トップページ > チア > 2016年04月11日 > Jl+HkoLd

書き込み順位&時間帯一覧

3 位/79 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数0000000000000000000000257



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
名無しさん@お腹いっぱい。
チア関連イベント情報82 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
チア関連イベント情報71 [転載禁止]©2ch.net

書き込みレス一覧

チア関連イベント情報82 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
14 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/11(月) 22:47:42.07 ID:Jl+HkoLd
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永眠の際には、ロシ
チア関連イベント情報71 [転載禁止]©2ch.net
211 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/11(月) 22:54:58.54 ID:Jl+HkoLd
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永眠の際には、ロシ
チア関連イベント情報82 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
16 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/11(月) 23:01:04.99 ID:Jl+HkoLd
ア正教会渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と
目されるキリル府主教(肩書当時)が弔問に訪れてもいる。駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられたロシア正教会の聖堂である、アレク
サンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に成聖するためにキリル府主教がイタリアを訪れた際には、ローマ教皇ベネディクト16世
とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名にお
いて祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた。また歴史的に、ロシア正教会は一貫
して反西方教会一色であった訳ではない。神学上・教会法上の一定の親和性があったこと、ロシアのロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴ
ァー朝が親戚関係にあったこと、ウクライナにおけるローマカトリック教会との深刻な管轄対立に類するような問題がないこと等から、聖公会
との関係深化の話し合いはロシア革命までは継続されていた。ただし2010年現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくな
っている。日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭(のち大主教)ニコライである。正教会は、三国干渉、日露戦争などにより日本におけ
る対露感情が悪化していく悪条件の中、一時期はカトリック教会に次ぐ教勢を獲得するに至った。しかしながらニコライ死後、ロシア革命の勃
発により、宗教弾圧を行う共産主義政権の下で監視下にあるモスクワ総主教庁の指導下にあり続ける事への不安や疑義から、日本の正教会内に
おいてもロシア正教会と距離を置くべきとする議論が高まった。この流れの中で、戦前には日本正教会は在外ロシア正教会で主教が叙聖される
などしてこれと関係をもち(ニコライ小野帰一)、戦後はGHQの圧力もあってアメリカ正教会の身である北米メトロポリアの指導下に入った。
1970年になり、北米メトロポリアがモスクワ総主教庁との関係を回復して独立正教会になるに際し、日本ハリストス正教会もモスクワ総主教庁
との関係を回復して自治教会となった。首座主教である全日本の府主教の認可はモスクワ総主教によって行われる一方、財政と信仰生活は完全
にロシア正教会から独立しており、教会運営においてほぼ完全な自治を行っている。ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、ロシア正
教会駐日ポドヴォリエ(国家における大使館的な役割を果たす、正教会における組織の種別)がある。元来は、原始キリスト教の五大総主教座
(ローマ、コンスタンディヌポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、きわめて古い伝統をもつ。かつては東ロ
ーマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシ
ャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東
ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂
(現・アヤソフィア博物館)に置かれていた。東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布し
ているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンディヌーポリ総主教が
皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対
的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンディヌーポリ総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。詳細は「皇帝教皇
主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、
ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の
大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリ
シャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンディヌーポリ総
主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[5][6]という称号を持ち、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。
敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛するこ
とに成功したが、北フィンラン
チア関連イベント情報82 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
17 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/11(月) 23:16:39.39 ID:Jl+HkoLd
ドはスウェーデン領となった。16世紀末には、トリフォンが建てたペツァモの修道院がフィンランド人兵士によ
り1590年に完全に破壊され、修道士も全員が殺害された。フィンランドの大半がカトリック教会を奉じるスウェーデンに編入されたのに対し、
カレリア地方のみはノヴゴロド共和国に最終的に編入されることとなり(1323年)、正教圏に入ることとなった。ただし教会の実態はノヴゴロ
ド大主教からは半ば独立していた。1400年までに、カレリアには7教区が設置され、それぞれの教区にいくつかの教会・聖堂が所属していた。
カレリア地方における正教の発展・展開は非常に緩やかなものであったが、16世紀にはノヴゴロド大主教マカリイにより、異教的要素から正教
を純化しようとする精神的刷新が図られた。マカリイ大主教は1534年にロシア人修道士イリヤをカレリアに送り、異教のカルト的習慣を根絶
することを命じた。イリヤは組織運営の能力と説教において有能な修道士であり、異教の習慣はカレリアから消えるに至った。1617年、カレリ
アの大半の領域がルター派を国教とするスウェーデンに領有された。このことによる狂信的な空気の醸成により、カレリアにおける宗教的闘争
が、ルター派から正教会に対して始められることとなった。3分の2の正教徒がロシアに逃れ、少数はルター派に改宗したが、困難な情勢下に
あって残りの正教徒は自分達の信仰を守った。1721年にカレリアの大半がロシア帝国に領有され、1809年には全フィンランドがロシア帝国領と
なったことにより、18世紀・19世紀を通じてカレリアの正教会も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会のもとに入った。19
世紀末に入ると、ナショナリズムがカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義に対応するものであり、カレリア人・フィンラ
ンド人は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショ
ナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語に代えてフィンランド語を奉神礼の言語として採用し、奉神礼における祈祷
書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年にはフィンランド教区が設
立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。1917
年にロシア革命によりフィンランドが独立すると、フィンランド教会は自治教会としての地位を宣言した。フィンランド正教会におきていたナ
ショナリズム的な動きを支援し、ロシアへの留学に頼っていた聖職者の養成を国内で行えるよう、フィンランド政府から1918年から援助が行
われ神学校が設立された。フィンランド教会の自治教会としての地位は、モスクワ総主教ティーホンにより1921年に承認された。しかし1923年
にフィンランド正教会がコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下に入ることを決定すると、1924年にモスクワ総主教からのフィンランド正教
会の自治正教会位承認は破棄された。その後長い間、フィンランド教会はモスクワ総主教からの自治正教会位承認の回復にむけて外交努力を行
っていたが、1957年に、モスクワ総主教はコンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあるフィンランド正教会の自治正教会位を承認した。両大
戦間期に、フィンランド正教会は二番目の国教としての承認を国家から得た。フィンランド正教会は財政上の支援を国庫から受けることとなり、
これに伴い、世俗の行政と調和させるために教区の再編成が行われた。1940年代、冬戦争・継続戦争の戦禍やモスクワ講和条約による国境変動
に伴い、ソ連政府による宗教弾圧政策を避けるためなどの理由から、約70%の正教徒がカレリアからフィンランドに亡命した。旧ソ連当局によ
る宗教弾圧を避けてヴァラーム修道院から移住を余儀なくされた修道士達はフィンランドのヘイナヴェシ(Heinavesi)に移り、当地に新ヴァ
ラモ修道院を設立した。これは現在も存続し、フィンランド正教会の重要な修道院となっている。その後、フィンランドの二つ目の国教となっ
たフィンランド正教会は、順調に教会活動を継続し発展している。現在、フィンランド正教会の信徒数は約6万人。新ヴァラモ修道院とリントゥ
ラ至聖三者女子修道院の、二つの修道院がフィンランド正教会に存在する。教区は3つとなっている。黎明期にあって大きな役割を果たしたヴ
ァラーム修道院は、ソ連時代には共産主義政権による宗教弾圧政策により閉鎖されていたが、現在ではロシア連邦の領土内にあって再開されて
いる。ただし所属はロシア正教会である。日本人正教徒イコン画家であるペトロス佐々木巌はフィンランド正教会で活
チア関連イベント情報82 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
18 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/11(月) 23:29:54.28 ID:Jl+HkoLd
躍し、多くのイコンを聖
堂等のために描いた。一部作品は日本正教会にも献納されている。この他に、ロシア正教会所属の教会がフィンランドにいくつか設立されてお
り、こちらに所属する信徒数は約2000人となっているアレクサンドリア総主教庁は、パパ・アレクサンドリア総主教の機関・座所を言う。ア
レクサンドリア総主教は現在2人いる。ギリシャ正教・東方正教会とも呼ばれる正教会の総主教コプト正教会(非カルケドン派)の総主教また、
カトリック教会にアレクサンドリア総大司教がいる。古代5主教座のひとつ、アレクサンドリア教会の流れを汲む。長くエジプトのアレクサン
ドリアにおかれたが、現在の所在地はカイロである。ギリシャ正教のアレクサンドリア総主教も、コプト正教会のアレクサンドリア総主教も、
いずれもパパ(ギリシャ語:π?πα?、英語:Pope)の称号を有し、その称号はアレクサンドリアおよび全アフリカのパパならびに総主教であ
る。なお「パパ」は「教皇」と訳される事があるが、「教皇」は日本のカトリック教会における「パパ」の日本語訳であって、日本正教会ではあ
まり用いられない(完全に用いられない訳ではなく、用いられている媒体も稀に存在する)。初代アレクサンドリア主教が誰であるかは史料によ
り異なる。福音記者マルコであるとする史料と、マルコが宣教し初代主教を任じたとする史料の二種がある。いずれにせよ、ギリシャ正教側も
コプト正教会側も、福音記者マルコを初代アレクサンドリア総主教に数えている。また、東西教会の分裂以降、ローマ・カトリックの傘下に、
アレクサンドリア総大司教座とコプト典礼の総大司教座が存在する。ギリシャ正教とも呼ばれる正教会のアレクサンドリア総主教は、殆どの場
合ギリシャ人が務めており、コンスタンディヌーポリ全地総主教との結びつきのもとにある。アクレサンドリア総主教庁は活発にアフリカ各地
及びマダガスカルに宣教活動を行い、一定の成果を挙げている。現在の教皇アレクサンドリア総主教はセオドロス2世である。コプト正教会は、
カルケドン公会議から生じた非カルケドン派(単性論派とも呼ばれる事があるが、コプト正教会は単性論派と呼ばれる事を拒否する)の教会で
ある。コプト正教会の現在の教皇アレクサンドリア総主教は2012年のシェヌーダ3世の死去に伴い同年に選出された、第118代教皇のタワド
ロス2世である。大都市アレクサンドリアのパパ・大主教、聖マルコの聖にして正しく神を讃美する使徒の教区たるエジプト・ペンタポリス・
リビア・ヌビア・スーダン・エチオピア・エリトリア・および全アフリカの総主教聖致命者福音記者聖マルコの、大都市アレクサンドリアの聖
座にある後継者アンティオキア総主教庁(アンティオキアそうしゅきょうちょう、現代ギリシア語:Πατριαρχε?ον ?ντιοχε?α?, 英語:
Greek Orthodox Patriarchate of Antioch and All the East, アラビア語:アラビア語: ???????? ??????? ????? ?????? ????? ??????????)は正
教会に属する教会。古代の五総主教座のひとつである。正式名称は「アンティオキアおよび全東方の総主教庁」。アンティオキア正教会と呼ばれ
ることもある。シリアにおける教会の中では最大多数派。初代総主教を使徒ペトロとしている。現在の総主教はイオアン10世(2013年 - )で
ある。アンティオキア総主教庁は公式には現トルコ領内のアンティオキアに置かれるが、実際の執務はシリアのダマスカスでなされている。古
代のアンティオキア教会の流れを汲み、現存するキリスト教会のなかでも最古の教会に属する。現在はシリアのほか、アメリカ・ヨーロッパ各
国にも教区をもつ。信者はアラビア語使用者および英語使用者を主とする。正教会のなかでも活発な宣教活動で知られる。なお、非カルケドン
派のシリア正教会にもアンティオキア総主教が存在する。2011年末以来のシリア騒乱において、非カルケドン派(アルメニア使徒教会・シリア
正教会)、東方典礼カトリック教会とともにラム系過激派による破壊活動を受けている。聖堂の破壊といった物的損害にとどまらず、2012年初頭
には司祭が殺害され、2013年4月にはアンティオキア正教会の主教とシリア正教の主教の計2名が誘拐されるなど、人的被害も拡大している。
エルサレム総主教庁(エルサレムそうしゅきょうちょう)は正教会の9つの総主教庁の一つ。古代5総主教座のひとつであるとともに、新約聖
書「使徒行伝」 で初代教会とされるエルサレム教会につらなるキリスト教世界最古の歴史をもつ。451年までエルサレムには正教の主教座が置
かれていたが、カルケドン公会議でエルサレム主教に総主教の地位が認められたため、以後は総主教を名乗っている。記録に残る最古のエルサ
レム総主教は62年のヤコブであり、こ
チア関連イベント情報82 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
19 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/11(月) 23:36:30.46 ID:Jl+HkoLd
れは伝承によれば「主の兄弟ヤコブ」と同一の人物である。イスラム教登場後、パレスチナがアラブ人
に征服された後、イスラム教徒はエルサレムはこの地方におけるキリスト教の中心地でありエルサレム総主教がその指導者であると認識した。
十字軍のエルサレム攻囲戦後の1099年、ローマ・カトリックによる十字軍はエルサレムに西方教会の司教を任じ、正教の主教をエルサレムか
ら追放し、1187年に到るまで正教のエルサレム総主教はコンスタンティノポリスに在住した。今日ではエルサレム総主教庁はエルサレムの聖墳
墓教会に置かれている。ルジア正教会(正式名称:グルジア使徒伝承独立正教会、グルジア語: ??????????? ??????????????? ??????????
???????; Saqartvelos Samotsiqulo Avtokepaluri Martlmadidebeli Eklesia, 英語: Georgian Apostolic Autocephalous Orthodox Church)
は、現在のグルジア共和国の中心部に「全グルジアのカトリコス総主教」を長とする聖シノド(英語:Holy Synod)を置く、正教会の一員たる独
立教会である。正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(グルジア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ルーマニア正
教会、ロシア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。4
世紀に国教化した歴史の長い教会で、伝承による起源は初めてコーカサス地方(古代のコルキス Colkis、イベリア Iberia)へ宣教した1世紀
のアンデレ(聖使徒アンドレイ)まで遡る。 他の聖伝では、熱心党のシモン(聖使徒シモン・カナニト)がコーカサスへ旅してグルジア西部へ
宣教し、コマニ Comani 村のソフミ Sokhumi の近くへ埋葬されている。また、マティアス(聖使徒マトフィイ)がグルジア南西部へ宣教してい
たとも言われており、こちらはバトゥミの近郊のゴニオ Gonio 村に埋葬されている。使徒バルトロマイ(聖使徒ワルフォロメイ)とタダイ(聖
使徒ユダ・ファデイ)がグルジアに来ていたことを主張する文書が幾つかある。史料によって疑問の余地なしとされる大規模な宣教は、啓蒙者
グレゴリオスと、グルジアの光照者:聖ニノ(ニーナとも)により4世紀の前半に行われた。4世紀には独立正教会の地位を得たが、19世紀初
頭にロシア帝国にグルジアが併合されると、その地位は破棄され、グルジアの教区はロシア正教会のもとに編入され、グルジアのエクザルフの
職位が設けられた。1917年のロシア革命時に、グルジア正教会は独立を回復し、1943年にモスクワ総主教庁から、1990年にコンスタンディヌ
ーポリ総主教庁から独立正教会としての承認を得た。ロシア正教会やアルバニア正教会と同様、20世紀に共産主義政権によって弾圧を被ったが、
ソ連崩壊後は復興を遂げている。現在の総主教は全グルジアのカトリコス総主教・ムツヘタとトビリシの大主教イリヤ2世である。2009年、ア
ブハジア正教会(英語版)は自ら独立教会であると宣言した。ブルガリア正教会(ブルガリアせいきょうかい)は、世界の正教会とフル・コミ
ュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。正教会は一カ国に一
つの教会組織をそなえることが原則だが(ブルガリア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外
もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。スラヴ系教会のなかでは最も古く独立正教
会となった(9世紀末に成立)。ブルガリア王ボリス1世のキリスト教への改宗に起源を持ち、927年、次代の王シメオン1世の指導下にコンス
タンディヌーポリ総主教座から独立した正教会が確立された。現在、ブルガリア国内に約650万人、他のヨーロッパ諸国や北米に100万から
200万人の信徒を持つ。現在の最高指導者はマクシム総主教で、1971年に前任者の死没に伴って総主教に選出された。マクシム総主教は2009
年12月現在で、全世界の正教会で最も高齢の首座主教である。ブルガリア正教会は自身を、唯一、聖、公、使徒教会と不可分の一員であると
し、総主教庁の名の下に自律している。ブルガリア共和国内では13の主教区がり、加えて西欧・中欧・米州・オーストラリアにおけるブルガ
リア人のための2つの教区がある。ブルガリア正教会の主教区は58の管轄区に細分され、2600の教会にさらに分けられて構成されている。
ブルガリア正教会の全領域における最高の聖職・教会司法・管轄の効力は、聖シノドによって行使されている。聖シノドには総主教、教区における
高位聖職たる府主教が含まれる。教会における教会生活は教区司祭によって指導されるが、教区司祭の数は1500人である。ブルガリア正教会
チア関連イベント情報82 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
20 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/11(月) 23:45:16.76 ID:Jl+HkoLd
にはブルガリア国内に120の修道院があり、2000人の修道士と、ほぼ同数の修道女とがいる。ブルガリア正教会の起源は、1世紀の初代教会
時代にバルカン半島において成長したキリスト教共同体・教会にある。キリスト教はその初期共同体が編成されていった1世紀に、使徒パウロ
と使徒アンデレによってブルガリアおよび他のバルカン半島地域によってもたらされた4世紀初頭には、キリスト教はこの地域で主要な宗教と
なっていた。セルディカ(ソフィア)、フィリポポリス(プロヴディフ)、オデッスス(ヴァルナ)、アドリアノープル(エディルネ)は、ローマ帝
国における重要なキリスト教の中心地であった。4世紀・5世紀における蛮族の侵攻・進入と、6世紀・7世紀におけるスラヴ人とブルガール
人の定住により、直接的な破壊行為は伴われなかったにも関わらず、ブルガリア地方におけるキリスト教教会組織はかなりのダメージを受けた
。キリスト教は、生き残ったキリスト教徒から周囲の多数派であるスラヴ人に対して広がり始めた。9世紀半ばには、特にトラキア、マケドニ
アに住む、ブルガリアのスラヴ人の多数派がキリスト教化されるに至った。この改宗の過程においてブルガール人貴族においても同様のキリス
ト教化がなされた。ブルガリアのツァールボリス1世がキリスト教を公式に865年に採用してはじめて、ブルガリア教会の独立教会としての位
置づけが確立された。ボリス1世は、ブルガリアのキリスト教の進歩、統治と威信は、独立正教会によって管掌される賢明な聖職者によって達
成する事が出来ると信じていた。最終的に、870年までの5年間の間にコンスタンディヌーポリ総主教とローマ教皇の間を巧みに操り、結果、
第4コンスタンティノポリス公会議においてブルガリア大主教区に対して自治権が与えられた。大主教座はブルガリアの首都プリスカ(Pliska)
に置かれ、ブルガリア国家の全領域を管掌した。コンスタンディヌーポリ総主教とローマ教皇の間でのブルガリア大主教区における主導権争い
は、コンスタンディヌーポリ総主教側の下にブルガリア大主教区が入る事に決着し、最初の首座主教、聖職者、および神学書もコンスタンディ
ヌーポリ総主教側からブルガリアにもたらされた。大主教区は国内における完全な自治を享受していたが、ボリス1世の目標は殆ど達成されな
かった。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の聖職者からもたらされたギリシャ語奉神礼は、ブルガリア人の文化的進歩を促進せず、ブルガリ
ア国家の統合にも寄与しなかった。このことは結局、ブルガリアの国家・民族のアイデンティティの喪失に繋がるものであった。ボリス1世は
886年に、キュリロスとメトディオスの弟子達(オフリドのクリメントもその中に含まれていた)が到着した事を一つの機会として歓迎した。
ボリス1世は彼らに、将来のブルガリア人聖職者に対して、グラゴル文字と、キュリロスとメトディオスにより用意されたスラブ語奉神礼を教
えるという任務を課した。この奉神礼はテッサロニキから来たマケドニアのスラヴ人に固有のものに則っていた。893年、ボリス1世はギリシ
ャ人聖職者をブルガリアから追放し、ギリシャ語をスラヴ・ブルガリアの母語に置き換えるよう命令した。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)
に対するアヘロイの戦い(Battle of Acheloos、こんにちのポモリエの近くで行われたもの)とカタシルタイの戦い(Battle of Katasyrtai)にお
ける二つの決定的な勝利の後、ブルガリア国家は、919年に開催された教会および国家会議において、自治正教会としてのブルガリア大主教区
を独立正教会とし、首座を総主教位に昇格させる事を宣言した。ブルガリアとビザンティン帝国の間で、20年間の長きにわたる戦争を終わらせ
る和平が927年に締結された後、コンスタンディヌーポリ総主教庁はブルガリア正教会の独立正教会としての地位と総主教位を承認した。ブル
ガリア総主教庁ははじめてのスラヴ系独立正教会であった。これはセルビア正教会の独立正教会位獲得の1219年より約300年、ロシア正教会
の独立正教会位獲得の1596年より約600年早い。また、ローマ、コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)、エルサレム、アレクサ
ンドリア、アンティオキアに続く、6番目の総主教区でもある。総主教座は新しいブルガリアの首都であるプレスラフに置かれた。総主教は致
なお、親鸞は生前に著した『高僧和讃』において、法然(源空)について「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、
浄土真宗は法然が開いた教えと解した。親鸞は越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。
親鸞の没後に、親鸞を師と仰ぐ者は自らの教義こそ浄


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。