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138 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/07(木) 15:41:10.06 ID:hb8VhvxP
日蓮宗一致派初代管長)らの活動で、身延山久遠寺(山梨・身延門流)、長栄山本門寺(東京池上・比企谷門流)、正中山法華経寺(千葉・中山門流)、具足山妙顕寺(京都・四条門流)、大光山本圀寺(京都・六条門流)、妙塔山妙満寺(京都・什門流)、
長久山本成寺(越後・陣門流)を七大本山とする制度を実施した。しかし、これに京都要法寺を始めとする興門派及び八品派や一致派本山から異論が噴出する。教部省に訴えた結果、七本山の企ては頓挫し、
管長は一致派・勝劣派に拘らない年番交代となった。その後1874年 (明治7年) 3月、宗教行政の無理さや教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれたため、管長も各派別におくこととなる。
前者は一致派全門流の合同教団となり、身延山久遠寺の新居日薩が初代管長に就任した。現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山、霊跡寺院、由緒寺院、一般寺院に分けられている。江戸時代の本末制度に始まる寺格は昭和16年の本末解体で消滅し実態はないが、
日蓮宗宗制では総本山・大本山・本山の称号を用いることができると規定されている。祖山は日蓮の遺言に従い遺骨が埋葬された祖廟がある身延山久遠寺(日蓮棲神の霊山とされる)で、貫首を法主と称する。霊跡寺院は日蓮一代の重要な事跡、
由緒寺院は宗門史上顕著な沿革のある寺院で、住職(法律上の代表役員)を貫首と称する。祖山、霊跡寺院、由緒寺院は「日蓮宗全国本山会」を組織している。総裁は身延山久遠寺内野日總法主、会長は飯田本興寺浅井日彰貫首、
事務局長は北野立本寺上田日瑞貫首。融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)は、浄土教の宗派の一つ。大阪市平野区にある大念仏寺を総本山とする。平安時代末期の永久5年5月15日(1117年6月16日)に天台宗の僧侶である聖応大師良忍が大原来迎院にて修行中、
阿弥陀如来から速疾往生(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」を授かり開宗した。大念仏宗(だいねんぶつしゅう)とも言う。
良忍が始めた融通念仏は当初は勧進行脚が主で、仏教宗派としての組織を持たず集団運動の中から発展したものであった。大阪の平野の大念仏寺をはじめ、京都の清凉寺や壬生寺などで融通念仏が盛んになり、壬生寺や清凉寺、千本閻魔堂、
神泉苑には融通念仏の中興者である円覚上人による大念仏狂言が伝えられている。寿永元年(1182)に第6世良鎮が没すると、元亨元年(1321)まで139年間法統が途絶えたが、第7世法明によって中興された。
法明は宗門の中断中に石清水八幡宮に預けられていた宗の法宝物を再び受け取り、大念仏寺住職を選出する六別時制度を定めたとされる。戦国時代の頃から宗派としての色合いを帯びはじめたが、大念仏寺の法統が何度も絶え、
融通念仏の寺も他宗派の寺院となり勢いは振るわなかった。元禄年間(1688〜1703)に、融通念仏再興の祖とされる大念仏寺第46世の大通が融通念仏の復興に努め、「融通円門章」等により教義を明文化し、一宗としての制規を定め、
学寮も設けるなかで融通念仏宗として整備されていった。「融通円門章」は漢文体で難解なため、その弊を補うために和文形式で書かれた「融通念仏信解章」も広く普及した。江戸時代、信州善光寺別当・等順上人が、浅間山大噴火、
天明の大飢饉における民衆救済に尽力した時に、融通念佛血脈譜を簡素化(通称・「お血脈」)、
参拝者に免罪符のように配布し、全国各地を回った。簡素化された融通念佛血脈譜は評判を生み、等順は生涯で約180万部配布、善光寺信仰の普及に大きな役割を果たし、落語の「お血脈」の題材になった。
江戸中期以降の善光寺の発展は、当時の権力者の庇護と、等順を頂点にした念仏勧進聖の活躍、 そして融通念佛の民族宗教性とによるところが大きいとされる。
本山に伝えられた絵巻に『融通念仏縁起』がある。融通念仏の最大の特徴は、観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事であり、融通念仏宗では、毎朝西方に向かって良忍の説いた十界一念・自他融通の浄土往生を期する念仏(融通念仏)を十唱することなどを日課とする。
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、
その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、
一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行
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149 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/07(木) 19:28:10.98 ID:hb8VhvxP
末寺帳』が事実上の初見である。
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、
念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。 時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
時宗(時衆)の語源は、「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して
念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。
一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿真教である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った。
4代目を巡って当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。
遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。室町時代中頃に猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、
同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、様々な困難を伴った。教団が発展する中で、
順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。
江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が「時宗」という単一の宗派に統合され、その中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。
主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。
一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。
1871年(明治4年)、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で時宗の金城湯池といわれた薩摩藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。
過ぎること昭和になった1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争(大東亜戦争)中は時宗報国会を組織し、満州の奉天に遊行寺別院を設けるなど政府に協力した。
戦争中の1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。2004年(平成16年)、遊行73代・藤沢56世他阿一雲上人が病気により引退した。
戒名は法名と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一房」号ないし「仏房」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を用いる。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は男は「阿弥」号、女は「弌房」号である。
折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。一遍の出身である河野家の家紋。
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、?仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、
日本においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。
中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南岳懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、
黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も
元来、中国臨済宗の一派である。
歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄に始まる。臨済は黄檗希運の弟子であり、河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府節度
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190 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/07(木) 20:09:43.47 ID:hb8VhvxP
使の王紹懿(中文版、英語版)(?−866年、禅録では王常侍)を支持基盤として
宗勢を伸張したが、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延昭である。
臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋代であり、石霜楚円の門下より、ともに江西省を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。
南宋代になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063 - 1135年)の弟子の大慧宗杲が、浙江省を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。
その後、臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。
釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。
とくに室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれた。その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。
師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、
現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。
それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。
師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。
新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。
師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。
禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。
仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。    
悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。
いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。
宋代以降公案の体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。
これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。
黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。唐の僧・黄檗希運(? - 850年)の名に由来[1]する。黄檗は臨済義玄(?−867年)の師である。
臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。本山は隠元隆g(1592 - 1673年)の開いた、京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺である。
日本では、江戸時代初期の1654年(承応3年)に明末清初の中国から招聘された中国臨済宗の隠元隆gにより始まる。
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273 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/07(木) 20:14:07.12 ID:hb8VhvxP
1740年(元文5年)に第14代住持に和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。
隠元の禅は、鎌倉時代の日本臨済宗の祖である円爾(1202 - 1280年)や無学祖元(1226 - 1286年)等の師でもある無準師範(1177 - 1249年)の法系を嗣ぐ臨済禅であり、
当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。
幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光(1630 - 1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めたため、次第に教勢が拡大した。
萬福寺の塔頭は33ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。
1874年(明治7年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、1876年(明治9年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。
隠元の法孫に当たる鉄眼道光は艱難辛苦の末に、隠元のもたらした明版大蔵経を元版とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』といわれる大蔵経を開刻・刊行した。
これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、了翁道覚(1630 - 1707年)は錦袋円(きんたいえん)という漢方薬の販売により、
収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。
後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。
黄檗宗に於ける読経は、現在も古い中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐韻(とういん)」と呼ぶ。
法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。
唐代、638年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して、ヴァスバンドゥ(世親、vasubandhu)の『唯識三十頌』をダルマパーラ(護法、dharmapaala)が注釈した唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した。
この論を中心に、『解深密経』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。
この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的なものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。
また、基と同じ玄奘の門人である圓測の系統も広義では法相宗と呼び、門人の道證の時代に隆盛を迎えたが以後に人を得ず開元年間には基の系統に吸収されてしまった。
玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、
武周朝(690年 - 705年)に法蔵の華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰え、安史の乱や会昌の廃仏によって致命的な打撃を受けた。
その後、宋・元の頃に中国仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられているが、詳細は不明である。
法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、
一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。
実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、
という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。
さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。
三性とは、事物は縁起に依るという依他起性、それに気付かずに執着するという遍計所執性、縁起を覚って円らかになる円成実性である。
基は師の玄奘が訳出した『成唯識論』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶことを合わせて性相学という。(→唯識)
日本仏教での法相宗は、南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。
653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄ムも、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。
なかでも玄ムは興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
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151 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/04/07(木) 21:02:15.65 ID:hb8VhvxP
8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。
徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。
元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。
平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、
また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。
中国では、日本と異なり、正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったため、古くから研究が行われた。
東晋代に、『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化した。北魏では、法聡が四分律宗を開宗した。
その後、地論宗に属する慧光(468年 - 537年)が律宗の勢力を拡張した。
唐代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、周秀・道世・弘景らの僧が出た。
道宣の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている。
一方、法励(569年 - 635年)が『四分律』を研究し、相部宗を開いた。その弟子、懐素(625年 - 698年)は、法励の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗した。
その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、宋代まで伝承された。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。
日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分に理解されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。
天平勝宝5年(753年)、鑑真が6度の航海の末に唐から招来され、東大寺に戒壇を開き聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。
後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いている。
鑑真が伝えたのは『四分律』によるものであったが、平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、空海は『十誦律』を重んじた(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、
空海は受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある)。このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰微した。
また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、官僧の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。
平安時代末期から鎌倉時代には実範・明恵が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎2年(1236年)覚盛・有厳・円晴・叡尊の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。
後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗を開いた。
更に京都泉涌寺の俊?が南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊?の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。
この3派の革新派を「新義律」と呼称して、それ以前の「古義律」と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、
中世には禅宗と律宗を合わせて「禅律」とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出現して再度戒律復興が唱えられた。
なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、1900年(明治33年)律宗として独立した。
中国において、大乗仏典のひとつ『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派である。
開祖は杜順(557年-640年)、第2祖は智儼(602年-668年)、第3祖は法蔵(643年-712年)、第4祖は澄観(738年-839年)、第5祖は宗密(780年-839年)と相承されている。
この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ)と龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。
また朝鮮半島(古代新羅)にも伝わり、義湘(ウィサン)によって広められる。
日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。
金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像


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