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名無しさん@お腹いっぱい。
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67 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/04/20(水) 18:14:39.52 ID:OPWbNB0r
末寺帳』が事実上の初見である。
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、
念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。 時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
時宗(時衆)の語源は、「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して
念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。
一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿真教である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念 仏を行った。
4代目を巡って当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。
遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。室町時代中頃に猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、
同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、様々な困難を伴った。教団が発展する中で、
順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。
江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が「時宗」という単一の宗派に統合され、その中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。
主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。
一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。
1871年(明治4年)、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で時宗の金城湯池といわれた薩摩藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。
過ぎること昭和になった1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争(大東亜戦争)中は時宗報国会を組織し、満州の奉天に遊行寺別院を設けるなど政府に協力した。
戦争中の1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。2004年(平成16年)、遊行73代・藤沢56世他阿一雲上人が病気により引退した。
戒名は法名と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一房」号ないし「仏房」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を用いる。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は男は「阿弥」号、女は「弌房」号である。
折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。一遍の出身である河野家の家紋。
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、?仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、
日本においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。
中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南岳懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、
黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も
元来、中国臨済宗の一派である。
歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄に始まる。臨済は黄檗希運の弟子であり、河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府節度
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63 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/04/20(水) 18:15:06.78 ID:OPWbNB0r
使の王紹懿(中文版、英語版)(?−866年、禅録では王常侍)を支持基盤として
宗勢を伸張したが、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延昭である。
臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋代であり、石霜楚円の門下より、ともに江西省を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。
南宋代になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063 - 1135年)の弟子の大慧宗杲が、浙江省を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。
その後、臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。
釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。
とくに室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれた。その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。
師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、
現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。
それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。
師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。
新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。
師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。
禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。
仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。    
悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。
いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。
宋代以降公案の体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。
これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。
黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。唐の僧・黄檗希運(? - 850年)の名に由来[1]する。黄檗は臨済義玄(?−867年)の師である。
臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。本山は隠元隆g(1592 - 1673年)の開いた、京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺である。
日本では、江戸時代初期の1654年(承応3年)に明末清初の中国から招聘された中国臨済宗の隠元隆gにより始まる。
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153 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/04/20(水) 18:15:31.13 ID:OPWbNB0r
1740年(元文5年)に第14代住持に和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。
隠元の禅は、鎌倉時代の日本臨済宗の祖である円爾(1202 - 1280年)や無学祖元(1226 - 1286年)等の師でもある無準師範(1177 - 1249年)の法系を嗣ぐ臨済禅であり、
当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。
幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光(1630 - 1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めたため、次第に教勢が拡大した。
萬福寺の塔頭は33ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。
1874年(明治7年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、1876年(明治9年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。
隠元の法孫に当たる鉄眼道光は艱難辛苦の末に、隠元のもたらした明版大蔵経を元版とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』といわれる大蔵経を開刻・刊行した。
これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、了翁道覚(1630 - 1707年)は錦袋円(きんたいえん)という漢方薬の販売により、
収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。
後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。
黄檗宗に於ける読経は、現在も古い中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐韻(とういん)」と呼ぶ。
法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。
唐代、638年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して、ヴァスバンドゥ(世親、vasubandhu)の『唯識三十頌』をダルマパーラ(護法、dharmapaala)が注釈した唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した。
この論を中心に、『解深密経』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。
この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的なものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。
また、基と同じ玄奘の門人である圓測の系統も広義では法相宗と呼び、門人の道證の時代に隆盛を迎えたが以後に人を得ず開元年間には基の系統に吸収されてしまった。
玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、
武周朝(690年 - 705年)に法蔵の華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰え、安史の乱や会昌の廃仏によって致命的な打撃を受けた。
その後、宋・元の頃に中国仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられているが、詳細は不明である。
法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、
一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。
実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、
という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。
さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。
三性とは、事物は縁起に依るという依他起性、それに気付かずに執着するという遍計所執性、縁起を覚って円らかになる円成実性である。
基は師の玄奘が訳出した『成唯識論』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶことを合わせて性相学という。(→唯識)
日本仏教での法相宗は、南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。
653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄ムも、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。
なかでも玄ムは興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
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70 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/04/20(水) 18:16:34.29 ID:OPWbNB0r
8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。
徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。
元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。
平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、
また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。
中国では、日本と異なり、正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったため、古くから研究が行われた。
東晋代に、『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化した。北魏では、法聡が四分律宗を開宗した。
その後、地論宗に属する慧光(468年 - 537年)が律宗の勢力を拡張した。
唐代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、周秀・道世・弘景らの僧が出た。
道宣の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている。
一方、法励(569年 - 635年)が『四分律』を研究し、相部宗を開いた。その弟子、懐素(625年 - 698年)は、法励の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗した。
その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、宋代まで伝承された。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。
日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分に理解されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。
天平勝宝5年(753年)、鑑真が6度の航海の末に唐から招来され、東大寺に戒壇を開き聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。
後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いている。
鑑真が伝えたのは『四分律』によるものであったが、平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、空海は『十誦律』を重んじた(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、
空海は受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある)。このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰微した。
また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、官僧の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。
平安時代末期から鎌倉時代には実範・明恵が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎2年(1236年)覚盛・有厳・円晴・叡尊の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。
後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗を開いた。
更に京都泉涌寺の俊?が南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊?の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。
この3派の革新派を「新義律」と呼称して、それ以前の「古義律」と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、
中世には禅宗と律宗を合わせて「禅律」とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出現して再度戒律復興が唱えられた。
なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、1900年(明治33年)律宗として独立した。
中国において、大乗仏典のひとつ『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派である。
開祖は杜順(557年-640年)、第2祖は智儼(602年-668年)、第3祖は法蔵(643年-712年)、第4祖は澄観(738年-839年)、第5祖は宗密(780年-839年)と相承されている。
この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ)と龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。
また朝鮮半島(古代新羅)にも伝わり、義湘(ウィサン)によって広められる。   
日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。
金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像
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67 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/04/20(水) 18:18:30.92 ID:OPWbNB0r
(奈良の大仏)が建立(743年-749年)された。
鎌倉仏教期には、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされている。法相宗と並ぶ、南都六宗の一つで、「十三宗五十六派」の一つである。
華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。
東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏であり、日本仏教の黎明期に重用されたが、大乗仏教の中でも独特の教学を持つため宗勢は徐々に衰えていった。
時代的にも地域的にも広範なので、様々な変容がある。
華厳思想の中心になるのは、この世界の実相は個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入)無限に重なりあっているという考え方(重々無尽の縁起)である。
この実相を4つの見方・四法界に分ける。我々の通常のものの見方は事法界で、無自性・空の見方の理法界は仏の世界である。
この両者を止揚した無自性・空の世界と具体的個物や現象が妨げあわず共存する理事無礙法界が、修行をすると顕れるが、これは天台の考え方で理と事を分けている点が不徹底である。
この分裂をなくせば、最後に、「理」すなわち「無自性・空」も消え去り、ただ事物と事物が融通無碍に共存する事々無礙法界という仏の見方に到達し、これが本来の真実一如の世界である。
また、華厳では仏の立場になって見るので、三性説もまた唯識とは逆に、仏の側から順に円成実性、依他起性、遍計所執性と説かれる。
仏になることをゴールと考えるのではなく、最初から仏の立場に自分を置いて考え、行動することを求めるのが華厳思想であるから、華厳経の一部の十地品に説かれるとおり、
菩薩初地で信不退転となれば、あとは菩薩第十地までは自ずから到達するはずで、結局菩薩の初心にあるべき金剛の信が決定的に重要だと考える。
性起説
仏性についての考え方では天台宗が性具説を説き凡夫が次第に修行によって自らに十分備わっていない外来の仏性に救いとられて、
目覚めさせられて行くと説くのに対し、華厳宗では性起説を説き、もともと衆生には円満な仏性が備わっているという如来蔵の考え方をとり、
それが信じられず自覚しようとしないので迷うのだと考える。鎌田茂雄はこの考え方が道元の仏性観、修行観(修証一味)に影響していると指摘している。
しかし、これは、たぶんに華厳宗側から見た見方で、公正とはいえず、これからの検討が必要であろう。
華厳経の位置づけ
天台宗の教相判釈(経典の内容を分析し、成立の順序や内容の高低を判定する)・五時八教の教判(天台大師智による)では、華厳経は最初に説かれ、
仏のさとったままの言葉を記したもので、凡夫には理解しがたいものとしている。
華厳宗では賢首大師法蔵が華厳五教章のなかで五教十宗判の教相判釈を行い、華厳経および華厳宗を最高の教え(別教一乗)と位置づけ、そもそも仏が悟った一乗真実は、
理として頭で解する必要はなく、ただ肉体で体験すべきものだと考える。
よって天台宗は、華厳宗やその影響の下に成立した禅宗の立場からは、心身不可分ということが不徹底な、学問仏教であるという批判がなされる。
一方天台宗側からは、この華厳宗の立場は、学問的に理で解するという方便がないと凡夫には入門しがたく、
その意味で華厳宗は現実と遊離しがちな理想論だという反論がなりたつ。
浄土宗(じょうどしゅう)は、日本の仏教宗旨のひとつで、法然を宗祖とする。
本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。
浄土専念宗とも呼ばれる。浄土真宗の別称もある(親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗とは別である)。
承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えをひろめた。
この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、
一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故
一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。
「南無阿弥陀仏」は、
阿弥陀仏に帰依(南無)しますの意。阿弥陀佛の選択によって、浄土宗における念仏はここから始まったと言っても過言ではない。
法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。
日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。
法然在世時の歴史は、法然の生涯を
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70 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/04/20(水) 18:20:47.99 ID:OPWbNB0r
参照。法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空・弁長・幸西・長西・隆寛・親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。
嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。
事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、
『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。
法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、1228年(安貞2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。
その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。
すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、
京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として
事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。
だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。
一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。
また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。
その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である
(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。だが、西山派は証空の死後、西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、
鎮西派も良忠の死後に第4祖良暁の白旗派の他、名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になる。
その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観・良栄、白旗派の聖冏・聖聡が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒した。
特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとした。
第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底は松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。
応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承 認を受け、
諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である徳川家康が江戸幕府を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。
特に知恩院の尊照と増上寺の存応は、家康の崇敬を受けた。元和元年(1615年)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、
知恩院が門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。
これにより浄土宗は幕府の手厚い保護を受けることになる。なお、このとき西山派に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されている。

江戸幕府が倒壊したあと、廃仏毀釈の混乱のなかから養?徹定・福田行誡らによって近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一され、

現在の浄土宗の原型が成立する。第二次世界大戦後は金戒光明寺を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする浄土宗本派が分立するが、

1961年の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、1977年に黒谷浄土宗も復帰した。現在の宗教法人としての「浄土宗」の代表役員は宗務総長、責任役員は内局と呼ばれている。

一方、西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺)の

3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院)の勢力も存在する。

総主教庁との連絡を断たない府主教セルギイに対する疑問の声が上がりつつあった。ソ連当局の監視下にあるモスクワ総主教庁との関係を巡り、

見解の差異が教会内に生じて動揺が起こる
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66 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/04/20(水) 18:22:07.25 ID:OPWbNB0r
といった現象は、西欧・米国をはじめとして全世界的に各地正教会にほぼ 例外なくみられたが、日本

正教会もその例外ではなく教会に亀裂が生じた。問題が複雑になったのには国内の事情だけではなく、在外ロシア正教会というソ連からの亡命

ロシア人が中心になって結成した小さくない教会組織が1922年9月13日にセルビアのスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Срем

ски Карловци) を中心に設立され、モスクワとの対決姿勢を鮮明にしていたことにも起因していた。セルギイ・チホミーロフ府主教

は1929年の時点では母国ロシアでの共産主義革命に深い嫌悪感を隠さず、各種著述でも痛烈な言辞で全否定しているが、同時に在外ロシア正

教会の動向に対しても分派的であるとして否定的であった。また年を経るに従って府主教セルギイはソ連の下で弾圧されるロシア正教会の

状況認識に甘さを見せるようになった。ソ連当局による検閲を経て届くモスクワ総主教庁からの手紙の内容を鵜呑みにし、実際にはソ連の下で

激しく弾圧されるロシア正教会が「正常な道を歩んでいる」とまで述べた、弾圧の実情からかけ離れたものとなった府主教セルギイの認識の変

化は、1931年にはセルギイの説教などにも表れて巷間に知られるに至った。こうしたセルギイの認識は亡命ロシア人には到底受け入れられるも

のではなく、亡命ロシア人のみならず反共産主義の気運の高かった日本人信徒の間からも広範な反発が起きるに至った。このような状況下で、

日本政府から日本人主管者を選ぶよう圧力が高まった時、日本正教会は抗すべくもなかった。この時代には日本正教会のみならず国内全ての教

会が何らかの抑圧を受けており(「日本キリスト教史」の「昭和から平成へ」を参照)、この点でも日本正教会は例外では有り得なかった。1940

年(昭和15年)、セルギイ・チホミーロフ府主教は引退を余儀なくされ、後任の人選を巡って紆余曲折を経たのち、ニコライ小野帰一主教が日本

正教会に着座した。それでも当局の監視は緩むことなく、高齢のセルギイ・チホミーロフ府主教は1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受

け、約1ヶ月拘留された。釈放後ほどなくして、同年8月10日、終戦の数日前に府主教セルギイは永眠した。拷問による衰弱死だったとい

われる。74歳であった。11日に遺骸はニコライ堂に安置され、二日後に埋葬式が行われた。牧島省三の憲兵隊との交渉により、軽井沢方面に

居住していた在日ロシア人は許可を得て参列することができた。その後、セルギイ府主教の遺骸は、谷中のニコライ・カサートキン大主教の墓の

隣に埋葬された。戦後すぐ、日本正教会は当局の圧力によって歪められた教会秩序を正常化しようとしたが、容易ではなかった。GHQから、日

本正教会はソ連の影響下にあるモスクワ総主教庁ではなく、のちにアメリカ正教会に発展することになる「北米メトロポリア」と関係を持つよ

う指令されたからである。在外ロシア正教会と北米メトロポリアの間の関係も第二次世界大戦前後の時期にこじれており、在外ロシア正教会の

下にあった主教に叙聖され主教に着任したニコライ小野主教の立場が微妙なものとなった。また、これまであまり関係を持ってこなかった北米

メトロポリアの指導下に入ることについても日本正教会に動揺が起こり、この経緯において、ごく少数ではあったが、北米メトロポリアの指導下

に入らず、モスクワ総主教庁の直接の管轄を受けるグループが形成された。全世界の正教会にとって頭の痛い存在であったソ連邦が存続してい

た以上、ソ連邦の影響下にあるロシア正教会との関係を巡る諸問題は世界的に全正教会に共通したものであり、上述の通り戦後になっても日本

正教会に安寧が訪れることはなかった。戦後すぐから1970年まで、自らの管轄等の諸問題を巡って日本正教会の動揺は大きく続く。この時代

の日本正教会の混乱は極めて大きく全国各地の正教会に及んでおり、様相は二転三転して複雑である。その全貌を公平な立場から俯瞰し記述す

ることは、今なお極めて困難である。この間、日本には北米メトロポリアから主教が派遣されていた。このような状態にありながらも日本正教

会の奉神礼は継続され、新聖堂の建立・新たな聖歌譜の出版等もなされるなど一部では依然として活発な教会活動も継続していたが、日本国内

の西方教会が戦後すぐのころから教勢を大きく拡大していく中、かつてカトリック教会に次ぐ教勢を誇った正教会は教勢を拡大する機会を失い、

停滞を余儀なくされることとなった。ニコライ列聖・自治教会成立-現在1970年に至り、モス
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68 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/20(水) 18:23:42.62 ID:OPWbNB0r
クワ総主教庁と北米メトロポリア、そして日本正教会との間で合意が取り交わされ、北米メトロポリアはアメリカ正教会として独立教会となり、
モスクワと関係を回復した上で日本正教会は自治教会となった。ニコライ・カサートキンは亜使徒として列聖された。この直前(1969年9月)、
経緯説明のためにアレクサンドル・シュメーマン神父が来日している。若干の混乱はいまだ続いていたものの、ここに日本正教会は一応安定す
ることとなった。ウラジミル・ナゴスキーが府主教・東京の大主教に、フェオドシイ永島新二が京都の主教に、セラフィム・シグリストが仙台
の主教に就任した。一方、モスクワの直接管轄下にあったグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。ほどなくしてウラ
ジミル・ナゴスキー府主教が引退すると、フェオドシイ永島新二が府主教に就任。長く日本正教会の指導にあたった。ことにフェオドシイ永島
府主教の下で日本正教会は長らく懸案であった財政基盤を安定的なものとすることに一定程度成功し、自治教会に相応しい内実が整えられてい
った。細々と続いていた出版活動も拡大が図られ、「時課経」「大斎第一週間奉事式略」等の再発行、「主日奉事式」「徹夜祷(聖歌譜)」「諸聖略
伝」の発行等が日本正教会内部向けに行われ、外部向けには長司祭高橋保行、高井寿雄、川又一英などにより活発な著述活動が行われた。日本
正教会の歴史については長司祭牛丸康夫が教団内の研究・史料整理に大きな役割を果たした。フェオドシイ府主教の永眠の後、2000年5月、モ
スクワ総主教アレクシイ2世が来日。モスクワ総主教の訪日は歴史上初めてのものである(逆に言えばロシア正教会は日本正教会の母教会であ
るにもかかわらず、歴史上一度もモスクワ総主教の来日がそれまで無かった事を意味し、亜使徒ニコライ時代から日本正教会が日本人主体で運
営されてきた事がここにも示されている)。アレクシイ2世は、函館・東京・京都を訪れている。アレクシイ2世は京都では京都正教会のほか、
二条城も訪れた。東京では今上天皇と会談。東京復活大聖堂(ニコライ堂)ではアレクシイ2世司祷のもと、ダニイル主代郁夫の府主教選立式
及び首座主教着座式が挙行された。着座式にはアレクシイ2世総主教とダニイル主代府主教のほかに、ロシア正教会の主教2人、アメリカ正教
会の主教2人、日本正教会の主教1人(仙台の主教セラフィム辻永)も参加した。東京の大主教および全日本の府主教ダニイル主代は西日本の
主教を兼任している。現在、ダニイル主代府主教の下で伝道活動の復興が図られている。特にダニイル主代府主教は毎週日曜日に自らの執筆に
よるトラクトを配布し、数々のブックレットを発行するなどして、正教会の精神性についての啓発に力を入れている。代表的なものに『聖神入
門』(2005年、日本ハリストス正教会教団発行)、『聖ディオニシオス・聖マキシム・新神学者シメオン』、『聖師父のこころのあゆみ』がある。
モスクワ総主教庁の直接の管轄下にあって日本正教会と微妙な関係にあったモスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエとの関係はソ連崩壊後、フェオ
ドシイ永島府主教によってポドヴォリエの聖堂が成聖されるほどにまで関係が改善した。ダニイル主代郁夫府主教に日本正教会の首座主教が代
わり、モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ管轄下にある修道院でダニイル府主教も参加した聖体礼儀が行われ、2008年9月12日には目黒の新
聖堂である聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキー聖堂の成聖式には、府主教ダニイル主代郁夫も参加した。東京復活大聖堂教会の成立主の降
誕聖堂(荻窪の山手ハリストス正教会)明治の宣教拡大期から東京にはいくつかの教会が置かれていたが、明治時代から大正時代、昭和初期に
かけて、さまざまな教会が設立されたり統廃合が行われたりするなどしていた。これらの各教会は関東大震災や戦災による混乱も伴った紆余曲
折を経た後、都内の教会は杉並に現存する山手ハリストス正教会の他は、ニコライ堂:東京復活大聖堂を中心に連合した。ただし本格的な組織的
統合は1974年に至ってからであり、この年、都内5つの教会が統合されて「中央教会」が発足した(「ニコライ堂」は大聖堂の通称であり、教
会名ではない)。中央教会は1983年には「東京復活大聖堂教会」と名称を変え、現在に至っている。2004年には「東京復活大聖堂教会創立30
周年記念式典」が執り行われた。宣教師ニコライの全日記刊行亜使徒大主教聖ニコライとして列聖されたニコライ・カサートキンについて、そ
の日記が存在していたことそのものは日本正教会の内部にも知られていたものの、おそらく関東大震災で散逸し失われたものと思われていた。
ところが1979年9月、中村健之介により、レニングラード(現サンクトペテル ブ
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64 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/20(水) 18:24:12.25 ID:OPWbNB0r
ルク)の中央国立歴史古文書館に保管されていた聖ニコライの日記の全てが発見された。2007年7月20日、日本語の全訳版が教文館より出版
された。この出版にあたっては日本財団から助成もなされた。全国を行脚していた聖ニコライによる詳細な日記の記述は、日本正教会史に新た
な一級史料を提供するのみならず、全国各地を訪れた聖ニコライによって観察された各地の習俗についての貴重な記録となるものでもあると評
価されている。関連:設計監督者の系譜1916年の函館ハリストス正教会の再建の際に設計監督にあたったのは、輔祭(のち司祭)として日本
正教会に奉職していたモイセイ河村伊蔵である。河村は豊橋ハリストス正教会の設計監督にも当たった。モイセイ河村の息子である内井進は建
築を本業とし、金成ハリストス正教会と小田原ハリストス正教会の両聖堂、およびニコライ堂のイコノスタスの設計に関わっている。内井進の
息子であるガウリイル内井昭蔵も建築家であり正教のクリスチャンである。皇居:吹上御苑の新御所、世田谷美術館、浦添市美術館などを手が
けた。著書『ロシアビザンチン 黄金の環を訪ねて』(丸善)は建築家としての視点と正教徒としての視点の両方から黄金の環・キエフ・サンク
トペテルブルクに存在する、主に正教会の聖堂を中心としてロシア建築を概観していくという珍しい書物である。埋葬式はニコライ堂で盛大に
行われた。永眠のほぼ直前の時期に、ニコライ堂のイコノスタスに新品のイコンを献納している。世俗的政治問題に対する姿勢近年、日本のキ
リスト教諸教団が「靖国問題」や「憲法問題」など政治運動に熱心に取り組んでいるなか、信徒個人としては大井憲太郎、昇曙夢など政治に携
わった者がいたものの、日本ハリストス正教会は他の諸教団とは一線を画して、正教会という団体としては政治運動と一切関わりを持っていな
い。これについては「政治的中立性を保っている」という評価から、「体制従属的である」という批判までさまざまである。因みに「体制従属的
である」という批判の声が挙がる一因として、天皇と為政者のための祈りがあるが、この祈りは新約聖書の中のテモテへの手紙一第2章の「願
いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」という記述に基づくものと
される。諸外国の正教会では君主や為政者への祈りを捧げることは珍しくない。イギリスの正教会では女王のために祈りを捧げ、またアメリカ
合衆国では大統領と全軍のために祈りを捧げることで、君主や為政者、国軍が暴走をせず国民の平和と安寧秩序のためになるようにとの願いを
常に込めているとされる。日本ハリストス正教会による天皇と為政者への祈りも同様の意義をもつ。また、現日本国憲法下において天皇の地位
が日本国民の統合の象徴であることから、天皇への祈りは即ち日本国民全体への聖なる祈りであるとの意味合いも込められているとされる。ロ
ーマ帝国時代からオスマン帝国、ソビエト連邦において迫害を受けていた時期にも、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音
書5:44)の実践として異教徒である為政者のための祈りを正教会は行ってきたのであり、この観点から「敵のための祈り」の実践であるとの見
解もある。なお、モスクワ総主教庁が管轄している、ロシア人・ウクライナ人などの信徒が大多数である、駒込のロシア正教会モスクワ総主教
庁駐日ポドヴォリエでも、連祷などでロシアの国のための祈りのみならず、日本の天皇のための祈りが行われ ている。「その国の象徴・元首のた
めに祈る」のは民族主義的な色彩や「体制迎合」では説明できない伝統であることが示されている。この他に、海外の軍隊(主に東欧、また米
軍にも)では正教の従軍司祭も存在する。日本正教会に於いては、当然のことながら日本の法規制を受ける。そのひとつが、死んだ信者の亡骸
の扱いである。本来キリスト教においては、信者の亡骸は将来の復活に備え土葬とすることが基本とされ、ロシア正教ではそ のことがより厳密
に求められている。しかし、日本は国土が狭く、なおかつ気候条件から亡骸が腐乱しやすいため、墓地埋葬法やこれに基づく自治体の条例によ
り、ほとんどの地域で亡骸は焼いて骨だけにしなければならなくなっている。このため、日本正教会では、火葬もやむなしとしており、火葬す
る場合であっても葬儀を「埋葬式」として扱っている。近年では、2009年に癌で死去した歌手の川村カオリが、この事例に該当(モスクワで生
まれ母親がロシア人であったため幼くして洗礼を受けていた)。中国正教会(ちゅうごくせいきょうかい)は、正教会の中国における自治教会。
中国には他に、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあり、中国のみな


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