、
ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の
大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリ
シャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンディヌーポリ総
主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[5][6]という称号を持ち、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。
敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛するこ
とに成功したが、北フィ ンラン
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31 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:04:08.10 ID:Edh722bs
ドはスウェーデン領となった。16世紀末には、 トリフォンが建てたペツァモの修道院がフィンランド人兵士によ
り1590年に完全に破壊され、修道士も全員が殺害された。フィンランドの大半がカトリック教会を奉じるスウェーデンに編入されたのに対し、
カレリア地方のみはノヴゴロド共和国に最終的に編入されることとなり(1323年)、正教圏に入ることとなった。ただし教会の実態はノヴゴロ
ド大主教からは半ば独立していた。1400年までに、カレリアには7教区が設置され、それぞれの教区にいくつかの教会・聖堂が所属していた。
カレリア地方における正教の発展・展開は非常に緩やかなものであったが、16世紀にはノヴゴロド大主教マカリイにより、異教的要素から正教
を純化しようとする精神的刷新が図られた。マカリイ大主教は1534年にロシア人修道士イリヤをカレリアに送り、異教のカルト的習慣を根絶
することを命じた。イリヤは組織運営の能力と説教において有能な修道士であり、異教の習慣はカレリアから消えるに至った。1617年、カレリ
アの大半の領域がルター派を国教とするスウェーデンに領有された。このことによる狂信的な空気の醸成により、カレリアにおける宗教的闘争
が、ルター派から正教会に対して始められることとなった。3分の2の正教徒がロシアに逃れ、少数はルター派に改宗したが、困難な情勢下に
あって残りの正教徒は自分達の信仰を守った。1721年にカレリアの大半がロシア帝国に領有され、1809年には全フィンランドがロシア帝国領と
なったことにより、18世紀・19世紀を通じてカレリアの正教会も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会のもとに入った。19
世紀末に入ると、ナショナリズムがカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義に対応するものであり、カレリア人・フィンラ
ンド人は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショ
ナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語に代えてフィンランド語を奉神礼の言語として採用し、奉神礼における祈祷
書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年にはフィンランド教区が設
立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。1917
年にロシア革命によりフィンランドが独立すると、フィンランド教会は自治教会としての地位を宣言した。フィンランド正教会におきていたナ
ショナリズム的な動きを支援し、ロシアへの留学に頼っていた聖職者の養成を国内で行えるよう、フィンランド政府から1918年から援助が行
われ神学校が設立された。フィンランド教会の自治教会としての地位は、モスクワ総主教ティーホンにより1921年に承認された。しかし1923年
にフィンランド正教会がコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下に入ることを決定すると、1924年にモスクワ総主教からのフィンランド正教
会の自治正教会位承認は破棄された。その後長い間、フィンランド教会はモスクワ総主教からの自治正教会位承認の回復にむけて外交努力を行
っていたが、1957年に、モスクワ総主教はコンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあるフィンランド正教会の自治正教会位を承認した。両大
戦間期に、フィンランド正教会は二番目の国教としての承認を国家から得た。フィンランド正教会は財政上の支援を国庫から受けることとなり、
これに伴い、世俗の行政と調和させるために教区の再編成が行われた。1940年代、冬戦争・継続戦争の戦禍やモスクワ講和条約による国境変動
に伴い、ソ連政府による宗教弾圧政策を避けるためなどの理由から、約70%の正教徒がカレリアからフィンランドに亡命した。旧ソ連当局によ
る宗教弾圧を避けてヴァラーム修道院から移住を余儀なくされた修道士達はフィンランドのヘイナヴェシ(Heinavesi)に移り、当地に新ヴァ
ラモ修道院を設立した。これは現在も存続し、フィンランド正教会の重要な修道院となっている。その後、フィンランドの二つ目の国教となっ
たフィンランド正教会は、順調に教会活動を継続し発展している。現在、フィンランド正教会の信徒数は約6万人。新ヴァラモ修道院とリントゥ
ラ至聖三者女子修道院の、二つの修道院がフィンランド正教会に存在する。教区は3つとなっている。黎明期にあって大きな役割を果たしたヴ
ァラーム修道院は、ソ連時代には共産主義政権による宗教弾圧政策により閉鎖されていたが、現在ではロシア連邦の領土内にあって再開されて
いる。ただし所属はロシア正教会である。日本人正教徒イコン画家であるペトロス佐々木巌はフィンランド正教会で活
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172 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:05:28.69 ID:Edh722bs
ドはスウェーデン領となった。16世紀末には、トリフォ ンが建てたペツァモの修道院がフィンランド人兵士によ
り1590年に完全に破壊され、修道士も全員が殺害された。フィンランドの大半がカトリック教会を奉じるスウェーデンに編入されたのに対し、
カレリア地方のみはノヴゴロド共和国に最終的に編入されることとなり(1323年)、正教圏に入ることとなった。ただし教会の実態はノヴゴロ
ド大主教からは半ば独立していた。1400年までに、カレリアには7教区が設置され、それぞれの教区にいくつかの教会・聖堂が所属していた。
カレリア地方における正教の発展・展開は非常に緩やかなものであったが、16世紀にはノヴゴロド大主教マカリイにより、異教的要素から正教
を純化しようとする精神的刷新が図られた。マカリイ大主教は1534年にロシア人修道士イリヤをカレリアに送り、異教のカルト的習慣を根絶
することを命じた。イリヤは組織運営の能力と説教において有能な修道士であり、異教の習慣はカレリアから消えるに至った。1617年、カレリ
アの大半の領域がルター派を国教とするスウェーデンに領有された。このことによる狂信的な空気の醸成により、カレリアにおける宗教的闘争
が、ルター派から正教会に対して始められることとなった。3分の2の正教徒がロシアに逃れ、少数はルター派に改宗したが、困難な情勢下に
あって残りの正教徒は自分達の信仰を守った。1721年にカレリアの大半がロシア帝国に領有され、1809年には全フィンランドがロシア帝国領と
なったことにより、18世紀・19世紀を通じてカレリアの正教会も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会のもとに入った。19
世紀末に入ると、ナショナリズムがカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義に対応するものであり、カレリア人・フィンラ
ンド人は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショ
ナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語に代えてフィンランド語を奉神礼の言語として採用し、奉神礼における祈祷
書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年にはフィンランド教区が設
立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。1917
年にロシア革命によりフィンランドが独立すると、フィンランド教会は自治教会としての地位を宣言した。フィンランド正教会におきていたナ
ショナリズム的な動きを支援し、ロシアへの留学に頼っていた聖職者の養成を国内で行えるよう、フィンランド政府から1918年から援助が行
われ神学校が設立された。フィンランド教会の自治教会としての地位は、モスクワ総主教ティーホンにより1921年に承認された。しかし1923年
にフィンランド正教会がコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下に入ることを決定すると、1924年にモスクワ総主教からのフィンランド正教
会の自治正教会位承認は破棄された。その後長い間、フィンランド教会はモスクワ総主教からの自治正教会位承認の回復にむけて外交努力を行
っていたが、1957年に、モスクワ総主教はコンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあるフィンランド正教会の自治正教会位を承認した。両大
戦間期に、フィンランド正教会は二番目の国教としての承認を国家から得た。フィンランド正教会は財政上の支援を国庫から受けることとなり、
これに伴い、世俗の行政と調和させるために教区の再編成が行われた。1940年代、冬戦争・継続戦争の戦禍やモスクワ講和条約による国境変動
に伴い、ソ連政府による宗教弾圧政策を避けるためなどの理由から、約70%の正教徒がカレリアからフィンランドに亡命した。旧ソ連当局によ
る宗教弾圧を避けてヴァラーム修道院から移住を余儀なくされた修道士達はフィンランドのヘイナヴェシ(Heinavesi)に移り、当地に新ヴァ
ラモ修道院を設立した。これは現在も存続し、フィンランド正教会の重要な修道院となっている。その後、フィンランドの二つ目の国教となっ
たフィンランド正教会は、順調に教会活動を継続し発展している。現在、フィンランド正教会の信徒数は約6万人。新ヴァラモ修道院とリントゥ
ラ至聖三者女子修道院の、二つの修道院がフィンランド正教会に存在する。教区は3つとなっている。黎明期にあって大きな役割を果たしたヴ
ァラーム修道院は、ソ連時代には共産主義政権による宗教弾圧政策により閉鎖されていたが、現在ではロシア連邦の領土内にあって再開されて
いる。ただし所属はロシア正教会である。日本人正教徒イコン画家であるペトロス佐々木巌はフィンランド正教会で活
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27 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:11:21.53 ID:Edh722bs
ドはスウェーデン領となった。16世紀末には、トリフォンが建てたペツァ モの修道院がフィンランド人兵士によ
り1590年に完全に破壊され、修道士も全員が殺害された。フィンランドの大半がカトリック教会を奉じるスウェーデンに編入されたのに対し、
カレリア地方のみはノヴゴロド共和国に最終的に編入されることとなり(1323年)、正教圏に入ることとなった。ただし教会の実態はノヴゴロ
ド大主教からは半ば独立していた。1400年までに、カレリアには7教区が設置され、それぞれの教区にいくつかの教会・聖堂が所属していた。
カレリア地方における正教の発展・展開は非常に緩やかなものであったが、16世紀にはノヴゴロド大主教マカリイにより、異教的要素から正教
を純化しようとする精神的刷新が図られた。マカリイ大主教は1534年にロシア人修道士イリヤをカレリアに送り、異教のカルト的習慣を根絶
することを命じた。イリヤは組織運営の能力と説教において有能な修道士であり、異教の習慣はカレリアから消えるに至った。1617年、カレリ
アの大半の領域がルター派を国教とするスウェーデンに領有された。このことによる狂信的な空気の醸成により、カレリアにおける宗教的闘争
が、ルター派から正教会に対して始められることとなった。3分の2の正教徒がロシアに逃れ、少数はルター派に改宗したが、困難な情勢下に
あって残りの正教徒は自分達の信仰を守った。1721年にカレリアの大半がロシア帝国に領有され、1809年には全フィンランドがロシア帝国領と
なったことにより、18世紀・19世紀を通じてカレリアの正教会も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会のもとに入った。19
世紀末に入ると、ナショナリズムがカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義に対応するものであり、カレリア人・フィンラ
ンド人は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショ
ナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語に代えてフィンランド語を奉神礼の言語として採用し、奉神礼における祈祷
書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年にはフィンランド教区が設
立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。1917
年にロシア革命によりフィンランドが独立すると、フィンランド教会は自治教会としての地位を宣言した。フィンランド正教会におきていたナ
ショナリズム的な動きを支援し、ロシアへの留学に頼っていた聖職者の養成を国内で行えるよう、フィンランド政府から1918年から援助が行
われ神学校が設立された。フィンランド教会の自治教会としての地位は、モスクワ総主教ティーホンにより1921年に承認された。しかし1923年
にフィンランド正教会がコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下に入ることを決定すると、1924年にモスクワ総主教からのフィンランド正教
会の自治正教会位承認は破棄された。その後長い間、フィンランド教会はモスクワ総主教からの自治正教会位承認の回復にむけて外交努力を行
っていたが、1957年に、モスクワ総主教はコンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあるフィンランド正教会の自治正教会位を承認した。両大
戦間期に、フィンランド正教会は二番目の国教としての承認を国家から得た。フィンランド正教会は財政上の支援を国庫から受けることとなり、
これに伴い、世俗の行政と調和させるために教区の再編成が行われた。1940年代、冬戦争・継続戦争の戦禍やモスクワ講和条約による国境変動
に伴い、ソ連政府による宗教弾圧政策を避けるためなどの理由から、約70%の正教徒がカレリアからフィンランドに亡命した。旧ソ連当局によ
る宗教弾圧を避けてヴァラーム修道院から移住を余儀なくされた修道士達はフィンランドのヘイナヴェシ(Heinavesi)に移り、当地に新ヴァ
ラモ修道院を設立した。これは現在も存続し、フィンランド正教会の重要な修道院となっている。その後、フィンランドの二つ目の国教となっ
たフィンランド正教会は、順調に教会活動を継続し発展している。現在、フィンランド正教会の信徒数は約6万人。新ヴァラモ修道院とリントゥ
ラ至聖三者女子修道院の、二つの修道院がフィンランド正教会に存在する。教区は3つとなっている。黎明期にあって大きな役割を果たしたヴ
ァラーム修道院は、ソ連時代には共産主義政権による宗教弾圧政策により閉鎖されていたが、現在ではロシア連邦の領土内にあって再開されて
いる。ただし所属はロシア正教会である。日本人正教徒イコン画家であるペトロス佐々木巌はフィンランド正教会で活
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298 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:11:46.66 ID:Edh722bs
躍し、多くのイコ ンを聖
堂等のために描いた。一部作品は日本正教会にも献納されている。この他に、ロシア正教会所属の教会がフィンランドにいくつか設立されてお
り、こちらに所属する信徒数は約2000人となっているアレクサンドリア総主教庁は、パパ・アレクサンドリア総主教の機関・座所を言う。ア
レクサンドリア総主教は現在2人いる。ギリシャ正教・東方正教会とも呼ばれる正教会の総主教コプト正教会(非カルケドン派)の総主教また、
カトリック教会にアレクサンドリア総大司教がいる。古代5主教座のひとつ、アレクサンドリア教会の流れを汲む。長くエジプトのアレクサン
ドリアにおかれたが、現在の所在地はカイロである。ギリシャ正教のアレクサンドリア総主教も、コプト正教会のアレクサンドリア総主教も、
いずれもパパ(ギリシャ語:π?πα?、英語:Pope)の称号を有し、その称号はアレクサンドリアおよび全アフリカのパパならびに総主教であ
る。なお「パパ」は「教皇」と訳される事があるが、「教皇」は日本のカトリック教会における「パパ」の日本語訳であって、日本正教会ではあ
まり用いられない(完全に用いられない訳ではなく、用いられている媒体も稀に存在する)。初代アレクサンドリア主教が誰であるかは史料によ
り異なる。福音記者マルコであるとする史料と、マルコが宣教し初代主教を任じたとする史料の二種がある。いずれにせよ、ギリシャ正教側も
コプト正教会側も、福音記者マルコを初代アレクサンドリア総主教に数えている。また、東西教会の分裂以降、ローマ・カトリックの傘下に、
アレクサンドリア総大司教座とコプト典礼の総大司教座が存在する。ギリシャ正教とも呼ばれる正教会のアレクサンドリア総主教は、殆どの場
合ギリシャ人が務めており、コンスタンディヌーポリ全地総主教との結びつきのもとにある。アクレサンドリア総主教庁は活発にアフリカ各地
及びマダガスカルに宣教活動を行い、一定の成果を挙げている。現在の教皇アレクサンドリア総主教はセオドロス2世である。コプト正教会は、
カルケドン公会議から生じた非カルケドン派(単性論派とも呼ばれる事があるが、コプト正教会は単性論派と呼ばれる事を拒否する)の教会で
ある。コプト正教会の現在の教皇アレクサンドリア総主教は2012年のシェヌーダ3世の死去に伴い同年に選出された、第118代教皇のタワド
ロス2世である。大都市アレクサンドリアのパパ・大主教、聖マルコの聖にして正しく神を讃美する使徒の教区たるエジプト・ペンタポリス・
リビア・ヌビア・スーダン・エチオピア・エリトリア・および全アフリカの総主教聖致命者福音記者聖マルコの、大都市アレクサンドリアの聖
座にある後継者アンティオキア総主教庁(アンティオキアそうしゅきょうちょう、現代ギリシア語:Πατριαρχε?ον ?ντιοχε?α?, 英語:
Greek Orthodox Patriarchate of Antioch and All the East, アラビア語:アラビア語: ???????? ??????? ????? ?????? ????? ??????????)は正
教会に属する教会。古代の五総主教座のひとつである。正式名称は「アンティオキアおよび全東方の総主教庁」。アンティオキア正教会と呼ばれ
ることもある。シリアにおける教会の中では最大多数派。初代総主教を使徒ペトロとしている。現在の総主教はイオアン10世(2013年 - )で
ある。アンティオキア総主教庁は公式には現トルコ領内のアンティオキアに置かれるが、実際の執務はシリアのダマスカスでなされている。古
代のアンティオキア教会の流れを汲み、現存するキリスト教会のなかでも最古の教会に属する。現在はシリアのほか、アメリカ・ヨーロッパ各
国にも教区をもつ。信者はアラビア語使用者および英語使用者を主とする。正教会のなかでも活発な宣教活動で知られる。なお、非カルケドン
派のシリア正教会にもアンティオキア総主教が存在する。2011年末以来のシリア騒乱において、非カルケドン派(アルメニア使徒教会・シリア
正教会)、東方典礼カトリック教会とともにラム系過激派による破壊活動を受けている。聖堂の破壊といった物的損害にとどまらず、2012年初頭
には司祭が殺害され、2013年4月にはアンティオキア正教会の主教とシリア正教の主教の計2名が誘拐されるなど、人的被害も拡大している。
エルサレム総主教庁(エルサレムそうしゅきょうちょう)は正教会の9つの総主教庁の一つ。古代5総主教座のひとつであるとともに、新約聖
書「使徒行伝」 で初代教会とされるエルサレム教会につらなるキリスト教世界最古の歴史をもつ。451年までエルサレムには正教の主教座が置
かれていたが、カルケドン公会議でエルサレム主教に総主教の地位が認められたため、以後は総主教を名乗っている。記録に残る最古のエルサ
レム総主教は62年のヤコブであり、こ
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32 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:12:24.54 ID:Edh722bs
れは伝承によれば「主の兄弟ヤコブ」と同一の人物である。イスラム教登場後、パレスチナが アラブ人
に征服された後、イスラム教徒はエルサレムはこの地方におけるキリスト教の中心地でありエルサレム総主教がその指導者であると認識した。
十字軍のエルサレム攻囲戦後の1099年、ローマ・カトリックによる十字軍はエルサレムに西方教会の司教を任じ、正教の主教をエルサレムか
ら追放し、1187年に到るまで正教のエルサレム総主教はコンスタンティノポリスに在住した。今日ではエルサレム総主教庁はエルサレムの聖墳
墓教会に置かれている。ルジア正教会(正式名称:グルジア使徒伝承独立正教会、グルジア語: ??????????? ??????????????? ??????????
???????; Saqartvelos Samotsiqulo Avtokepaluri Martlmadidebeli Eklesia, 英語: Georgian Apostolic Autocephalous Orthodox Church)
は、現在のグルジア共和国の中心部に「全グルジアのカトリコス総主教」を長とする聖シノド(英語:Holy Synod)を置く、正教会の一員たる独
立教会である。正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(グルジア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ルーマニア正
教会、ロシア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。4
世紀に国教化した歴史の長い教会で、伝承による起源は初めてコーカサス地方(古代のコルキス Colkis、イベリア Iberia)へ宣教した1世紀
のアンデレ(聖使徒アンドレイ)まで遡る。 他の聖伝では、熱心党のシモン(聖使徒シモン・カナニト)がコーカサスへ旅してグルジア西部へ
宣教し、コマニ Comani 村のソフミ Sokhumi の近くへ埋葬されている。また、マティアス(聖使徒マトフィイ)がグルジア南西部へ宣教してい
たとも言われており、こちらはバトゥミの近郊のゴニオ Gonio 村に埋葬されている。使徒バルトロマイ(聖使徒ワルフォロメイ)とタダイ(聖
使徒ユダ・ファデイ)がグルジアに来ていたことを主張する文書が幾つかある。史料によって疑問の余地なしとされる大規模な宣教は、啓蒙者
グレゴリオスと、グルジアの光照者:聖ニノ(ニーナとも)により4世紀の前半に行われた。4世紀には独立正教会の地位を得たが、19世紀初
頭にロシア帝国にグルジアが併合されると、その地位は破棄され、グルジアの教区はロシア正教会のもとに編入され、グルジアのエクザルフの
職位が設けられた。1917年のロシア革命時に、グルジア正教会は独立を回復し、1943年にモスクワ総主教庁から、1990年にコンスタンディヌ
ーポリ総主教庁から独立正教会としての承認を得た。ロシア正教会やアルバニア正教会と同様、20世紀に共産主義政権によって弾圧を被ったが、
ソ連崩壊後は復興を遂げている。現在の総主教は全グルジアのカトリコス総主教・ムツヘタとトビリシの大主教イリヤ2世である。2009年、ア
ブハジア正教会(英語版)は自ら独立教会であると宣言した。ブルガリア正教会(ブルガリアせいきょうかい)は、世界の正教会とフル・コミ
ュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。正教会は一カ国に一
つの教会組織をそなえることが原則だが(ブルガリア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外
もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。スラヴ系教会のなかでは最も古く独立正教
会となった(9世紀末に成立)。ブルガリア王ボリス1世のキリスト教への改宗に起源を持ち、927年、次代の王シメオン1世の指導下にコンス
タンディヌーポリ総主教座から独立した正教会が確立された。現在、ブルガリア国内に約650万人、他のヨーロッパ諸国や北米に100万から
200万人の信徒を持つ。現在の最高指導者はマクシム総主教で、1971年に前任者の死没に伴って総主教に選出された。マクシム総主教は2009
年12月現在で、全世界の正教会で最も高齢の首座主教である。ブルガリア正教会は自身を、唯一、聖、公、使徒教会と不可分の一員であると
し、総主教庁の名の下に自律している。ブルガリア共和国内では13の主教区がり、加えて西欧・中欧・米州・オーストラリアにおけるブルガ
リア人のための2つの教区がある。ブルガリア正教会の主教区は58の管轄区に細分され、2600の教会にさらに分けられて構成されている。
ブルガリア正教会の全領域における最高の聖職・教会司法・管轄の効力は、聖シノドによって行使されている。聖シノドには総主教、教区における
高位聖職たる府主教が含まれる。教会における教会生活は教区司祭によって指導されるが、教区司祭の数は1500人である。ブルガリア正教会
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173 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:12:51.48 ID:Edh722bs
にはブルガリア国内に120の修道院があり、2000人の修道士と、ほぼ同数の修道女とがいる。ブルガリア正教会の起源は、1世紀の初代教会
時代にバルカン半島において成長したキリスト教共同体・教会にある。キリスト教はその初期共同体が編成されていった1世紀に、使徒パウロ
と使徒アンデレによってブルガリアおよび他のバルカン半島地域によってもたらされた4世紀初頭には、キリスト教はこの地域で主要な宗教と
なっていた。セルディカ(ソフィア)、フィリポポリス(プロヴディフ)、オデッスス(ヴァルナ)、アドリアノープル(エディルネ)は、ローマ帝
国における重要なキリスト教の中心地であった。4世紀・5世紀における蛮族の侵攻・進入と、6世紀・7世紀におけるスラヴ人とブルガール
人の定住により、直接的な破壊行為は伴われなかったにも関わらず、ブルガリア地方におけるキリスト教教会組織はかなりのダメージを受けた
。キリスト教は、生き残ったキリスト教徒から周囲の多数派であるスラヴ人に対して広がり始めた。9世紀半ばには、特にトラキア、マケドニ
アに住む、ブルガリアのスラヴ人の多数派がキリスト教化されるに至った。この改宗の過程においてブルガール人貴族においても同様のキリス
ト教化がなされた。ブルガリアのツァールボリス1世がキリスト教を公式に865年に採用してはじめて、ブルガリア教会の独立教会としての位
置づけが確立された。ボリス1世は、ブルガリアのキリスト教の進歩、統治と威信は、独立正教会によって管掌される賢明な聖職者によって達
成する事が出来ると信じていた。最終的に、870年までの5年間の間にコンスタンディヌーポリ総主教とローマ教皇の間を巧みに操り、結果、
第4コンスタンティノポリス公会議においてブルガリア大主教区に対して自治権が与えられた。大主教座はブルガリアの首都プリスカ(Pliska)
に置かれ、ブルガリア国家の全領域を管掌した。コンスタンディヌーポリ総主教とローマ教皇の間でのブルガリア大主教区における主導権争い
は、コンスタンディヌーポリ総主教側の下にブルガリア大主教区が入る事に決着し、最初の首座主教、聖職者、および神学書もコンスタンディ
ヌーポリ総主教側からブルガリアにもたらされた。大主教区は国内における完全な自治を享受していたが、ボリス1世の目標は殆ど達成されな
かった。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の聖職者からもたらされたギリシャ語奉神礼は、ブルガリア人の文化的進歩を促進せず、ブルガリ
ア国家の統合にも寄与しなかった。このことは結局、ブルガリアの国家・民族のアイデンティティの喪失に繋がるものであった。ボリス1世は
886年に、キュリロスとメトディオスの弟子達(オフリドのクリメントもその中に含まれていた)が到着した事を一つの機会として歓迎した。
ボリス1世は彼らに、将来のブルガリア人聖職者に対して、グラゴル文字と、キュリロスとメトディオスにより用意されたスラブ語奉神礼を教
えるという任務を課した。この奉神礼はテッサロニキから来たマケドニアのスラヴ人に固有のものに則っていた。893年、ボリス1世はギリシ
ャ人聖職者をブルガリアから追放し、ギリシャ語をスラヴ・ブルガリアの母語に置き換えるよう命令した。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)
に対するアヘロイの戦い(Battle of Acheloos、こんにちのポモリエの近くで行われたもの)とカタシルタイの戦い(Battle of Katasyrtai)にお
ける二つの決定的な勝利の後、ブルガリア国家は、919年に開催された教会および国家会議において、自治正教会としてのブルガリア大主教区
を独立正教会とし、首座を総主教位に昇格させる事を宣言した。ブルガリアとビザンティン帝国の間で、20年間の長きにわたる戦争を終わらせ
る和平が927年に締結された後、コンスタンディヌーポリ総主教庁はブルガリア正教会の独立正教会としての地位と総主教位を承認した。ブル
ガリア総主教庁ははじめてのスラヴ系独立正教会であった。これはセルビア正教会の独立正教会位獲得の1219年より約300年、ロシア正教会
の独立正教会位獲得の1596年より約600年早い。また、ローマ、コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)、エルサレム、アレクサ
ンドリア、アンティオキアに続く、6番目の総主教区でもある。総主教座は新しいブルガリアの首都であるプレスラフに置かれた。総主教は致
なお、親鸞は生前に著した『高僧和讃』において、法然(源空)について「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、
浄土真宗は法然が開いた教えと解した。親鸞は越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。
親鸞の没後に、親鸞を師と仰ぐ者は自らの教義こそ浄
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28 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:21:19.29 ID:Edh722bs
土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。
ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。
近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、
本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが
安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。 明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、
ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。
親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。
こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、
また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。
この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、
「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、
徳川家康・上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。
やがて応仁の乱(1467年-1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、
本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。
しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった
(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、
北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。
一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、
天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、
蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍と
その周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅 威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、
元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は
尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、
ほと
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299 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:21:42.36 ID:Edh722bs
んどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して
本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。
越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。
1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、
家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、
顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、
現在の名称に影響している。また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、浙江省天台山国清寺と湖北省?州玉泉寺を建立し、天台宗を確立した。
初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。
慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智に継承された。
智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。
羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三大部を天台宗の要諦としている。
これらの智の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。
灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。
その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。
智の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、
特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、
のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、?仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。
智の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。
このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている(関口真大)
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍
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33 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:21:58.73 ID:Edh722bs
が日本に入った。
次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。
最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。
最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。
最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。
また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、
菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、
僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、
南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。
論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、
その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、
密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、
空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、
円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。
したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、
智の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。
井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。
午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に
発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。
さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、
平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗な
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34 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:35:27.04 ID:Edh722bs
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永 眠の際には、ロシ
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300 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:35:43.85 ID:Edh722bs
ア正教会渉外局長でありロシア 正教会のナンバー2と
目されるキリル府主教(肩書当時)が弔問に訪れてもいる。駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられたロシア正教会の聖堂である、アレク
サンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に成聖するためにキリル府主教がイタリアを訪れた際には、ローマ教皇ベネディクト16世
とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名にお
いて祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた。また歴史的に、ロシア正教会は一貫
して反西方教会一色であった訳ではない。神学上・教会法上の一定の親和性があったこと、ロシアのロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴ
ァー朝が親戚関係にあったこと、ウクライナにおけるローマカトリック教会との深刻な管轄対立に類するような問題がないこと等から、聖公会
との関係深化の話し合いはロシア革命までは継続されていた。ただし2010年現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくな
っている。日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭(のち大主教)ニコライである。正教会は、三国干渉、日露戦争などにより日本におけ
る対露感情が悪化していく悪条件の中、一時期はカトリック教会に次ぐ教勢を獲得するに至った。しかしながらニコライ死後、ロシア革命の勃
発により、宗教弾圧を行う共産主義政権の下で監視下にあるモスクワ総主教庁の指導下にあり続ける事への不安や疑義から、日本の正教会内に
おいてもロシア正教会と距離を置くべきとする議論が高まった。この流れの中で、戦前には日本正教会は在外ロシア正教会で主教が叙聖される
などしてこれと関係をもち(ニコライ小野帰一)、戦後はGHQの圧力もあってアメリカ正教会の身である北米メトロポリアの指導下に入った。
1970年になり、北米メトロポリアがモスクワ総主教庁との関係を回復して独立正教会になるに際し、日本ハリストス正教会もモスクワ総主教庁
との関係を回復して自治教会となった。首座主教である全日本の府主教の認可はモスクワ総主教によって行われる一方、財政と信仰生活は完全
にロシア正教会から独立しており、教会運営においてほぼ完全な自治を行っている。ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、ロシア正
教会駐日ポドヴォリエ(国家における大使館的な役割を果たす、正教会における組織の種別)がある。元来は、原始キリスト教の五大総主教座
(ローマ、コンスタンディヌポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、きわめて古い伝統をもつ。かつては東ロ
ーマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシ
ャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東
ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂
(現・アヤソフィア博物館)に置かれていた。東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布し
ているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンディヌーポリ総主教が
皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対
的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンディヌーポリ総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。詳細は「皇帝教皇
主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、
ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の
大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリ
シャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンディヌーポリ総
主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[5][6]という称号を持ち、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。
敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛するこ
とに成功したが、北フィンラン
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29 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:36:01.09 ID:Edh722bs
ドはスウェーデン領となった。16世紀末 には、トリフォンが建てたペツァモの修道院がフィンランド人兵士によ
り1590年に完全に破壊され、修道士も全員が殺害された。フィンランドの大半がカトリック教会を奉じるスウェーデンに編入されたのに対し、
カレリア地方のみはノヴゴロド共和国に最終的に編入されることとなり(1323年)、正教圏に入ることとなった。ただし教会の実態はノヴゴロ
ド大主教からは半ば独立していた。1400年までに、カレリアには7教区が設置され、それぞれの教区にいくつかの教会・聖堂が所属していた。
カレリア地方における正教の発展・展開は非常に緩やかなものであったが、16世紀にはノヴゴロド大主教マカリイにより、異教的要素から正教
を純化しようとする精神的刷新が図られた。マカリイ大主教は1534年にロシア人修道士イリヤをカレリアに送り、異教のカルト的習慣を根絶
することを命じた。イリヤは組織運営の能力と説教において有能な修道士であり、異教の習慣はカレリアから消えるに至った。1617年、カレリ
アの大半の領域がルター派を国教とするスウェーデンに領有された。このことによる狂信的な空気の醸成により、カレリアにおける宗教的闘争
が、ルター派から正教会に対して始められることとなった。3分の2の正教徒がロシアに逃れ、少数はルター派に改宗したが、困難な情勢下に
あって残りの正教徒は自分達の信仰を守った。1721年にカレリアの大半がロシア帝国に領有され、1809年には全フィンランドがロシア帝国領と
なったことにより、18世紀・19世紀を通じてカレリアの正教会も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会のもとに入った。19
世紀末に入ると、ナショナリズムがカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義に対応するものであり、カレリア人・フィンラ
ンド人は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショ
ナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語に代えてフィンランド語を奉神礼の言語として採用し、奉神礼における祈祷
書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年にはフィンランド教区が設
立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。1917
年にロシア革命によりフィンランドが独立すると、フィンランド教会は自治教会としての地位を宣言した。フィンランド正教会におきていたナ
ショナリズム的な動きを支援し、ロシアへの留学に頼っていた聖職者の養成を国内で行えるよう、フィンランド政府から1918年から援助が行
われ神学校が設立された。フィンランド教会の自治教会としての地位は、モスクワ総主教ティーホンにより1921年に承認された。しかし1923年
にフィンランド正教会がコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下に入ることを決定すると、1924年にモスクワ総主教からのフィンランド正教
会の自治正教会位承認は破棄された。その後長い間、フィンランド教会はモスクワ総主教からの自治正教会位承認の回復にむけて外交努力を行
っていたが、1957年に、モスクワ総主教はコンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあるフィンランド正教会の自治正教会位を承認した。両大
戦間期に、フィンランド正教会は二番目の国教としての承認を国家から得た。フィンランド正教会は財政上の支援を国庫から受けることとなり、
これに伴い、世俗の行政と調和させるために教区の再編成が行われた。1940年代、冬戦争・継続戦争の戦禍やモスクワ講和条約による国境変動
に伴い、ソ連政府による宗教弾圧政策を避けるためなどの理由から、約70%の正教徒がカレリアからフィンランドに亡命した。旧ソ連当局によ
る宗教弾圧を避けてヴァラーム修道院から移住を余儀なくされた修道士達はフィンランドのヘイナヴェシ(Heinavesi)に移り、当地に新ヴァ
ラモ修道院を設立した。これは現在も存続し、フィンランド正教会の重要な修道院となっている。その後、フィンランドの二つ目の国教となっ
たフィンランド正教会は、順調に教会活動を継続し発展している。現在、フィンランド正教会の信徒数は約6万人。新ヴァラモ修道院とリントゥ
ラ至聖三者女子修道院の、二つの修道院がフィンランド正教会に存在する。教区は3つとなっている。黎明期にあって大きな役割を果たしたヴ
ァラーム修道院は、ソ連時代には共産主義政権による宗教弾圧政策により閉鎖されていたが、現在ではロシア連邦の領土内にあって再開されて
いる。ただし所属はロシア正教会である。日本人正教徒イコン画家であるペトロス佐々木巌はフィンランド正教会で活
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35 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/05/11(水) 12:43:07.25 ID:Edh722bs
ドはスウェーデン領となった。16世紀末には、トリフ ォンが建てたペツァモの修道院がフィンランド人兵士によ
り1590年に完全に破壊され、修道士も全員が殺害された。フィンランドの大半がカトリック教会を奉じるスウェーデンに編入されたのに対し、
カレリア地方のみはノヴゴロド共和国に最終的に編入されることとなり(1323年)、正教圏に入ることとなった。ただし教会の実態はノヴゴロ
ド大主教からは半ば独立していた。1400年までに、カレリアには7教区が設置され、それぞれの教区にいくつかの教会・聖堂が所属していた。
カレリア地方における正教の発展・展開は非常に緩やかなものであったが、16世紀にはノヴゴロド大主教マカリイにより、異教的要素から正教
を純化しようとする精神的刷新が図られた。マカリイ大主教は1534年にロシア人修道士イリヤをカレリアに送り、異教のカルト的習慣を根絶
することを命じた。イリヤは組織運営の能力と説教において有能な修道士であり、異教の習慣はカレリアから消えるに至った。1617年、カレリ
アの大半の領域がルター派を国教とするスウェーデンに領有された。このことによる狂信的な空気の醸成により、カレリアにおける宗教的闘争
が、ルター派から正教会に対して始められることとなった。3分の2の正教徒がロシアに逃れ、少数はルター派に改宗したが、困難な情勢下に
あって残りの正教徒は自分達の信仰を守った。1721年にカレリアの大半がロシア帝国に領有され、1809年には全フィンランドがロシア帝国領と
なったことにより、18世紀・19世紀を通じてカレリアの正教会も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会のもとに入った。19
世紀末に入ると、ナショナリズムがカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義に対応するものであり、カレリア人・フィンラ
ンド人は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショ
ナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語に代えてフィンランド語を奉神礼の言語として採用し、奉神礼における祈祷
書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年にはフィンランド教区が設
立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。1917
年にロシア革命によりフィンランドが独立すると、フィンランド教会は自治教会としての地位を宣言した。フィンランド正教会におきていたナ
ショナリズム的な動きを支援し、ロシアへの留学に頼っていた聖職者の養成を国内で行えるよう、フィンランド政府から1918年から援助が行
われ神学校が設立された。フィンランド教会の自治教会としての地位は、モスクワ総主教ティーホンにより1921年に承認された。しかし1923年
にフィンランド正教会がコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下に入ることを決定すると、1924年にモスクワ総主教からのフィンランド正教
会の自治正教会位承認は破棄された。その後長い間、フィンランド教会はモスクワ総主教からの自治正教会位承認の回復にむけて外交努力を行
っていたが、1957年に、モスクワ総主教はコンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあるフィンランド正教会の自治正教会位を承認した。両大
戦間期に、フィンランド正教会は二番目の国教としての承認を国家から得た。フィンランド正教会は財政上の支援を国庫から受けることとなり、
これに伴い、世俗の行政と調和させるために教区の再編成が行われた。1940年代、冬戦争・継続戦争の戦禍やモスクワ講和条約による国境変動
に伴い、ソ連政府による宗教弾圧政策を避けるためなどの理由から、約70%の正教徒がカレリアからフィンランドに亡命した。旧ソ連当局によ
る宗教弾圧を避けてヴァラーム修道院から移住を余儀なくされた修道士達はフィンランドのヘイナヴェシ(Heinavesi)に移り、当地に新ヴァ
ラモ修道院を設立した。これは現在も存続し、フィンランド正教会の重要な修道院となっている。その後、フィンランドの二つ目の国教となっ
たフィンランド正教会は、順調に教会活動を継続し発展している。現在、フィンランド正教会の信徒数は約6万人。新ヴァラモ修道院とリントゥ
ラ至聖三者女子修道院の、二つの修道院がフィンランド正教会に存在する。教区は3つとなっている。黎明期にあって大きな役割を果たしたヴ
ァラーム修道院は、ソ連時代には共産主義政権による宗教弾圧政策により閉鎖されていたが、現在ではロシア連邦の領土内にあって再開されて
いる。ただし所属はロシア正教会である。日本人正教徒イコン画家であるペトロス佐々木巌はフィンランド正教会で活
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302 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:43:41.74 ID:Edh722bs
躍し、多くのイコ ンを聖
堂等のために描いた。一部作品は日本正教会にも献納されている。この他に、ロシア正教会所属の教会がフィンランドにいくつか設立されてお
り、こちらに所属する信徒数は約2000人となっているアレクサンドリア総主教庁は、パパ・アレクサンドリア総主教の機関・座所を言う。ア
レクサンドリア総主教は現在2人いる。ギリシャ正教・東方正教会とも呼ばれる正教会の総主教コプト正教会(非カルケドン派)の総主教また、
カトリック教会にアレクサンドリア総大司教がいる。古代5主教座のひとつ、アレクサンドリア教会の流れを汲む。長くエジプトのアレクサン
ドリアにおかれたが、現在の所在地はカイロである。ギリシャ正教のアレクサンドリア総主教も、コプト正教会のアレクサンドリア総主教も、
いずれもパパ(ギリシャ語:π?πα?、英語:Pope)の称号を有し、その称号はアレクサンドリアおよび全アフリカのパパならびに総主教であ
る。なお「パパ」は「教皇」と訳される事があるが、「教皇」は日本のカトリック教会における「パパ」の日本語訳であって、日本正教会ではあ
まり用いられない(完全に用いられない訳ではなく、用いられている媒体も稀に存在する)。初代アレクサンドリア主教が誰であるかは史料によ
り異なる。福音記者マルコであるとする史料と、マルコが宣教し初代主教を任じたとする史料の二種がある。いずれにせよ、ギリシャ正教側も
コプト正教会側も、福音記者マルコを初代アレクサンドリア総主教に数えている。また、東西教会の分裂以降、ローマ・カトリックの傘下に、
アレクサンドリア総大司教座とコプト典礼の総大司教座が存在する。ギリシャ正教とも呼ばれる正教会のアレクサンドリア総主教は、殆どの場
合ギリシャ人が務めており、コンスタンディヌーポリ全地総主教との結びつきのもとにある。アクレサンドリア総主教庁は活発にアフリカ各地
及びマダガスカルに宣教活動を行い、一定の成果を挙げている。現在の教皇アレクサンドリア総主教はセオドロス2世である。コプト正教会は、
カルケドン公会議から生じた非カルケドン派(単性論派とも呼ばれる事があるが、コプト正教会は単性論派と呼ばれる事を拒否する)の教会で
ある。コプト正教会の現在の教皇アレクサンドリア総主教は2012年のシェヌーダ3世の死去に伴い同年に選出された、第118代教皇のタワド
ロス2世である。大都市アレクサンドリアのパパ・大主教、聖マルコの聖にして正しく神を讃美する使徒の教区たるエジプト・ペンタポリス・
リビア・ヌビア・スーダン・エチオピア・エリトリア・および全アフリカの総主教聖致命者福音記者聖マルコの、大都市アレクサンドリアの聖
座にある後継者アンティオキア総主教庁(アンティオキアそうしゅきょうちょう、現代ギリシア語:Πατριαρχε?ον ?ντιοχε?α?, 英語:
Greek Orthodox Patriarchate of Antioch and All the East, アラビア語:アラビア語: ???????? ??????? ????? ?????? ????? ??????????)は正
教会に属する教会。古代の五総主教座のひとつである。正式名称は「アンティオキアおよび全東方の総主教庁」。アンティオキア正教会と呼ばれ
ることもある。シリアにおける教会の中では最大多数派。初代総主教を使徒ペトロとしている。現在の総主教はイオアン10世(2013年 - )で
ある。アンティオキア総主教庁は公式には現トルコ領内のアンティオキアに置かれるが、実際の執務はシリアのダマスカスでなされている。古
代のアンティオキア教会の流れを汲み、現存するキリスト教会のなかでも最古の教会に属する。現在はシリアのほか、アメリカ・ヨーロッパ各
国にも教区をもつ。信者はアラビア語使用者および英語使用者を主とする。正教会のなかでも活発な宣教活動で知られる。なお、非カルケドン
派のシリア正教会にもアンティオキア総主教が存在する。2011年末以来のシリア騒乱において、非カルケドン派(アルメニア使徒教会・シリア
正教会)、東方典礼カトリック教会とともにラム系過激派による破壊活動を受けている。聖堂の破壊といった物的損害にとどまらず、2012年初頭
には司祭が殺害され、2013年4月にはアンティオキア正教会の主教とシリア正教の主教の計2名が誘拐されるなど、人的被害も拡大している。
エルサレム総主教庁(エルサレムそうしゅきょうちょう)は正教会の9つの総主教庁の一つ。古代5総主教座のひとつであるとともに、新約聖
書「使徒行伝」 で初代教会とされるエルサレム教会につらなるキリスト教世界最古の歴史をもつ。451年までエルサレムには正教の主教座が置
かれていたが、カルケドン公会議でエルサレム主教に総主教の地位が認められたため、以後は総主教を名乗っている。記録に残る最古のエルサ
レム総主教は62年のヤコブであり、こ
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32 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:44:55.54 ID:Edh722bs
れは伝承によれば「主の兄弟ヤコブ」と同一の人物である。イスラム教登場後、 パレスチナがアラブ人
に征服された後、イスラム教徒はエルサレムはこの地方におけるキリスト教の中心地でありエルサレム総主教がその指導者であると認識した。
十字軍のエルサレム攻囲戦後の1099年、ローマ・カトリックによる十字軍はエルサレムに西方教会の司教を任じ、正教の主教をエルサレムか
ら追放し、1187年に到るまで正教のエルサレム総主教はコンスタンティノポリスに在住した。今日ではエルサレム総主教庁はエルサレムの聖墳
墓教会に置かれている。ルジア正教会(正式名称:グルジア使徒伝承独立正教会、グルジア語: ??????????? ??????????????? ??????????
???????; Saqartvelos Samotsiqulo Avtokepaluri Martlmadidebeli Eklesia, 英語: Georgian Apostolic Autocephalous Orthodox Church)
は、現在のグルジア共和国の中心部に「全グルジアのカトリコス総主教」を長とする聖シノド(英語:Holy Synod)を置く、正教会の一員たる独
立教会である。正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(グルジア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ルーマニア正
教会、ロシア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。4
世紀に国教化した歴史の長い教会で、伝承による起源は初めてコーカサス地方(古代のコルキス Colkis、イベリア Iberia)へ宣教した1世紀
のアンデレ(聖使徒アンドレイ)まで遡る。 他の聖伝では、熱心党のシモン(聖使徒シモン・カナニト)がコーカサスへ旅してグルジア西部へ
宣教し、コマニ Comani 村のソフミ Sokhumi の近くへ埋葬されている。また、マティアス(聖使徒マトフィイ)がグルジア南西部へ宣教してい
たとも言われており、こちらはバトゥミの近郊のゴニオ Gonio 村に埋葬されている。使徒バルトロマイ(聖使徒ワルフォロメイ)とタダイ(聖
使徒ユダ・ファデイ)がグルジアに来ていたことを主張する文書が幾つかある。史料によって疑問の余地なしとされる大規模な宣教は、啓蒙者
グレゴリオスと、グルジアの光照者:聖ニノ(ニーナとも)により4世紀の前半に行われた。4世紀には独立正教会の地位を得たが、19世紀初
頭にロシア帝国にグルジアが併合されると、その地位は破棄され、グルジアの教区はロシア正教会のもとに編入され、グルジアのエクザルフの
職位が設けられた。1917年のロシア革命時に、グルジア正教会は独立を回復し、1943年にモスクワ総主教庁から、1990年にコンスタンディヌ
ーポリ総主教庁から独立正教会としての承認を得た。ロシア正教会やアルバニア正教会と同様、20世紀に共産主義政権によって弾圧を被ったが、
ソ連崩壊後は復興を遂げている。現在の総主教は全グルジアのカトリコス総主教・ムツヘタとトビリシの大主教イリヤ2世である。2009年、ア
ブハジア正教会(英語版)は自ら独立教会であると宣言した。ブルガリア正教会(ブルガリアせいきょうかい)は、世界の正教会とフル・コミ
ュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。正教会は一カ国に一
つの教会組織をそなえることが原則だが(ブルガリア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外
もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。スラヴ系教会のなかでは最も古く独立正教
会となった(9世紀末に成立)。ブルガリア王ボリス1世のキリスト教への改宗に起源を持ち、927年、次代の王シメオン1世の指導下にコンス
タンディヌーポリ総主教座から独立した正教会が確立された。現在、ブルガリア国内に約650万人、他のヨーロッパ諸国や北米に100万から
200万人の信徒を持つ。現在の最高指導者はマクシム総主教で、1971年に前任者の死没に伴って総主教に選出された。マクシム総主教は2009
年12月現在で、全世界の正教会で最も高齢の首座主教である。ブルガリア正教会は自身を、唯一、聖、公、使徒教会と不可分の一員であると
し、総主教庁の名の下に自律している。ブルガリア共和国内では13の主教区がり、加えて西欧・中欧・米州・オーストラリアにおけるブルガ
リア人のための2つの教区がある。ブルガリア正教会の主教区は58の管轄区に細分され、2600の教会にさらに分けられて構成されている。
ブルガリア正教会の全領域における最高の聖職・教会司法・管轄の効力は、聖シノドによって行使されている。聖シノドには総主教、教区における
高位聖職たる府主教が含まれる。教会における教会生活は教区司祭によって指導されるが、教区司祭の数は1500人である。ブルガリア正教会
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303 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 12:49:27.68 ID:Edh722bs
にはブルガリア国内に120の修道院があり、2000人の修道士と、ほぼ同数の修道女とがいる。ブルガリア正教会の起源は、1世紀の初代教会
時代にバルカン半島において成長したキリスト教共同体・教会にある。キリスト教はその初期共同体が編成されていった1世紀に、使徒パウロ
と使徒アンデレによってブルガリアおよび他のバルカン半島地域によってもたらされた4世紀初頭には、キリスト教はこの地域で主要な宗教と
なっていた。セルディカ(ソフィア)、フィリポポリス(プロヴディフ)、オデッスス(ヴァルナ)、アドリアノープル(エディルネ)は、ローマ帝
国における重要なキリスト教の中心地であった。4世紀・5世紀における蛮族の侵攻・進入と、6世紀・7世紀におけるスラヴ人とブルガール
人の定住により、直接的な破壊行為は伴われなかったにも関わらず、ブルガリア地方におけるキリスト教教会組織はかなりのダメージを受けた
。キリスト教は、生き残ったキリスト教徒から周囲の多数派であるスラヴ人に対して広がり始めた。9世紀半ばには、特にトラキア、マケドニ
アに住む、ブルガリアのスラヴ人の多数派がキリスト教化されるに至った。この改宗の過程においてブルガール人貴族においても同様のキリス
ト教化がなされた。ブルガリアのツァールボリス1世がキリスト教を公式に865年に採用してはじめて、ブルガリア教会の独立教会としての位
置づけが確立された。ボリス1世は、ブルガリアのキリスト教の進歩、統治と威信は、独立正教会によって管掌される賢明な聖職者によって達
成する事が出来ると信じていた。最終的に、870年までの5年間の間にコンスタンディヌーポリ総主教とローマ教皇の間を巧みに操り、結果、
第4コンスタンティノポリス公会議においてブルガリア大主教区に対して自治権が与えられた。大主教座はブルガリアの首都プリスカ(Pliska)
に置かれ、ブルガリア国家の全領域を管掌した。コンスタンディヌーポリ総主教とローマ教皇の間でのブルガリア大主教区における主導権争い
は、コンスタンディヌーポリ総主教側の下にブルガリア大主教区が入る事に決着し、最初の首座主教、聖職者、および神学書もコンスタンディ
ヌーポリ総主教側からブルガリアにもたらされた。大主教区は国内における完全な自治を享受していたが、ボリス1世の目標は殆ど達成されな
かった。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の聖職者からもたらされたギリシャ語奉神礼は、ブルガリア人の文化的進歩を促進せず、ブルガリ
ア国家の統合にも寄与しなかった。このことは結局、ブルガリアの国家・民族のアイデンティティの喪失に繋がるものであった。ボリス1世は
886年に、キュリロスとメトディオスの弟子達(オフリドのクリメントもその中に含まれていた)が到着した事を一つの機会として歓迎した。
ボリス1世は彼らに、将来のブルガリア人聖職者に対して、グラゴル文字と、キュリロスとメトディオスにより用意されたスラブ語奉神礼を教
えるという任務を課した。この奉神礼はテッサロニキから来たマケドニアのスラヴ人に固有のものに則っていた。893年、ボリス1世はギリシ
ャ人聖職者をブルガリアから追放し、ギリシャ語をスラヴ・ブルガリアの母語に置き換えるよう命令した。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)
に対するアヘロイの戦い(Battle of Acheloos、こんにちのポモリエの近くで行われたもの)とカタシルタイの戦い(Battle of Katasyrtai)にお
ける二つの決定的な勝利の後、ブルガリア国家は、919年に開催された教会および国家会議において、自治正教会としてのブルガリア大主教区
を独立正教会とし、首座を総主教位に昇格させる事を宣言した。ブルガリアとビザンティン帝国の間で、20年間の長きにわたる戦争を終わらせ
る和平が927年に締結された後、コンスタンディヌーポリ総主教庁はブルガリア正教会の独立正教会としての地位と総主教位を承認した。ブル
ガリア総主教庁ははじめてのスラヴ系独立正教会であった。これはセルビア正教会の独立正教会位獲得の1219年より約300年、ロシア正教会
の独立正教会位獲得の1596年より約600年早い。また、ローマ、コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)、エルサレム、アレクサ
ンドリア、アンティオキアに続く、6番目の総主教区でもある。総主教座は新しいブルガリアの首都であるプレスラフに置かれた。総主教は致
なお、親鸞は生前に著した『高僧和讃』において、法然(源空)について「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、
浄土真宗は法然が開いた教えと解した。親鸞は越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。
親鸞の没後に、親鸞を師と仰ぐ者は自らの教義こそ浄
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304 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/05/11(水) 13:03:23.87 ID:Edh722bs
土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。
ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。
近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、
本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが
安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。 明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、
ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたので ある。
親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。
こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、
また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。
この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、
「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、
徳川家康・上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。
やがて応仁の乱(1467年-1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、
本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。
しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった
(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、
北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。
一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、
天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、
蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍と
その周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、
元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は
尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、
ほと


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